歴史のお話その310:語り継がれる伝説、伝承、物語97
<シベリア出兵その①>

1918年8月、日本はシベリアに出兵しました。
直接の目的はチェコ軍の救出でしたが、実際はザバイカル州以東に白色傀儡政権を樹立する事でした。
後に1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵、・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月、実戦としては軽微な損害でした。
この4年3ヶ月は第1次大戦と同じ長さに成ります。
◎出兵への評価
当時の日本の世論も出兵を支持せず、そして現在でも何の益もない出兵であったと評価されています。
しかし出兵に益が伴われなければ成らないか否か、益とは不動産や資金を意味するのか?日本が出兵する時は領土、賠償金、駐兵権が必要なのか?そして同盟に加わるとは何か?昭和陸軍はシベリア出兵を政略出兵が故に失敗したと結論付けています。
政略出兵とは政治上の要請で、日本の防衛範囲(生命線と定義)以外に出兵する事を意味します。
逆は軍略(戦略)出兵で、優れた作戦計画に基づき攻勢に出る事を指します。
陸軍は、この頃から出兵は、通常文民政府の要請に従って行われるという認識が欠如していました。
それを隠蔽する言葉が無益、政略という言葉なのです。
もちろん文民政府は出兵が可能か否か、軍部のアドバイスを求めるべきですが、最終的な決定と責任は文民政府に存在します。
当時、権力の分散が顕著と成り統制が取れず、第1次大戦の参戦は外相の加藤高明が決定し、シベリア出兵は参謀本部次長の田中義一が決定したものです。
更に、政党政治家にも問題が種々存在し、まず語学で見劣りし、漢文は理解可能でも当面の相手国、英米独露とコミュニケーションが不可能に近いものでした。
従って欧米コンプレックスの為か、大アジア主義者が多く、当時この種類のコンプレックスを持たないのは、留学経験のある薩長藩閥出身者と外交官、エリート軍人だけでした。
相互に対立すると国としての政策が打ち出せず、日本の問題は独裁では無く、常に過度の権力分散で、これは現在でも変わっていません。
◎原 敬の果たした役割
この出征期間4年3ヶ月のうち、原敬は3年4ヶ月に渡って首相を務めました。
原は農商省及び外務省に在籍経験の有る、官僚出身なのですが、実質初めての政党政治を開始した人物でした。
志半ばにしてテロに倒れますが経綸、人格共に一流の人物で在った事は疑い在りません。
その様な人物がトップに居ながら、なぜシベリア出兵が長期化したのでしょう。
理由として、この時代国民の意識と離れて政治を行う事が困難に成った事、軍部・外務省の情報判断の失敗と其視野の狭さを部門の長が補う事が出来なかったのです。
そして出兵を長期化させたのが、尼港事件でした。
外交上の問題はアメリカの存在でした。
イギリス、フランスは日本にシベリア出兵を要請しますがアメリカが反対し、少数の陸軍軍人の内心は、将来的に沿海州での傀儡政権樹立をアメリカに見抜かれたと考えていたのでした。
更には、一部アメリカ鉄道資本がシベリア鉄道に関心がある為であると考えたのです。
軍人の欠陥は、外国を善意で見ず、常に敵愾心で眺める事でした。
当時、今日から見れば興味深い現象ですが、イギリスを軽視しアメリカを重要視する傾向が、大衆の中に存在していました。
現実の問題として、既に世界経済の中心がアメリカに移行している事を大衆の方が理解していたのかもしれません。
この時、アメリカはボルシェビキとの協調を思考していました。
以後の政策から意外にも感じますが、第1次大戦でアメリカは、途中での部分講和を禁止する1914年のロンドン協約に参加していません。
この為、イギリス、フランスや日本と異なり、ボルシェビキ政権の違約=ブレストリトウスク講和に異議を唱える事は在りませんでした。
又アメリカの根本的外交政策の立脚点に孤立主義が存在し、他国に軍事介入する事へ常に警戒的で在った事も事実なのです。
そして介入するのであれば、日本と共同歩調を選択したかったのでした。
この点はウィルソンの14ヶ条提案の前文に良く表現されており、この前文は、当時新聞報道も殆ど無く、当時の外務官僚も大きな注意を払いませんでした。
外務官僚の最大の注意点は、国際連盟の提案でアソシエーション(Association)を如何に翻訳するかで在り、アメリカにとってツアー反動政権が崩壊した事は、歓迎すべき事態でした。
勿論マルクス主義が、アメリカ社会に影響を与える事も無く、脅威も存在せず、この時点で既にアメリカ社会は日本やヨーロッパと異質で在った事が分かります。
アメリカは現在に至る迄、共産主義イデオロギーに全く脅威を感じない唯一の大国なのです。
田中義一は撤兵後、出兵についての利益を尋ねられ、「地図(兵要地誌)を作った」と語りました。
現在でもアメリカ軍の使用する、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)以西バイカル湖迄の地図は、全て旧日本軍が作成したもので(航空写真では地名まで判別できない)あり、確かに後世に於いても役立つ物に異議は在りませんが、当初の目的は違っていました。
本来の目的はシベリア東部3州(沿海州、黒龍州、ザバイカル州)を領土化する事で在り、留意すべきは既にこの様な考え方は時代遅れで在って、第1次大戦の戦後処理でも、国際連盟の委任統治という考えが途上しています。時代は暴力的手段で、不動産の搾取を実行する事自体、文明的で無いと考えられ、そして植民地保有が直接利益を生まなくなった事を人々は理解し始めていたのでした。
続く・・・

1918年8月、日本はシベリアに出兵しました。
直接の目的はチェコ軍の救出でしたが、実際はザバイカル州以東に白色傀儡政権を樹立する事でした。
後に1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵、・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月、実戦としては軽微な損害でした。
この4年3ヶ月は第1次大戦と同じ長さに成ります。
◎出兵への評価
当時の日本の世論も出兵を支持せず、そして現在でも何の益もない出兵であったと評価されています。
しかし出兵に益が伴われなければ成らないか否か、益とは不動産や資金を意味するのか?日本が出兵する時は領土、賠償金、駐兵権が必要なのか?そして同盟に加わるとは何か?昭和陸軍はシベリア出兵を政略出兵が故に失敗したと結論付けています。
政略出兵とは政治上の要請で、日本の防衛範囲(生命線と定義)以外に出兵する事を意味します。
逆は軍略(戦略)出兵で、優れた作戦計画に基づき攻勢に出る事を指します。
陸軍は、この頃から出兵は、通常文民政府の要請に従って行われるという認識が欠如していました。
それを隠蔽する言葉が無益、政略という言葉なのです。
もちろん文民政府は出兵が可能か否か、軍部のアドバイスを求めるべきですが、最終的な決定と責任は文民政府に存在します。
当時、権力の分散が顕著と成り統制が取れず、第1次大戦の参戦は外相の加藤高明が決定し、シベリア出兵は参謀本部次長の田中義一が決定したものです。
更に、政党政治家にも問題が種々存在し、まず語学で見劣りし、漢文は理解可能でも当面の相手国、英米独露とコミュニケーションが不可能に近いものでした。
従って欧米コンプレックスの為か、大アジア主義者が多く、当時この種類のコンプレックスを持たないのは、留学経験のある薩長藩閥出身者と外交官、エリート軍人だけでした。
相互に対立すると国としての政策が打ち出せず、日本の問題は独裁では無く、常に過度の権力分散で、これは現在でも変わっていません。
◎原 敬の果たした役割
この出征期間4年3ヶ月のうち、原敬は3年4ヶ月に渡って首相を務めました。
原は農商省及び外務省に在籍経験の有る、官僚出身なのですが、実質初めての政党政治を開始した人物でした。
志半ばにしてテロに倒れますが経綸、人格共に一流の人物で在った事は疑い在りません。
その様な人物がトップに居ながら、なぜシベリア出兵が長期化したのでしょう。
理由として、この時代国民の意識と離れて政治を行う事が困難に成った事、軍部・外務省の情報判断の失敗と其視野の狭さを部門の長が補う事が出来なかったのです。
そして出兵を長期化させたのが、尼港事件でした。
外交上の問題はアメリカの存在でした。
イギリス、フランスは日本にシベリア出兵を要請しますがアメリカが反対し、少数の陸軍軍人の内心は、将来的に沿海州での傀儡政権樹立をアメリカに見抜かれたと考えていたのでした。
更には、一部アメリカ鉄道資本がシベリア鉄道に関心がある為であると考えたのです。
軍人の欠陥は、外国を善意で見ず、常に敵愾心で眺める事でした。
当時、今日から見れば興味深い現象ですが、イギリスを軽視しアメリカを重要視する傾向が、大衆の中に存在していました。
現実の問題として、既に世界経済の中心がアメリカに移行している事を大衆の方が理解していたのかもしれません。
この時、アメリカはボルシェビキとの協調を思考していました。
以後の政策から意外にも感じますが、第1次大戦でアメリカは、途中での部分講和を禁止する1914年のロンドン協約に参加していません。
この為、イギリス、フランスや日本と異なり、ボルシェビキ政権の違約=ブレストリトウスク講和に異議を唱える事は在りませんでした。
又アメリカの根本的外交政策の立脚点に孤立主義が存在し、他国に軍事介入する事へ常に警戒的で在った事も事実なのです。
そして介入するのであれば、日本と共同歩調を選択したかったのでした。
この点はウィルソンの14ヶ条提案の前文に良く表現されており、この前文は、当時新聞報道も殆ど無く、当時の外務官僚も大きな注意を払いませんでした。
外務官僚の最大の注意点は、国際連盟の提案でアソシエーション(Association)を如何に翻訳するかで在り、アメリカにとってツアー反動政権が崩壊した事は、歓迎すべき事態でした。
勿論マルクス主義が、アメリカ社会に影響を与える事も無く、脅威も存在せず、この時点で既にアメリカ社会は日本やヨーロッパと異質で在った事が分かります。
アメリカは現在に至る迄、共産主義イデオロギーに全く脅威を感じない唯一の大国なのです。
田中義一は撤兵後、出兵についての利益を尋ねられ、「地図(兵要地誌)を作った」と語りました。
現在でもアメリカ軍の使用する、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)以西バイカル湖迄の地図は、全て旧日本軍が作成したもので(航空写真では地名まで判別できない)あり、確かに後世に於いても役立つ物に異議は在りませんが、当初の目的は違っていました。
本来の目的はシベリア東部3州(沿海州、黒龍州、ザバイカル州)を領土化する事で在り、留意すべきは既にこの様な考え方は時代遅れで在って、第1次大戦の戦後処理でも、国際連盟の委任統治という考えが途上しています。時代は暴力的手段で、不動産の搾取を実行する事自体、文明的で無いと考えられ、そして植民地保有が直接利益を生まなくなった事を人々は理解し始めていたのでした。
続く・・・
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