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2014/01/13

歴史のお話その305:語り継がれる伝説、伝承、物語92

<アナスタシア②>

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 帝政ロシアの謎を語るときに良く出てくる皇女アナスタシア。

 最近ではディズニーアニメでも取り上げられ、古くには映画「追想」の中でイングリット・バーグマンがアナスタシアを演じています。

 1917年の二月革命以後、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその家族は臨時政府によってサンクトペテルスブルク郊外、ツァールスコエ・セローの離宮に幽閉されていましたが、7月に就任した首相ケレンスキーは一家を流刑地シベリア(トボリスク)送りにします。

 ニコライ2世の妻アレクサンドラは、イギリスのヴィクトリア女王の孫娘に当たりますので、親戚に当たる英国王室からの救援を最後まで期待していたと云われています。
後に十月革命が勃発してボルシェビキ政権が確立したとはいえ、当時のロシアは赤軍と白軍の勢力が拮抗していた時代で、皇帝一家の存在が情勢を大きく左右させる可能性も在り、当時の政府で皇帝一家の命運を握っていたのがスヴェルドロフで、彼は皇帝一家をモスクワに移送する途中、自分の故郷エカテリンブルクに立ち寄らせ商人イパーチェフの館に滞在させます。

 そして運命の1918年7月16日、館にボルシェビキ軍が押し寄せ、皇帝夫妻、4人の皇女と皇太子アレクセイ、従者4人を含む11人が銃殺されたのでした。

 現在考えられているのは、皇帝一家虐殺でヨーロッパ諸国からの非難を恐れたスヴェルドロフは、対外的には自分の故郷エカテリンブルクの狂信的なボルシェビキの一方的な仕業として、本人はモスクワ移送を計画していたとして、スヴェルドロフはこの時処刑したのは、皇帝ニコライ2世一人と表向きに公表しそれ以降、この問題を語る事自体、党内部ではタブーに成りました。

 虐殺から数日後、白軍がエカテリンブルクを奪回し、皇帝一家が処刑された事実を調査しましたが、遺体は何処に埋められたのか判明せず、難を逃れた皇女達が何処かに生きていると云う噂が広まり、一説にはシベリアを横断し日本に逃げたと言う説まで存在しました。

 1928年ドイツからアメリカに移住したアンナ・アンダーソンが、自分はロマノフ王朝の第4皇女アナスタシアだと主張したことからアナスタシア生存説のミステリーが生まれ、ペレストロイカ以降、タブーとされていた皇帝一家処刑についてもグラスノスチ(情報開示)で明るみに成り始めました。

 皇帝一家のものと思われる遺体がエカテリンブルグの郊外から発見され、奇しくもアンナ・アンダーソンが死んだ1991年DNA鑑定の結果皇帝一家のものと確認されましたが、当時確認されたのは処刑された11人の遺体の内9体だけで、皇女マリアと皇太子アレクセイの遺体は発見されませんでした。

 1998年7月17日殺害から80年、遺体はサンクトペテルスブルグのペトロパブロフスキー寺院にあるロマノフ家の墓に埋葬されますが、単なる偶然か、ロシア大統領がエカテリンブルグ出身のボリス・エリツィンです。

 ロマノフ王朝の始まりは1613年、コストマのイパーチェフ修道院でミハイル・ロマノフがモスクワ大公国の君主として戴冠した時から始まり、1918年ニコライ2世とその家族がエカテリンブルクの商人イパーチェフの館で処刑され幕を閉じます。

 皇帝エカテリーナ1世の名を刻んだエカテリンブルクも、共産党時代には皇帝一家処刑を影で指揮したスヴェルドロフの名を刻みスヴェルドロフスクと呼ばれ、現在はエカテリンブルクに戻りました。
皇帝一家終焉の場となったイパーチェフの館は1975年KGB議長アンドロポフの命令で解体され、その指揮を取らされたのが当時スヴェルドロフスク共産党第一書記だったボリス・エリツィンで後にこの男によって共産党支配の歴史も幕を閉じます。

 皇帝一家処刑についてはソビエトのタブーだったのですが、アナスタシア生存の謎から西側の研究者達がエカテリンブルク(当時のスヴェルドロフスク)を訪れるように成った為に、市民に皇帝一家処刑を知られる事を恐れた共産党が証拠隠滅したのでしょう。
 DNA鑑定では皇女アナスタシアの遺体は確認されていることになりますが、アンナ・アンダーソンが別人だったかと云うミステリーについてはまだ疑問の余地が残るのだそうです。

続く・・・

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