歴史のお話その300:語り継がれる伝説、伝承、物語87
<開戦前夜:ハルノートその③>

◎アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)
アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し対案を示す事としましたが、その原案はそれ以前に検討されており22日迄に更に協議され以下の様に修正されました。
『アメリカ政府の暫定協定案』
1、日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25000人以下とする。
2、日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す。
3、この協定は3ヶ月間有効とする。
この案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部から要望されていた対日戦準備迄の交渉による引き延ばしに沿った案で在り、アメリカ政府はこの暫定協定案についてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っています。
しかも25日迄はこの暫定協定案が検討されており、推定によれば26日早朝迄に、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハルノートが手交されたと思われます。
なぜ急に暫定協定案を放棄しハルノートを提示したかは現在迄、明確では在りません。
ハル国務長官は、個人の日記で25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述が存在しており、ルーズベルト大統領については26日午前、スティムソン長官からの日本軍艦艇が台湾沖を南下している情報に激怒し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と云えられています。
一般的な推測では、25日午後乃至26日早朝、ルーズベルト大統領はスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いながらも軍の南下を行っていると受け取り、暫定協定案を放棄しハルノートを提示したと思われています。
この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものでは在りませんが、それまでの過程でルーズベルト大統領、ハル国務長官は日本へ不信を高めており、感情的に譲歩の姿勢を放棄したと思われます。
ハルノートの原案は、モーゲンソウ財務長官が18日にハル国務長官に示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものでした。
これは建設的な案として事前に閲覧、暫定協定案と平行して検討されており、暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本に提示されていた可能性は存在します。
ホワイト原案はハルノートにかなり近いと思われますが、中国については原案では明確に満州を除くという記述が存在していました。
◎アメリカ政府の意図
現在、ハルノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確では在りません。
ハル国務長官はハルノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、「説明を加えず」、「ほとんど問答無用という雰囲気」であり、「投げやりな態度」であったと云います。
更に両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗であるにも関わらず、案を再考する余地はまったくないように思われたと云います。
ハルノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハル国務長官に電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と伝えられたと答えています。
又ハルノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていません。
ルーズベルト大統領は、暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに語っており、ハルノートが受諾される見込みはないと考えていたのでしょう。
しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議する為の12月8日議会演説ではハルノートにより交渉を進めていたように演説をしているのです。
スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか」と記録しています。
以上を考察すれば、日米開戦はアメリカが巧妙に仕組んだ罠とも思えます。
日本が1937年に中国大陸を攻撃した早い段階で、東南アジアに植民地を持つ西洋列強と会合を持ち、日本の行動予測を行なっています。
西洋列強も日本が中国大陸で泥沼状態になれば、次は東南アジアを狙うと予測していたのですが、西洋諸国はヒトラーの台頭で、一切の余裕を欠き、アメリカに頼るしか他に道がなかったのです。
そこでルーズベルトは議会にはからず、独断で日本を戦争におびき寄せる計画を進めました。
当時のアメリカ議会は保守的で、ヨーロッパの危機にはほとんど無関心でした。
続く・・・

◎アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)
アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し対案を示す事としましたが、その原案はそれ以前に検討されており22日迄に更に協議され以下の様に修正されました。
『アメリカ政府の暫定協定案』
1、日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25000人以下とする。
2、日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す。
3、この協定は3ヶ月間有効とする。
この案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部から要望されていた対日戦準備迄の交渉による引き延ばしに沿った案で在り、アメリカ政府はこの暫定協定案についてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っています。
しかも25日迄はこの暫定協定案が検討されており、推定によれば26日早朝迄に、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハルノートが手交されたと思われます。
なぜ急に暫定協定案を放棄しハルノートを提示したかは現在迄、明確では在りません。
ハル国務長官は、個人の日記で25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述が存在しており、ルーズベルト大統領については26日午前、スティムソン長官からの日本軍艦艇が台湾沖を南下している情報に激怒し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と云えられています。
一般的な推測では、25日午後乃至26日早朝、ルーズベルト大統領はスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いながらも軍の南下を行っていると受け取り、暫定協定案を放棄しハルノートを提示したと思われています。
この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものでは在りませんが、それまでの過程でルーズベルト大統領、ハル国務長官は日本へ不信を高めており、感情的に譲歩の姿勢を放棄したと思われます。
ハルノートの原案は、モーゲンソウ財務長官が18日にハル国務長官に示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものでした。
これは建設的な案として事前に閲覧、暫定協定案と平行して検討されており、暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本に提示されていた可能性は存在します。
ホワイト原案はハルノートにかなり近いと思われますが、中国については原案では明確に満州を除くという記述が存在していました。
◎アメリカ政府の意図
現在、ハルノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確では在りません。
ハル国務長官はハルノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、「説明を加えず」、「ほとんど問答無用という雰囲気」であり、「投げやりな態度」であったと云います。
更に両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗であるにも関わらず、案を再考する余地はまったくないように思われたと云います。
ハルノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハル国務長官に電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と伝えられたと答えています。
又ハルノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていません。
ルーズベルト大統領は、暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに語っており、ハルノートが受諾される見込みはないと考えていたのでしょう。
しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議する為の12月8日議会演説ではハルノートにより交渉を進めていたように演説をしているのです。
スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか」と記録しています。
以上を考察すれば、日米開戦はアメリカが巧妙に仕組んだ罠とも思えます。
日本が1937年に中国大陸を攻撃した早い段階で、東南アジアに植民地を持つ西洋列強と会合を持ち、日本の行動予測を行なっています。
西洋列強も日本が中国大陸で泥沼状態になれば、次は東南アジアを狙うと予測していたのですが、西洋諸国はヒトラーの台頭で、一切の余裕を欠き、アメリカに頼るしか他に道がなかったのです。
そこでルーズベルトは議会にはからず、独断で日本を戦争におびき寄せる計画を進めました。
当時のアメリカ議会は保守的で、ヨーロッパの危機にはほとんど無関心でした。
続く・・・
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