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2014/01/19

歴史のお話その307:語り継がれる伝説、伝承、物語94

<シベリアの悲劇>

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◎10月革命

 第一次世界大戦も終焉が近く成った頃、1917年3月、ロシア帝国内に革命が発生し、ロマノフ王朝が崩壊、帝政ロシアの時代は終わりました。(当時ロシアは太陰暦の為、「2月革命」とロシア国内では呼ばれています)

 革命で成立したケレンスキー率いる臨時政府は、連合軍側に加わり、戦闘継続を主張しましたが、疲弊に苦しむ工場労働者、農民、更には兵士も合流して、臨時政府に反抗します。
スイスに亡命していた、レーニンも封印列車で帰国し、労働者、農民を鼓舞しました。
人民は、「戦争継続の即時停止、人民に食料を!農民に土地を!全ての権力をソビエトへ!」と叫び、同年11月6日再び革命を起こしました。

 ケレンスキーの臨時政府は打倒され、それに代わって、トロツキー、レーニン等によるソビエト政府が誕生しますが、之が「ロシア革命」であり旧暦10月25日にあたる事から、「10月革命」と呼んでいます。

 10月革命以後、ソビエト政権が列国の予想に反して、堅実な歩みを示し、革命が着々と成功しつつある事を知り、アメリカ、イギリスを始めとする資本主義国家の恐怖が次第に増大し、1918年2月イギリス海軍によるムルマンスク上陸をきっかけに、ロシア国内の反革命勢力の援助と、革命政府打倒を目的に、16ヶ国による共同干渉が組織されました。

 日本の「シベリア出兵」もその一環であり、シベリアに駐留するチェコ軍支援を名目に、アメリカ、フランス、イギリス、中国との共同派兵の形式で行われました。

 日本は、他国との協定を無視し、2個師団73,000人にも及ぶ大軍を派遣しますが、この様な干渉にも関らず、ソビエト軍の勇敢な抵抗に遭遇し、アメリカ、イギリスは短期間で撤収したものの、日本は執拗にシベリア占領の希望を放棄せず、軍隊の増強を図り、極寒の土地で苦しい戦闘を続けました。
巨額の戦費と多数の犠牲者を出し、軍事的にも、政治的にも、外交的にも、経済的にも最大限の失敗を重ねた上、1922年、4年間に及ぶ派兵を中止しました。
その間、1920年1月、「尼港事件」が発生して、石田領事以下、多数の在留邦人の命を失います。

◎尼港事件

 尼港(ニコライエフスク)は、黒竜江下流の漁業中心地として繁栄し、1918年、日本がシベリア出兵を行った頃は、400人前後の居留民が存在し、領事館も設置されました。
1920年1月下旬、パルチザン部隊の襲撃を受け、日本政府は直ちに、第7師団の混成部隊と海軍軍艦三笠を派遣しましたが、厳冬に阻まれて現地に到着できない間に、領事館は砲撃を受け、石田領事以下邦人350名、守備隊将兵330名、海軍将兵40名、合計720名が非業の死を遂げました。

 当時、日本国民の多くは、尼港事件の悲劇が、我国の無謀なシベリア出兵に起因する事を知らず、世論は怒りに震え、政府を鞭撻しロシア窈窕の気勢を上げたのでした。
この尼港事件は、我国の虐殺遭難史に残る大きな事件である事は間違い在りませんが、この事件と前後して、シベリアの地に、歴史上稀に見る悲劇が展開されていました。
失われた人命125万人、その上5億ドルと伝えられる、巨額の金塊事件迄、発生しています。

◎始まり

 事件の発端は、1919年11月13日、西シベリアのオムスク市に始まりました。
ロシアの10月革命後、帝政ロシアの海軍提督アレクサンドル・コルチャークは、強大なロシア帝国の残存者を集めて、反革命軍を組織し、イギリスの援護の下にオムスク市に独立政府を擁立します。

 コルチャーク提督(1875年~1920年)は、日露戦争当時、旅順港の戦いで名声を受け、我国でも良く知られた人物でした。
日露戦争後、日本海海戦で壊滅した、バルチック艦隊(第2、第3太平洋艦隊に艦艇を捻出)の再建にも努力し、第一次世界大戦前には、極地探検家として名を成し、第一次大戦海戦後は、バルト海で駆逐艦隊を指揮し、ドイツ艦隊を翻弄殲滅し、後に黒海艦隊司令官に任命されました。

 第一次世界大戦末期、共同作戦を展開する為、アメリカに派遣、その帰途10月革命の報を聞き、日本を経由してシベリアに入り、イギリスの援助の下に、1918年11月、オムスク市に反革命独立政府を樹立しました。
一時はその勢力も強大でしたが、1919年11月、首都オムスクは革命軍に占領されるに至ります。

 コルチャーク提督は、再起を後に託し、ひとまず5000マイルに近いシベリアを横断して、太平洋岸に引き下がる事を決意しました。
其処には、友邦日本にも近いと云う思惑が有ったかも知れません。

 コルチャーク提督に従う軍隊は50万人を数え、更に75万人の亡命者を伴いました。
亡命者は、何れも革命政府の政治を忌み嫌い、帝政時代に親しみを持つ人々で、25人の司教と12000人の僧侶、4000人の修道士、45000人公安関係者、20万人以上のロシア貴族の女性、それに驚くほど多くの年少者を含んでいました。

 遥かな昔、イスラエルの指導者モーゼは、エジプトで奴隷と成っていたイスラエル人数百万人を引連れ、エジプトを逃れ、紅海を渡り、シナイ半島の荒野を40年に渡って彷徨い、苦難の末ようやく神の約束の地、カナンに達する事が出来ました。
(但し、カナンの地に達したのは、モーゼを始めエジプトを脱出した彼等の子孫で或る事に注意)
コルチャーク提督のシベリア大移動は、モーゼの出エジプトの苦難に、勝るとも劣らないものが在りました。

 このコルチャーク提督の膨大な随伴者の中でも、最も重要な物が在りました。
反革命政府の軍資金として、帝政ロシア政府から引き継いだ、5億ドルにも及ぶ500トン近い金塊で、是を28両の装甲車両に分散して積込みました。

続く・・・

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