歴史のお話その292:語り継がれる伝説、伝承、物語79
<辻 政信氏の失踪:その①>

◎「潜行三千里」の主人公
一国の国会議員が外国で行方不明に成るという事は、その国にとって重大事件です。
海外で行方不明に成った日本人は少なく有りませんが、参議院議員・辻 政信氏が旅行先の東南アジアで謎の様に消えた事件は、日本におけるこの種の事件の中で、最も不可思議な事件なのです。
現職の国会議員が、国会議員という身分で海外旅行に出て、そのまま行方不明に成ったのですから、国会、政府、公安とあらゆる機関が、最高レベルで捜索活動を行ったものの、辻氏の足取りは、或る一点から先が、全く不明になっており、生存、死亡も当時確認されませんでした。
辻 政信氏の捜索は、現代日本の人捜しの中でも、最も興味深いケースと思われます。
辻氏は、当時58歳、昭和27年第25回総選挙に石川県一区から最高点で当選以来、衆議院に3回当選、昭和34年には、参議院全国区から当選しました。
しかし、政治家としての経歴より、辻氏にはそれ以前の経歴に一層興味をそそられます。
陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸軍大学を首席で卒業した秀才中の秀才。
昭和16年、太平洋戦争勃発とともに、日本陸軍が破竹の快進撃をしたシンガポール攻略作戦を、作戦参謀として指揮、一躍その名前を高めました。
更にガダルカナル、インパール作戦等の参謀を務め、戦争終結時には、陸軍大佐でした。
終戦当時、中国大陸に居た辻氏は、直ちに連合国側から、最重要戦争犯罪人に指定され、アメリカ、イギリス、中国の厳しい追求の中で、中国大陸を縦横に波乱に満ちた逃避行を続け、敗戦後の日本に忽然と姿を現します。
生死の危機一髪の間を彷徨、冒険に満ちた潜行の手記を、辻氏は「潜行三千里」と題する本に纏めて出版、昭和25年から26年にかけて大ベストセラーに成りました。
辻氏は、日本の国会議員と言うだけでなく、以上の様な経歴から当時世界的にその名を知られた重要人物でもありました。
◎羽田を発って10日間の足取り
昭和36年4月4日午前9時30分、辻氏は羽田空港を飛び発ちました。
“東南アジア諸国の視察と、戦没者の慰霊”が今回の旅行の目的で、国会には40日間の請暇届を提出していました。
その翌日、辻氏は南ベトナムの首都サイゴン(現・ベトナム民主共和国・ホーチミン)に到着、黒い背広にスーツケース1個の軽装。
「香港経由で此方に来ました。是からプノンペン(カンボジア)、バンコク(タイ)、ビエンチャン(ラオス)方面を訪問する予定です」とサイゴンで関係者に語っています。
事実、その後の足取りは、サイゴン4泊、プノンペン3泊、バンコク3泊と予定通り印され、そして最後の目的地ラオスのビエンチャンには、4月14日に到着しました。
此処迄の足取りは実に明確なのですが、これから僅か数日後に、辻氏の消息は不明となるのでした。
日本国内で“辻氏が行方不明”のニュースが明らかにされたのは、4月20日。
同氏の秘書が参議院事務局に「連絡が取れない」と報告、早速調査が開始されました。
続く・・・

◎「潜行三千里」の主人公
一国の国会議員が外国で行方不明に成るという事は、その国にとって重大事件です。
海外で行方不明に成った日本人は少なく有りませんが、参議院議員・辻 政信氏が旅行先の東南アジアで謎の様に消えた事件は、日本におけるこの種の事件の中で、最も不可思議な事件なのです。
現職の国会議員が、国会議員という身分で海外旅行に出て、そのまま行方不明に成ったのですから、国会、政府、公安とあらゆる機関が、最高レベルで捜索活動を行ったものの、辻氏の足取りは、或る一点から先が、全く不明になっており、生存、死亡も当時確認されませんでした。
辻 政信氏の捜索は、現代日本の人捜しの中でも、最も興味深いケースと思われます。
辻氏は、当時58歳、昭和27年第25回総選挙に石川県一区から最高点で当選以来、衆議院に3回当選、昭和34年には、参議院全国区から当選しました。
しかし、政治家としての経歴より、辻氏にはそれ以前の経歴に一層興味をそそられます。
陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸軍大学を首席で卒業した秀才中の秀才。
昭和16年、太平洋戦争勃発とともに、日本陸軍が破竹の快進撃をしたシンガポール攻略作戦を、作戦参謀として指揮、一躍その名前を高めました。
更にガダルカナル、インパール作戦等の参謀を務め、戦争終結時には、陸軍大佐でした。
終戦当時、中国大陸に居た辻氏は、直ちに連合国側から、最重要戦争犯罪人に指定され、アメリカ、イギリス、中国の厳しい追求の中で、中国大陸を縦横に波乱に満ちた逃避行を続け、敗戦後の日本に忽然と姿を現します。
生死の危機一髪の間を彷徨、冒険に満ちた潜行の手記を、辻氏は「潜行三千里」と題する本に纏めて出版、昭和25年から26年にかけて大ベストセラーに成りました。
辻氏は、日本の国会議員と言うだけでなく、以上の様な経歴から当時世界的にその名を知られた重要人物でもありました。
◎羽田を発って10日間の足取り
昭和36年4月4日午前9時30分、辻氏は羽田空港を飛び発ちました。
“東南アジア諸国の視察と、戦没者の慰霊”が今回の旅行の目的で、国会には40日間の請暇届を提出していました。
その翌日、辻氏は南ベトナムの首都サイゴン(現・ベトナム民主共和国・ホーチミン)に到着、黒い背広にスーツケース1個の軽装。
「香港経由で此方に来ました。是からプノンペン(カンボジア)、バンコク(タイ)、ビエンチャン(ラオス)方面を訪問する予定です」とサイゴンで関係者に語っています。
事実、その後の足取りは、サイゴン4泊、プノンペン3泊、バンコク3泊と予定通り印され、そして最後の目的地ラオスのビエンチャンには、4月14日に到着しました。
此処迄の足取りは実に明確なのですが、これから僅か数日後に、辻氏の消息は不明となるのでした。
日本国内で“辻氏が行方不明”のニュースが明らかにされたのは、4月20日。
同氏の秘書が参議院事務局に「連絡が取れない」と報告、早速調査が開始されました。
続く・・・
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