2014/01/09

歴史のお話その301:語り継がれる伝説、伝承、物語88

<開戦前夜:ハルノートその④>

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◎アメリカ政府の意図その②

 12月4日、シカゴ・デーリー・トリビューン紙は一面トップで「ルーズベルトが戦争計画」と云う見出しで「500万人の米軍がドイツに向けて動員される。しかも、動員総数は145658人にのぼり、二つの海洋と三大陸にわたる全面戦争」と報じ、この報道にルーズベルトは激怒します。
ヨーロッパ戦線にアメリカが介入する事にアメリカ国民の世論は、反対一色で在り、又海軍も開戦に消極的でした。

 12月5日、ソ連軍反攻、モスクワ近郊のドイツ軍が撤退を開始、この事はルーズベルト大統領に日米開戦を確信させました。

 12月6日、東京の外務省からワシントンの大使館に長文の電文が続々と送られ、電文は13部に分けられ、最後の部分は別途届く手筈に成っていました。
もはや、誰の目にも日米開戦は不可避だったのです。

 アメリカ戦略情報局は、フェルディナンド・メイヤーに日本大使館の状況を探る様指示し、彼は日本大使館の来栖大使を訪ねたのです。
メイヤーは驚来ます。
確かにこの日は土曜日で在り、しかも日米開戦にとって重要な日で在る事は間違い在りません。
日本本国からの暗号電文が、続々と送られて、メイヤーは日本大使館がその対応に追われ、騒然となっていると思っていました。
しかし、日本大使館は驚くほど静かで、その時、日本大使館員は南米に赴任する職員の送別会の準備で、大使館を離れていたのです。

 その頃、アメリカ情報局は続々と送られてくる、日本本国からの暗号の解読に忙殺されていました。午後8時30分、米陸海軍省に解読分が届けられ、午後9時30、清書された翻訳文がホワイトハウスに到着します。
戦線布告になる筈の14部目の電文は翌7日未明、ワシントンに到着、午前5時頃迄に解読を完了し、ルーズベルト大統領がその文章に接したのは午前10時頃であったと云われています。

 ルーズベルトは軍情報部から送られた電文を前に「遂にその時がきた」と云います。
しかし、その後ルーズベルト大統領は思わぬ発言をしたのです。
「ハル国務長官、直ちに天皇に、親電を送るように手配してくれ」。
其れは、日本軍のよる真珠湾攻撃の僅か29時間前でしたが、ルーズベルト大統領は以前から、日本特命全権大使である来栖から次の様に依頼されていました。
「もし、大統領が天皇陛下に親電を送達して頂ければ、陛下は日本と中国の和平の仲立を大統領に依頼されるでしょう。大切な事は対話を続ける事であり、大統領の側近のハリー・ホプキンズ氏の様な特使を派遣してもらうのも良い方法だと思います。現在、対米開戦を避ける事が出来る人物は、アメリカ大統領と天皇陛下の御二人しか存在しません。御二人が決められた事は、誰にも妨害できません。御願いです、日米の平和の為に大統領閣下から天皇陛下に直接連絡を取ってもらえないでしょうか。」

 しかし、この来栖大使の頼みを、ルーズベルトは無視して来ました。
ルーズベルトはハル国務長官に親電を打電する事を依頼すると、その夜、ホワイトハウスの2階にいた妻のエレノア婦人に語りました。
「人の子である私は、ほんの少し前、神の子に最後のメッセージを送った」。

 午後9時(日本時間7日午前11時)ハル国務長官は大統領の親書を打電したのですが、グルー駐日大使が受け取ったのは11時間半も過ぎた、7日午後10時30分(日本時間)でした。
之には日本陸軍が、電文の配達を妨害したと云われています。

 結果、グルー大使が東郷外相に電文を手渡したのは、8日午前3時で在り、この時間は日本が宣戦布告文書をアメリカのハル国務長官に手渡す予定時間で在って、真珠湾に第一発目の爆弾が投下される僅か25分前だったのです。

 ルーズベルトの親書はあまりにも遅く、この為にルーズベルトが、後世に自分が最後迄戦争を回避しようと親書を送ったとの説も存在あいますが、暫定案を僅か半日で撤回、最後通牒とも言えるハルノートを日本に渡したルーズベルト大統領の性格と、妻であるエレノア婦人に語った言葉を考えると、ルーズベルト自身は、土壇場で日米開戦を避けようとしたのであると思われるのです。

続く・・・

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