歴史のお話その317:語り継がれる伝説、伝承、物語104
<バビロンの栄華その①>

ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude, 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)作「バベルの塔」(1563年)
今を遡る7000年の昔、現在のイラクとイランの南西部にあたる付近には、シュメール人の文化が栄えていました。
この地方には、チグリス河とユーフラテス河が流れ、地味豊かで農耕に適した地方です。
この地方一体はメソポタミアと呼ばれ、ギリシア語で「河と河の間の地」と云う意味なのです。
シュメール人は、このメソポタミアの地に、最初の都市ウルを建設しました。
メソポタミア地方には、殆ど石が無い為、粘土を固めてレンガを作り、家屋や神殿を建設して行きました。
又、粘土版に楔形の文字を刻み、記録する術を知っており、やがて、メソポタミア地方には数多くの都市国家が生まれ、長期間に渡って異民族の侵入をうける事も無く、独自の文化を営む事が可能でした。
やがて、セム族のアムル人がメソポタミアに侵入し、バビロンを中心に統一国家バビロニアを建国します。
ハンムラビ法典で知られる、ハンムラビ王(バビロン第一王朝)の時代(紀元前1729年~紀元前1686年)が最大の繁栄期であり、後世からも模範とされた古典時代を現出しました。
後の時代、北方に勢力を伸ばしたアッシリアが、次第に勢力を拡大し、メソポタミアの地に侵入を繰り返します。
紀元前7世紀に至り、ネブカドネザル2世(在位紀元前605年~紀元前562年)の時代から再び栄光の時代を取り戻し、新バビロニアと成ります。
新バビロニアが最も繁栄した時代は、先のネブカドネザル2世の時代で、その当時のバビロニアは「全ての国の中で、最も美しい国」称されました。
首都のバビロンは、その面積が現在のロンドンに匹敵する程の広さを誇り、日干し煉瓦で造られた城壁は、総延長64kmに及び、夥しい塔楼と青銅造りに門が存在し、中でも有名な物が現在に残る、イシュタール門なのです。
城壁は広く、当時戦闘に使用された四頭立てのシャリオットが、自由に走行出来たと云われ、この都を訪れたキャラバンは南の門から入り、北の門に辿り着く為に1日を費やしたと記録が残されています。
強力な軍隊に警護され、難攻不落を誇ったバビロンもやがては、度重なる戦火によって破壊され、廃墟と化しました。
記憶に残るこの華麗なる都は、多くの伝承によって何時しか伝説の都と成り、「バベルの塔」「空中庭園」の話が現在に伝えられているのです。
◎バベルの塔
バビロンの都の近く、ユーフラテス河から1km程の平原の中に、山の様にそびえる巨大な建造物が存在し、現在の人々は此れを「バベルの塔」と呼んでいます。
バベルの塔は、明らかに神を祭った神殿ですが、なぜこの様な大建造物を建立したのでしょう?
話は、創世記に伝えられるノアの洪水迄、遡ります。
聖書に由れば、この洪水は神の怒りにより、地上の悪を滅ぼす為に起こされたもので、信仰心の厚いノアの家族だけが、箱舟に乗ってこの災いを逃れる事が出来ました。
この箱舟に乗っていた、ノアの三人の息子、ハム、セム、ヤペテがやがてメソポタミア地方を支配する事に成り、ハムは、バビロンの都を築いたと云われ、子孫のニムロデは、バビロンの王に成りバベルの塔を築いたと云われます。
「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そして我々の名を上げて、全地の表に散るのを免れ様」(創世記十一章四節)
聖書が塔の建立者の口を借りて、語らせたことばです。
バベルと云うことばは、「神の門」の意味ですが、高い塔を空高く積み上げる事は、取りも直さず、天の神に近づく事であり、人々はこの為に高い塔を建て、天に昇る入口を造ろうとしたのでした。
伝承に由れば、工事は一日に30cmずつ、レンガを積上げ、塔の頂きは雲に隠れる程であったと云い、その影の長さは、3日も掛かる長さに伸び、頂上に行き着く迄には、半日を要したと云われます。
私達は、現在その偉容に直接接する事は、永久に出来ませんが、バベルの塔が跡形も無く消滅してしまったかについて、聖書は語りません。
伝説には、ニムロデが巨大な塔を完成させた時、人々は天の神に近づく事が出来ると言って喜び、ニムロデは「今こそ、自分は神に勝る強大な存在であり、天地を支配する権力を握る事が出来た」と豪語したと云います。
神は、人間の傲慢な振る舞いに怒り、そして言いました。
「見よ、彼らは皆同じ言葉を持った一つの民である。そして、その最初の仕事が此の有様だ。今に彼らが行おうとする事は、何事も留められなくなるだろう。彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じない様に仕向けよう」
神は、嵐を巻き起こし、塔の上部を吹き飛ばし、稲妻は激しい炎を放ち、塔を焼き尽くして、地上の人間を散らしてしまったので、彼等は、町を造る事を止めました。
其処でその町の名前は「バベル(混迷)」と呼ばれ、神が全ての土地の言葉を乱し(バーラル)、其処から彼等を全ての土地に散らせたのでした。
その後、塔はセミラミス女王とネブカドネザル2世の時代に再建され、紀元前460年頃、バビロンを訪れたハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスは、再建されたバベルの塔について、次の様に述べています。
「聖域の中に、縦横とも1スタディオン(185m)の堅固な塔が造られ、塔の上に第二の塔が存在し、この様にして8層の塔が積重ねられている。外側は、回転式の一種の休息所が在り、塔を上る者は腰を降ろして休息した。
最上部には、大きな神殿が在るものの神像の類は存在しなかった・・・神は時々神殿に来て、其処で休んだのだろう」
バベルの塔は、現在その姿を想像する以外に方法は有りませんが、12世紀、ロマネスク時代の鐘楼にその在りし日の姿が描かれた事をはじめ、ヘルツォーク(15世紀)、ブリューゲル(16世紀)、マシュウ・メリアン(17世紀)等の手によって、今日に姿を知らしめています。
尚、メソポタミア地方には、現在でも階層を成したバベルの塔を小さくした粘土の塔が、沢山存在しますが、此れはジグラットと呼ばれ「山の家」の意味なのです。
続く・・・

ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude, 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)作「バベルの塔」(1563年)
今を遡る7000年の昔、現在のイラクとイランの南西部にあたる付近には、シュメール人の文化が栄えていました。
この地方には、チグリス河とユーフラテス河が流れ、地味豊かで農耕に適した地方です。
この地方一体はメソポタミアと呼ばれ、ギリシア語で「河と河の間の地」と云う意味なのです。
シュメール人は、このメソポタミアの地に、最初の都市ウルを建設しました。
メソポタミア地方には、殆ど石が無い為、粘土を固めてレンガを作り、家屋や神殿を建設して行きました。
又、粘土版に楔形の文字を刻み、記録する術を知っており、やがて、メソポタミア地方には数多くの都市国家が生まれ、長期間に渡って異民族の侵入をうける事も無く、独自の文化を営む事が可能でした。
やがて、セム族のアムル人がメソポタミアに侵入し、バビロンを中心に統一国家バビロニアを建国します。
ハンムラビ法典で知られる、ハンムラビ王(バビロン第一王朝)の時代(紀元前1729年~紀元前1686年)が最大の繁栄期であり、後世からも模範とされた古典時代を現出しました。
後の時代、北方に勢力を伸ばしたアッシリアが、次第に勢力を拡大し、メソポタミアの地に侵入を繰り返します。
紀元前7世紀に至り、ネブカドネザル2世(在位紀元前605年~紀元前562年)の時代から再び栄光の時代を取り戻し、新バビロニアと成ります。
新バビロニアが最も繁栄した時代は、先のネブカドネザル2世の時代で、その当時のバビロニアは「全ての国の中で、最も美しい国」称されました。
首都のバビロンは、その面積が現在のロンドンに匹敵する程の広さを誇り、日干し煉瓦で造られた城壁は、総延長64kmに及び、夥しい塔楼と青銅造りに門が存在し、中でも有名な物が現在に残る、イシュタール門なのです。
城壁は広く、当時戦闘に使用された四頭立てのシャリオットが、自由に走行出来たと云われ、この都を訪れたキャラバンは南の門から入り、北の門に辿り着く為に1日を費やしたと記録が残されています。
強力な軍隊に警護され、難攻不落を誇ったバビロンもやがては、度重なる戦火によって破壊され、廃墟と化しました。
記憶に残るこの華麗なる都は、多くの伝承によって何時しか伝説の都と成り、「バベルの塔」「空中庭園」の話が現在に伝えられているのです。
◎バベルの塔
バビロンの都の近く、ユーフラテス河から1km程の平原の中に、山の様にそびえる巨大な建造物が存在し、現在の人々は此れを「バベルの塔」と呼んでいます。
バベルの塔は、明らかに神を祭った神殿ですが、なぜこの様な大建造物を建立したのでしょう?
話は、創世記に伝えられるノアの洪水迄、遡ります。
聖書に由れば、この洪水は神の怒りにより、地上の悪を滅ぼす為に起こされたもので、信仰心の厚いノアの家族だけが、箱舟に乗ってこの災いを逃れる事が出来ました。
この箱舟に乗っていた、ノアの三人の息子、ハム、セム、ヤペテがやがてメソポタミア地方を支配する事に成り、ハムは、バビロンの都を築いたと云われ、子孫のニムロデは、バビロンの王に成りバベルの塔を築いたと云われます。
「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そして我々の名を上げて、全地の表に散るのを免れ様」(創世記十一章四節)
聖書が塔の建立者の口を借りて、語らせたことばです。
バベルと云うことばは、「神の門」の意味ですが、高い塔を空高く積み上げる事は、取りも直さず、天の神に近づく事であり、人々はこの為に高い塔を建て、天に昇る入口を造ろうとしたのでした。
伝承に由れば、工事は一日に30cmずつ、レンガを積上げ、塔の頂きは雲に隠れる程であったと云い、その影の長さは、3日も掛かる長さに伸び、頂上に行き着く迄には、半日を要したと云われます。
私達は、現在その偉容に直接接する事は、永久に出来ませんが、バベルの塔が跡形も無く消滅してしまったかについて、聖書は語りません。
伝説には、ニムロデが巨大な塔を完成させた時、人々は天の神に近づく事が出来ると言って喜び、ニムロデは「今こそ、自分は神に勝る強大な存在であり、天地を支配する権力を握る事が出来た」と豪語したと云います。
神は、人間の傲慢な振る舞いに怒り、そして言いました。
「見よ、彼らは皆同じ言葉を持った一つの民である。そして、その最初の仕事が此の有様だ。今に彼らが行おうとする事は、何事も留められなくなるだろう。彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じない様に仕向けよう」
神は、嵐を巻き起こし、塔の上部を吹き飛ばし、稲妻は激しい炎を放ち、塔を焼き尽くして、地上の人間を散らしてしまったので、彼等は、町を造る事を止めました。
其処でその町の名前は「バベル(混迷)」と呼ばれ、神が全ての土地の言葉を乱し(バーラル)、其処から彼等を全ての土地に散らせたのでした。
その後、塔はセミラミス女王とネブカドネザル2世の時代に再建され、紀元前460年頃、バビロンを訪れたハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスは、再建されたバベルの塔について、次の様に述べています。
「聖域の中に、縦横とも1スタディオン(185m)の堅固な塔が造られ、塔の上に第二の塔が存在し、この様にして8層の塔が積重ねられている。外側は、回転式の一種の休息所が在り、塔を上る者は腰を降ろして休息した。
最上部には、大きな神殿が在るものの神像の類は存在しなかった・・・神は時々神殿に来て、其処で休んだのだろう」
バベルの塔は、現在その姿を想像する以外に方法は有りませんが、12世紀、ロマネスク時代の鐘楼にその在りし日の姿が描かれた事をはじめ、ヘルツォーク(15世紀)、ブリューゲル(16世紀)、マシュウ・メリアン(17世紀)等の手によって、今日に姿を知らしめています。
尚、メソポタミア地方には、現在でも階層を成したバベルの塔を小さくした粘土の塔が、沢山存在しますが、此れはジグラットと呼ばれ「山の家」の意味なのです。
続く・・・
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コメント
おきてがみにコメントありがとうございました。(^○^)/
古代ロマン、とても興味深く拝見しました。(^^)/
2014-02-11 12:03 クロちゃん URL 編集