歴史のお話その308:語り継がれる伝説、伝承、物語95
<シベリアの悲劇②>

◎道標
オムスク市付近の冬の平均気温は、氷点下20度(最低記録は氷点下49度)ですが、コルチャーク提督に率いられた、125万人の大部隊が、8000kmに及ぶ大移動にその第一歩を踏み出した時、シベリアに住む住民さえ、体験した事の無い猛烈な寒気が、シベリアを襲います。
氷点下40度前後を上下した寒気は、更に20度低下したと云われており、この地球上で一番の寒気を記録したのはベルホヤンスクですが、この気温に成ると弱い風が吹いただけでも、吐いた息は、そのまま音を立てて凍り、大きく喘ぐと呼吸困難や窒息すら起こり得る過酷な環境と成ります。
その様な場所に、防寒装備も無いに等しい状態では、僅か5分程度でも凍死は免れず、ゴム製品は薄いガラスに様に脆く成り、水銀は鋼鉄の様に硬くなり、寒暖計は使用できなくなります。
この様な厳しい寒さの中に、125万人(多くの婦女子を含む)が突入するのは、結果として明らかなのです。
うなりを伴う烈風と猛吹雪は、正に刃物の様に、鋭く身を切り、この歴史上最大の人類の大移動に、計り知れない苦難を与えました。
そして間も無く、シベリアの雪の荒野には、凍死した人間や、橇、馬が墓標の様に連なり、降りしきる雪は、これ等屍に上にも積もり、あたかも万里の長城の様に、シベリアの道を何処までも印付けました。
嘗て、ナポレオン軍が、ロシアの冬将軍に破れ、モスクワを後にした時、死体の列がその後に続いたと言いますが、コルチャーク提督のシベリア退却は、それ以上のものが在りました。
◎125万人の凍死
1919年1月13日から、翌年の2月迄、3ヶ月に渡りこの空前の人類の受難劇が、1日も休み無く続いたのでした。
そして終に、500トン近い金塊を放棄する日が訪れます。
既に28両にも上る装甲車両の燃料を使い果たし、止む終えず金塊を馬橇に積み替える事としました。
しかし、猛烈な寒気は、橇を引くシベリア産の馬達を次々と、凍死させて行き、結果、帝政ロシア政府から継承した、金塊はシベリアの荒野に遺棄せざるを得ませんでした。
退却時に空しく遺棄された金塊は、その後どの様に成ったか誰も知らない、謎の一つと成りました。
しかし、この行為で行軍が終わった訳では無く、殉教者の群れは、尚も西へ西へと無意味な旅を続けますが、人々は唯死んだ様に、脚を前後に動かしているだけでした。
雪は猛烈な風を伴い、止む事を知らず、その雪の中を足取りも重く歩いていると、不思議と眠りを誘います。
この誘いに負け、体を少しでも横にして休んだ者は、再び醒める事の無い永遠の眠りに落ちて行きました。
最初は、指導者達も、声を嗄らし「眠ってはけない」と叫び続け、人々を励ましましたが、最後にはその指導者達も自らその眠りに誘い込まれました。
退却の群れは日毎日毎に、加速度的に減少していき、そして辛うじて寒気に耐え得た残存者達も、更に気温の下がる凄まじい寒さの中に、一歩一歩と重い足を運び、過去に記録さえないシベリアの寒さは、残酷極まりない苦痛と成って、人々を苦しめ続けました。
余りの寒さに、氷柱が瞼の回りできはじめ、大きな氷の叢林が睫毛から下がって行きました。
涙がそのまま凍り、目も開けられない程、雪は荒れ狂い、ノボ・ニコライエフスク市近郊では、一晩で20万人が凍死したのは、この時でした。
◎氷上の出産
2月の終わり近く、125万人は、25万人に減少していました。
これ等の人々は、万難辛苦に耐え、ようやくオムスクから2000kmのバイカル湖畔に辿り着く事が出来ましたが、彼等の消耗は凄まじいものでした。
最後の安全を図るため、バイカル湖を横断する必要が在り、80kmに及ぶ広さ、3mの厚さで覆われた氷の上を25万人の生きた亡霊が進みます。
過去3ヶ月間の苦難は、この世のものと思えないものでしたが、この悲劇の退却最大の事態がバイカル湖上に待ち受けます。
硬く結氷した、バイカル湖上の寒さは頂点に達し、氷点下69度を記録し、受難者を死に導くような猛吹雪が唸りを上げて吹き始めます。
熊やアザラシの毛皮を身に纏っても、何の意味も無く、極限の寒さは彼等を翻弄し、次々と死に追い遣っていきました。
この様な最中、貴族の夫人の一人が氷上で出産したのですが、誰一人、手を貸す者も無く、無表情にその前を通り過ぎて行き、その夫人はお産の最中に凍死し。妻の姿を傍目から隠そうとした、夫もそのまま凍り付いていきました。
バイカル湖の湖上を生きて脱出した者は、皆無であり、その上を真っ白な雪が覆って行きました。
バイカル湖上の25万人の遺体は、翌年の夏、湖面の氷が解ける迄、倒れたそのままの姿で残されました。
氷が解けた時、この恐るべき、そして痛ましい風景は、静かに視界から消え失せて湖底深く沈み去って行きました。
彼等こそ、近代史最大級の悲劇に違い在りません。
アレクサンドル・コルチャーク提督は、バイカル湖畔に逃れる以前に、革命軍に拘束され、1919年2月イルクーツクで、反革命罪に問われ、刑場の露と消えましたが、50万人の兵士、75万人の民を極度の苦難に遭遇させた末、死に至らしめた彼の罪は、万死に値いする事でしょう。
続く・・・

◎道標
オムスク市付近の冬の平均気温は、氷点下20度(最低記録は氷点下49度)ですが、コルチャーク提督に率いられた、125万人の大部隊が、8000kmに及ぶ大移動にその第一歩を踏み出した時、シベリアに住む住民さえ、体験した事の無い猛烈な寒気が、シベリアを襲います。
氷点下40度前後を上下した寒気は、更に20度低下したと云われており、この地球上で一番の寒気を記録したのはベルホヤンスクですが、この気温に成ると弱い風が吹いただけでも、吐いた息は、そのまま音を立てて凍り、大きく喘ぐと呼吸困難や窒息すら起こり得る過酷な環境と成ります。
その様な場所に、防寒装備も無いに等しい状態では、僅か5分程度でも凍死は免れず、ゴム製品は薄いガラスに様に脆く成り、水銀は鋼鉄の様に硬くなり、寒暖計は使用できなくなります。
この様な厳しい寒さの中に、125万人(多くの婦女子を含む)が突入するのは、結果として明らかなのです。
うなりを伴う烈風と猛吹雪は、正に刃物の様に、鋭く身を切り、この歴史上最大の人類の大移動に、計り知れない苦難を与えました。
そして間も無く、シベリアの雪の荒野には、凍死した人間や、橇、馬が墓標の様に連なり、降りしきる雪は、これ等屍に上にも積もり、あたかも万里の長城の様に、シベリアの道を何処までも印付けました。
嘗て、ナポレオン軍が、ロシアの冬将軍に破れ、モスクワを後にした時、死体の列がその後に続いたと言いますが、コルチャーク提督のシベリア退却は、それ以上のものが在りました。
◎125万人の凍死
1919年1月13日から、翌年の2月迄、3ヶ月に渡りこの空前の人類の受難劇が、1日も休み無く続いたのでした。
そして終に、500トン近い金塊を放棄する日が訪れます。
既に28両にも上る装甲車両の燃料を使い果たし、止む終えず金塊を馬橇に積み替える事としました。
しかし、猛烈な寒気は、橇を引くシベリア産の馬達を次々と、凍死させて行き、結果、帝政ロシア政府から継承した、金塊はシベリアの荒野に遺棄せざるを得ませんでした。
退却時に空しく遺棄された金塊は、その後どの様に成ったか誰も知らない、謎の一つと成りました。
しかし、この行為で行軍が終わった訳では無く、殉教者の群れは、尚も西へ西へと無意味な旅を続けますが、人々は唯死んだ様に、脚を前後に動かしているだけでした。
雪は猛烈な風を伴い、止む事を知らず、その雪の中を足取りも重く歩いていると、不思議と眠りを誘います。
この誘いに負け、体を少しでも横にして休んだ者は、再び醒める事の無い永遠の眠りに落ちて行きました。
最初は、指導者達も、声を嗄らし「眠ってはけない」と叫び続け、人々を励ましましたが、最後にはその指導者達も自らその眠りに誘い込まれました。
退却の群れは日毎日毎に、加速度的に減少していき、そして辛うじて寒気に耐え得た残存者達も、更に気温の下がる凄まじい寒さの中に、一歩一歩と重い足を運び、過去に記録さえないシベリアの寒さは、残酷極まりない苦痛と成って、人々を苦しめ続けました。
余りの寒さに、氷柱が瞼の回りできはじめ、大きな氷の叢林が睫毛から下がって行きました。
涙がそのまま凍り、目も開けられない程、雪は荒れ狂い、ノボ・ニコライエフスク市近郊では、一晩で20万人が凍死したのは、この時でした。
◎氷上の出産
2月の終わり近く、125万人は、25万人に減少していました。
これ等の人々は、万難辛苦に耐え、ようやくオムスクから2000kmのバイカル湖畔に辿り着く事が出来ましたが、彼等の消耗は凄まじいものでした。
最後の安全を図るため、バイカル湖を横断する必要が在り、80kmに及ぶ広さ、3mの厚さで覆われた氷の上を25万人の生きた亡霊が進みます。
過去3ヶ月間の苦難は、この世のものと思えないものでしたが、この悲劇の退却最大の事態がバイカル湖上に待ち受けます。
硬く結氷した、バイカル湖上の寒さは頂点に達し、氷点下69度を記録し、受難者を死に導くような猛吹雪が唸りを上げて吹き始めます。
熊やアザラシの毛皮を身に纏っても、何の意味も無く、極限の寒さは彼等を翻弄し、次々と死に追い遣っていきました。
この様な最中、貴族の夫人の一人が氷上で出産したのですが、誰一人、手を貸す者も無く、無表情にその前を通り過ぎて行き、その夫人はお産の最中に凍死し。妻の姿を傍目から隠そうとした、夫もそのまま凍り付いていきました。
バイカル湖の湖上を生きて脱出した者は、皆無であり、その上を真っ白な雪が覆って行きました。
バイカル湖上の25万人の遺体は、翌年の夏、湖面の氷が解ける迄、倒れたそのままの姿で残されました。
氷が解けた時、この恐るべき、そして痛ましい風景は、静かに視界から消え失せて湖底深く沈み去って行きました。
彼等こそ、近代史最大級の悲劇に違い在りません。
アレクサンドル・コルチャーク提督は、バイカル湖畔に逃れる以前に、革命軍に拘束され、1919年2月イルクーツクで、反革命罪に問われ、刑場の露と消えましたが、50万人の兵士、75万人の民を極度の苦難に遭遇させた末、死に至らしめた彼の罪は、万死に値いする事でしょう。
続く・・・
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コメント
こんばんは
ましてや地獄の様な寒波。
出産中の死など、狂気の沙汰ですね。
酷い出来事です。
2014-01-21 22:52 kopanda06 URL 編集
2016-06-25 14:25 URL 編集