2014/01/11

歴史のお話その304:語り継がれる伝説、伝承、物語91

<アナスタシア>

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20世紀FOX、1956年度作品、追想よりアナスタシナ(イングリッド・バーグマン)皇太后(ヘレン・ヘイズ)

 ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。

 しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナであると語ったのです。

 話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。

◎救  出

 1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。

 ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。

◎ボリショビキ兵に救われて

 二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。

 真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。

 義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。

 その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。

◎真偽論争

 ベルリンのロシア人社会は、完全に二分され、多くは彼女を皇女アナスタジア・ニコライブナと認めましたが、一方ペテン師との非難も少なく無かったのです。
皇女をはっきりと見覚えている人物は、既にほとんど鬼籍に入っており、彼女の主張が認められれば、ロマノフ家の財産の分け前を失う人物も多く存在した事も事実なのです。

 皇帝一家のフランス語家庭教師で在った、ピエール・ジャリールは、彼女を偽者と確信しました。
なぜなら、彼女はロシア語を解さず、ロシア正教の流儀より、ローマ・カトリックの流儀で十字を切る、と言う事がこの論拠に成っていました。

 皇帝の従兄弟で、生き残ったロマノフ一族の長老シリル大公は、彼女との会見も、其の問題に触れる事すらも拒否した程でした。

◎法廷の判断

 皇后の妹、プロイセンのイレーネ公女は、彼女の額と目が、当にアナスタシアのものであると断言しましたが、イレーネ公女がアナスタシアを最後に見たのは、10年以上も昔の事でした。

 皇帝の従兄弟、アンドレーエフ大公は、彼女を完全に承認し、「彼女は真の皇女」であると公言しました。
アンナ(アナスタシア)は後に、叔父のヘッセン大公エルンストが、1916年、ロシアとドイツが交戦していた時に、ロシアを訪問したと主張しますが、大公はこの事柄を完全に否定し、アンナは「ずうずうしい嘘つき」と公言したと伝えられています。
しかしながら、1949年の事、元ロシア皇帝連隊の一人、ラルスキー大佐がアンナの主張した時期に大公が、確かにロシアを訪問した事を宣誓した上で供述しました。

 1933年、ベルリン法廷は、アナスタジア・ニコライブナの死亡を正式に認め、ドイツにある皇帝財産を生存する縁者6名に相続させる証書を認定します。
こうして、アンナの認知への闘いは、振出しに戻りました。

◎その他諸々の証拠

 アンナは病院で、精密な医学検査を受け、X線検査で、銃の台尻による打撲傷と見える傷跡が、頭部に発見され、足には、皇女と全く同じ場所に、黒子が存在し、更に黒子を取った肩の傷跡は、アナスタジア・ニコライブナのカルテに記載されたものと同じでした。

 左手の中指に残る小さな傷跡は、幼い頃、下僕が不用意に馬車の扉を閉めて、彼女の指を挟んだ為に出来たものであるとアンナは語り、この話しは彼女の元侍女の一人が、其の話しを立証します。

 1938年、彼女の弁護士が1933年の証書認定を破棄するよう申し立てますが、第二次世界大戦の勃発で、法廷の審議は行われずに終わり、1968年5月、ハンブルグの法廷は、アンナに不利な裁決を下しましたが、その後も法廷での審議は続いたのです。

続く・・・
 
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