2014/01/29

歴史のお話その312:語り継がれる伝説、伝承、物語99

<グレート・イースタン号>

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 イザンバード・ブルーネルは、燃料補給無しにオーストラリア迄、往復できる大きさの船を建造する構想に取組み、グレート・イースタン号、グレート・ウエスタン号の2隻を設計し、みごとな成功を収めました。
彼が見つけた後援者は「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」で、インド・オーストラリア・極東諸国との通商を目的として、1851年に創立された企業でした。

 グレート・イースタン号は、当時の造船界の常識を覆す設計の船で、全長211m、外輪部の船幅36m、2基の蒸気エンジンが、直径17mの外輪と直径7mのスクリューを駆動させ、排水量3万2000トンに達する文字通り巨船でした。
船体は、箱形はり構造で造られ、フレームと外殻は2重構造になっており、其の上10区分からなる、防水区画に仕切られていました。

 この巨船は、ロンドンのデビット・ネイピア造船所で建造が開始されましたが、造船所付近では、テームズ川が狭くなっている為、川に向けて直角に進水させる事が出来ません。
その為、船は川と平行に建造が開始されたものの、この巨体を動かして、川に浮かべる事そのものが、大変な難問で、幾週間も陸上に置かれたままになる程でした。
建造費は、果てしなく増え続け、ブルーネルは、心労と過労で倒れてしまいます。

 1858年1月31日、進水作業に伴う事故や困難を乗り越えて、船体は漸く水面に浮かびました。
しかし、是で全ての問題が片付いた訳ではなく、1859年9月、ウェイマス迄の洋上公試では蒸気管が破裂して、煙突部分を破壊し5名の犠牲者を出してしまいます。
この事故の一報は、ブルーネルの病状悪化に拍車を掛けてしまい、彼は其れから、数日後の1859年9月15日に死去します。
 
 「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」は、船の就航が延滞した為、資金収支が悪化、船は新しい船会社「グレート・シップ社」の手に渡ります。
この新会社は、グレート・ウエスタン号を大西洋航路に投入したものの、その定員1400名が満席に成った事は、一度も無く、更に船は2度の航海で、大きな損傷を受けていました。

 この二つの事故に伴う修理額は、65万ドルの高額となり、船体は売却され、新たに船主になったのは、「グレート・シップ社」の元株主3人で、彼らは船体を「テレグラフ・コンストラクション社」にリースし、海底電線敷設船に転用される事となります。

 こうして、「グレート・イースタン号」は本来の能力を発揮し、1865年7月、最初の敷設作業に従事するものの、1600km地点で電線切断事故が発生、回収の試みは全て失敗、翌1866年再挑戦で見事に成功を納めると同時に、前年回収出来なかった電線の回収に成功します。
この実績を認められ、この後もフランスからアメリカ、ボンベイからアデン、紅海沿岸の海底電線の敷設に活躍します。
1888年現役を引退し、船体は解体されますが、この巨船の排水量を越える船が建造されたのは、20年後の事で、その船が、1915年ドイツ軍Uボートに撃沈された、豪華客船ルシタニア号でした。

続く・・・

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