歴史のお話その320:語り継がれる伝説、伝承、物語108
<エフェソスのアルテミス神殿その②>

アルテミス神殿復元CG
◎エペソ人の手紙
エフェソスの名前は、私達に新約聖書の「エペソ(エフェソス)人の手紙)を連想させます。
使徒パウロがエフェソスに居る、キリスト教徒に与えた手紙で、ヨハネの黙示録では、次の様に綴られています。
「私は、貴方の技と苦労と忍耐を知っている・・・貴方は忍耐をし続け、私の名の為に忍び通して、弱りはてる事がなかった。
しかし、貴方に対して責むべき事が在る。貴方ははじめの愛を離れてしまった。そこで、貴方はどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの技を行いなさい。もし、そうしないで、悔い改めなければ、私は貴方のところへ来て、貴方の燭台をその場から取り除け様」(ヨハネの黙示録第二章)
この文章から忠告を受けている事が判りますが、パウロの手紙では「キリスト・イエスにあって忠実な聖徒達」、「主イエスに対するあなた方の信仰と、全て聖徒に対する愛とを耳にし」等信頼と愛情を受けています。
私達は、使徒パウロがエフェソスで、偶像崇拝の迫害に抗しながら、神の道を解く様を、使徒行伝第十九章を通して見る事ができます。
使徒パウロはエフェソスの街に二か年も留まり、神の道を説き、悪魔を追い出し、病を治したので、多くの者が信者となり、其れまで「魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨て、その価値は、銀5万にも上る事が判った」と在りますが、この行為は、秦の始皇帝が行った「焚書坑儒」と共に焚書のはしりと云われています。
聖パウロがエフェソスで神の道を説き、人々に偶像崇拝を止める様に勧めた時、激しい抗議を受けた事が、使徒行伝第十九章に記されています。
「デメテリオと云う銀細工職人が、銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人達に少なからぬ利益を得させていた。この男がその職人達や、同業者達を集めて言った。“諸君、我々がこの仕事で、金儲けしている事は、ご承知の通りだ。然るに、諸君も見聞きしている様に、あのパウロが、手で造られたものは神様ではない等と言って、エペソ(エフェソス)ばかりか、殆どアジア全体に渡って、大勢の人々を説きつけて誤らせた。是では、お互いの仕事に悪評が立つ恐れがあるばかりか、女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジア、いや全世界が拝んでいるこの女神様のご威光さえも、消えてしまいそうで有る”
是を聞くと人々は怒りに燃え、大声で“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”叫び続けた。そして街中が大混乱に陥り、人々はパウロの同行者である、マケドニア人ガイヤオとアリスタルコを捕らえて、一斉に劇場へなだれ込み、全員が“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”と二時間ちかくも叫び続けた。終に、市の書記役が群集を押し沈めて言った。“エペソの諸君、エペソ市が女神アルテミスと、天下ったご神体の守護役である事を知らない者が、一人でも居るだろうか?是は否定できない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、一切してはならない。諸君はこの人達をこの場所に引き立てたが、彼等は神殿を荒らす者でも、我々の女神を謗る者でもない。だから若し、デメテリオなりその職人仲間なりが、誰かに対して訴え事が有るのなら、裁判の日は有るし、総督も居るのであるから、それぞれ訴え出るがよい”」
◎ゴート人の侵入
エフェソスのアルテミス神殿は、聖パウロが同地を訪れて後、約100年の間、栄光に満ちた姿を見せていましたが、260年~268年、ヨーロッパからアジアに侵入したゴート人によって、略奪と破壊を余儀なくされました。
そして、神殿跡は採石場と化し、屋根、台座、円柱は破砕され、石灰を作る為の資材となり、建築材料として運び去られました。
その結果、神殿の構造物で満足な姿で現存する物は、全く存在せず、その廃墟の上に時の経過と共に、土や草木が覆い、終には神殿の存在した場所その物の痕跡が、地上から消滅してしまいました。
12世紀の事、かねてよりアルテミス神殿の壮麗さを聞かされていた、十字軍の軍団がこの地を通過した時、当時の町の住人の神殿の事を尋ねても、住人の記憶からもアルテミス神殿は消えていたのでした。
◎神殿の発掘
1863年、イギリスの考古学者J・T・ウッドが登場する迄、1600年という時間が流れていました。
ウッドは、プリニウス(23年~79年:ローマ時代の博物学者)や、ディオゲネス・ラエルティオス(紀元前3世紀頃:ギリシア哲学史家)、ストラボン(紀元前63年~紀元前21年:地理学者・歴史家)等の著作を読み、エフェソスのアルテミス神殿の廃墟を探索し、発掘する決意をしたのでした。
大英帝国博物館の後援を得つつも、11年の歳月と、常に資金不足に悩みながら、終に地下7mの付近から、大神殿の痕跡を掘り当て、発見した建設用の石材や、円柱の破片を基に、芸術家の援助によって、かなりの正確さで、神殿の姿を復元したのです。
かつてタイア(古代フェニキアの港湾都市)からの商船を迎え、カルタゴからの艦隊を迎えて、大いなる繁栄を謳歌したエフェソスも、現在は過去の栄華を偲ぶものは一切無く、20軒程のトルコ系住民の住む寒村に過ぎません。
続く・・・

アルテミス神殿復元CG
◎エペソ人の手紙
エフェソスの名前は、私達に新約聖書の「エペソ(エフェソス)人の手紙)を連想させます。
使徒パウロがエフェソスに居る、キリスト教徒に与えた手紙で、ヨハネの黙示録では、次の様に綴られています。
「私は、貴方の技と苦労と忍耐を知っている・・・貴方は忍耐をし続け、私の名の為に忍び通して、弱りはてる事がなかった。
しかし、貴方に対して責むべき事が在る。貴方ははじめの愛を離れてしまった。そこで、貴方はどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの技を行いなさい。もし、そうしないで、悔い改めなければ、私は貴方のところへ来て、貴方の燭台をその場から取り除け様」(ヨハネの黙示録第二章)
この文章から忠告を受けている事が判りますが、パウロの手紙では「キリスト・イエスにあって忠実な聖徒達」、「主イエスに対するあなた方の信仰と、全て聖徒に対する愛とを耳にし」等信頼と愛情を受けています。
私達は、使徒パウロがエフェソスで、偶像崇拝の迫害に抗しながら、神の道を解く様を、使徒行伝第十九章を通して見る事ができます。
使徒パウロはエフェソスの街に二か年も留まり、神の道を説き、悪魔を追い出し、病を治したので、多くの者が信者となり、其れまで「魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨て、その価値は、銀5万にも上る事が判った」と在りますが、この行為は、秦の始皇帝が行った「焚書坑儒」と共に焚書のはしりと云われています。
聖パウロがエフェソスで神の道を説き、人々に偶像崇拝を止める様に勧めた時、激しい抗議を受けた事が、使徒行伝第十九章に記されています。
「デメテリオと云う銀細工職人が、銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人達に少なからぬ利益を得させていた。この男がその職人達や、同業者達を集めて言った。“諸君、我々がこの仕事で、金儲けしている事は、ご承知の通りだ。然るに、諸君も見聞きしている様に、あのパウロが、手で造られたものは神様ではない等と言って、エペソ(エフェソス)ばかりか、殆どアジア全体に渡って、大勢の人々を説きつけて誤らせた。是では、お互いの仕事に悪評が立つ恐れがあるばかりか、女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジア、いや全世界が拝んでいるこの女神様のご威光さえも、消えてしまいそうで有る”
是を聞くと人々は怒りに燃え、大声で“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”叫び続けた。そして街中が大混乱に陥り、人々はパウロの同行者である、マケドニア人ガイヤオとアリスタルコを捕らえて、一斉に劇場へなだれ込み、全員が“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”と二時間ちかくも叫び続けた。終に、市の書記役が群集を押し沈めて言った。“エペソの諸君、エペソ市が女神アルテミスと、天下ったご神体の守護役である事を知らない者が、一人でも居るだろうか?是は否定できない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、一切してはならない。諸君はこの人達をこの場所に引き立てたが、彼等は神殿を荒らす者でも、我々の女神を謗る者でもない。だから若し、デメテリオなりその職人仲間なりが、誰かに対して訴え事が有るのなら、裁判の日は有るし、総督も居るのであるから、それぞれ訴え出るがよい”」
◎ゴート人の侵入
エフェソスのアルテミス神殿は、聖パウロが同地を訪れて後、約100年の間、栄光に満ちた姿を見せていましたが、260年~268年、ヨーロッパからアジアに侵入したゴート人によって、略奪と破壊を余儀なくされました。
そして、神殿跡は採石場と化し、屋根、台座、円柱は破砕され、石灰を作る為の資材となり、建築材料として運び去られました。
その結果、神殿の構造物で満足な姿で現存する物は、全く存在せず、その廃墟の上に時の経過と共に、土や草木が覆い、終には神殿の存在した場所その物の痕跡が、地上から消滅してしまいました。
12世紀の事、かねてよりアルテミス神殿の壮麗さを聞かされていた、十字軍の軍団がこの地を通過した時、当時の町の住人の神殿の事を尋ねても、住人の記憶からもアルテミス神殿は消えていたのでした。
◎神殿の発掘
1863年、イギリスの考古学者J・T・ウッドが登場する迄、1600年という時間が流れていました。
ウッドは、プリニウス(23年~79年:ローマ時代の博物学者)や、ディオゲネス・ラエルティオス(紀元前3世紀頃:ギリシア哲学史家)、ストラボン(紀元前63年~紀元前21年:地理学者・歴史家)等の著作を読み、エフェソスのアルテミス神殿の廃墟を探索し、発掘する決意をしたのでした。
大英帝国博物館の後援を得つつも、11年の歳月と、常に資金不足に悩みながら、終に地下7mの付近から、大神殿の痕跡を掘り当て、発見した建設用の石材や、円柱の破片を基に、芸術家の援助によって、かなりの正確さで、神殿の姿を復元したのです。
かつてタイア(古代フェニキアの港湾都市)からの商船を迎え、カルタゴからの艦隊を迎えて、大いなる繁栄を謳歌したエフェソスも、現在は過去の栄華を偲ぶものは一切無く、20軒程のトルコ系住民の住む寒村に過ぎません。
続く・・・
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2014-02-16 17:27 編集