2014/01/05

歴史のお話その298:語り継がれる伝説、伝承、物語85

<開戦前夜:ハルノートその①>

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 1941年11月26日、ハル国務長官は野村駐米大使にハルノートを提示しました。
この書簡には、モーゲンソウ財務長官の経済案もルーズベルト大統領の暫定案も記されておらず、日本に対する一切の妥協は存在しませんでした。
この案では日本は中国、フランス領インドシナからの完全撤兵、満州国の承認も無く、日本がこのような提案を承諾する等有り得ない事を、ハル国務長官は知っていたと思われます。
親日家として知られるハル国務長官が、一夜にしてこのハルノートを提出した背景には、ルーズベルトの強い要請乃至命令が存在したと思われます。
野村大使は「暫定案は如何に」との質問に、ハル国務長官の返答は無く、野村大使が部屋を出ると国務長官は陸軍長官スティムソン次の様に語ったと云います。
「私の仕事は終わった。後は君とノックス海軍長官の出番だ」。

 同日アメリカがハルノートを提示する直前の午前10時30分、マーシャル陸軍参謀総長は幹部の将軍たちを集めて「日米交渉が停止した時点で、日本軍がフィリピンを攻撃する可能性が強まる」ことに言及しました。

 しかし一方、マーシャル国務長官は大型爆撃機ボーイングB17を既にフィリピンに派遣していることから、「日本もフィリピン攻撃という危険は犯さないであろう」と楽観的な見通しを持っていたのです。
しかし、同時にフィリピンの軍備強化が完了するまでは、日本に対する挑発的な行動を出来るだけ控えるようにと、米極東軍司令官マッカーサーに伝え、以下の開戦準備警告を発したのです。
「戦争状態突入以前であっても、日本軍の輸送船が接近する等の状況下にあってはそれを攻撃し、撃沈する。将来の攻撃目標である台湾の日本軍基地に対する偵察飛行を早急に実施する。その際、空中戦も辞さない。海軍は太平洋艦隊の2隻の空母を使って早急にウェーキ、ミッドウェー両島の戦闘機配備を完了し、フィリピンのB17爆撃機編隊を支援する。」

 この司令でアメリカ太平洋艦隊の空母は、ウェーキ島、ミッドウェー島に戦闘機を配備する為に真珠湾を離れます。
山本五十六が目指した真珠湾には、空母は1隻も停泊していませんでした。

 余談ですが、この当時アメリカ軍部は日本の暗号解読に成功しており、その解読器はパープルと呼ばれ、8台が完成していました。
ワシントンに4台、ロンドンに3台、そしてフィリピンに1台を配置していたのですが、太平洋戦争勃発時に、最も最前線で戦うべきアメリカ太平洋艦隊司令部のある、真珠湾には1台も配置が無かったのです。

 ハルノートは直ちに東京に打電されました。

 ハルノートを読んだ東郷外相は「目も暗むばかりの失望に撃たれた」と書き残しています。
アメリカのグルー駐日大使は「ハルノートは最後通牒ではない」ことを強調し、日本は一縷の希望を抱いたのですが、グルー駐日大使は一夜にして暫定案を断念した、ルーズベルト大統領の意向を未だ知らされていなかったと思われます。

 11月27日、ハルノートが日本に手渡されると、イギリス諜報部員は本国に「対日交渉終了、2週間以内に戦争となるであろう」との打電を行いました。

 11月28日正午、ハル国務長官は「東京の駐日大使グルーに大使館と領事館閉鎖に伴う職員の引き揚げ準備を早急に検討してほしい。勿論この事は極秘で行わねばならない」との暗号電文を送付、この時グルー駐日大使は、明確にハルノートが日本に対する最後通牒と知ったのでした。

 12月1日、御前会議で対米蘭に対して開戦を決定し、もはや外交交渉での決着は完全に閉ざされたのです。

続く・・・

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