2013/12/31

歴史のお話その297:語り継がれる伝説、伝承、物語84

<ゾルゲ事件:その④>

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◎一斉検挙

 迎えた1941年9月、御前会議に於いて日本軍の南進策が決定し、任務を遂行し終えたゾルゲと尾崎は、ようやくその任務を解かれようとした矢先の10月、期せずして組織は国防保安法、治安維持法違反等の罪状で逮捕されます。
当に日米開戦前夜の為に「国民の士気に影響する」との理由で逮捕情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されるという秘密裏の事件とでした。

 検察側の調査によれば、ゾルゲ情報団は、ソ連擁護の為にコミンテルンの手により日本国内に設置され、ソ連共産党中央委員会及び赤軍第四本営に直属して日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、これをソ連共産党最高指導部すなわちソ連政府最高指導部に提報していた秘密諜報集団であり、その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛乃至、日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知蒐集でした。
その中には、1933年末ゾルゲの来日前にソ連首脳から与えられた一般的任務、35年ゾルゲが報告のため約20日間モスクワに滞在した際に上部から与えられた具体的任務、随時無電によって与えられた指令、及び対日諜報機関設置後、日本国内に発生した重要事件に基づいて本機関自ら課した任務が在りました。
収集した情報を無選択にモスクワに通報した訳ではなく、適確な資料を集め、総合分析判断した結果、一定の結論を出し、それに意見を付して報告していたのです。

 収集した主要情報は1934年7月から1941年10月迄、100項以上(約400件)におよび、これを無電又は伝書使による写真フィルムの手渡しによって行なっていたと云います。
無電による発信回数(及び語数)は1939年50回(約23、000語)、1940年60回(約29,000語)、1941年21回(約13,000語)に登りましたが、東京の各地から発信される是等暗号電報は、情報団が検挙に到る迄、日本の官憲はついに本体をつきとめることが出来ませんでした。

 日本に於ける活動期間は、1933年から1941年まで約8年にわたり、情報団が強力な組織と成り、その機能を十分に発揮出来る様に成ったのは1936年の秋頃からと思われます。
組織のメンバーは総て、如何なる国の共産党員でもなく、又諜報活動以外、政治的性質を持った宣伝や組織機能に従事することを固く禁じられており、如何なる個人や団体にも一切の政治的な働きかけを行わない方針は忠実に守られました。
只一つの例外は、近衛内閣の中で対ソ平和政策を選択させ様と努力した、尾崎秀実の積極的な行動でした。
検察側が事実に反して、ゾルゲ情報団の構成員をコミンテルン本部の指令に基づく諜略組織と決めつけたのは、赤軍やソ連を治安維持法の条文に云う処の結社とすることが不可能な為であったと云われています。

 関係者の検挙は1941年9月28日、警視庁特別高等警察第一課と同外事課の共同により、和歌山県下での北林トモ夫妻の検挙に端を発し(伊藤律による密告であったと云われているが、謀略の可能性が高い)、10月10日宮城与徳、10月13日秋山幸治と九津見房子、10月15日尾崎秀実、10月17日水野成、10月18日リヒャルト・ゾルゲとブランコ・ド・ヴーケリッチ、10月22日川合貞吉が検挙されています。
引き続き1942年4月28日迄に合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄され、この中には、犬飼健、西園寺公一などの知名人士も含まれていたのです。

 この時、ゾルゲは、同盟国で在るドイツ駐日大使オットー(陸軍武官)の私設秘書を務め、尾崎秀実は、時の近衛文麿首相のブレーンの一人でした。 
(事件後、オットーは1942年にドイツ大使の地位を失い、北京に家族と共に移り住みました。)
内務省警保局によれば、このうち「諜報機関員」17名、「情を知らざる者」18名とされています。
ゾルゲの訊問調書によれば、彼の直接の協力者は尾崎秀実・宮城与徳・ブランコ・ド・ヴーケリッチ、一時期在籍したギュンター・シュタイン、無線技師としてマックス・クラウゼンだけであったと言います。
尚この事件に関連して、1942年6月、上海に於いて「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら10名(うち中国人3名)が検挙されました。

続く・・・
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コメント

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遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます♪
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
今年は明るいニュースの多い1年であって欲しいですね。