2014/02/17

歴史のお話その321:語り継がれる伝説、伝承、物語109

<オリンピアのゼウス像>

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 紀元前5世紀の頃、ギリシアには著名な建築家や芸術家が、多数存在していました。
フェイディアス(Pheidias)もその一人でした。
彼は、アテネの画家カルミデスの子供として、紀元前490年頃に誕生し、後年優れた彫刻家に成りました。
ギリシア彫刻古典期を代表する巨匠で、残念ながら原作と立証できる作品は、現存していませんが、パルテノンの装飾彫刻からその作風を伺い知る事が出来ます。
文献に由れば、アテネのパルテナス像、オリンピアのゼウス像等何れも彼の手に成る事が明らかなのです。
オリンピアのゼウス像は、フィロの世界の七不思議に名前を連ねています。

 オリンピアはギリシアのペロポネソス半島北西のエリス地方に位置し、その地のゼウス神殿の前で4年毎に開催される協議(古代オリンピック)は、古くから知られていました。
昔から、ギリシアで最も美しい処と称えられ、宗教的にも崇拝の一中心地に成っていました。
近郊には、ガスの出る地域が在り、このガスを利用して一種の卜占が行われ、最初クロノスやヘラ等の大地母神、女性神が崇拝されていましたが、後年ゼウス崇拝に変わり、紀元前457年に雷神ゼウスの神殿が建立され、フェイディアスの作となるゼウス像が安置されました。

 神殿は台地の上に聳え、両側に13本ずつ、両端に6本ずつの巨大なドーリア風列柱に囲まれ、緩い傾斜の屋根を頂いていました。
フェイディアスの製作したゼウス像は、神殿の中央、高さ90cm、幅6.6mの石の台座に安置され、像其のものの高さは12m、殆ど天井に達する高さで、全体はクリュセレファンティンと呼ばれる、象牙と木組みに貼り付けた金の板で形作られていました。
湿気の為に気が収縮しない様に、常に油が注がれ、このゼウス像の保守は、フェイディアスの子孫の手に何世紀も委ねられてきました。

◎黄金の像

 ゼウス像は、宝石、黒檀、象牙によって象嵌された金の玉座に安置され、両足は参拝者のほぼ目の高さにあたる金製の足台に乗せられ、右手は上に伸ばし、金と象牙の勝利の女神ニケを支え、左手には黄金をはめ込んだ王尺を持ち、その上に鷹がとまっていました。
ぞうげに彫られた力強い両肩には、花や動物で飾られた金製のマントルがひだを広げていました。

 この像を見た当時の人々は、次の様に感想を述べています。
「重荷を負える人も、不幸と悲しみの盃を飲み干した人も、もし立ってこの像を眺めるならば、この不可解な世界の辛く気だるい重さを忘れるであろう」と。

◎オリンピア

 オリンピアの言葉を聞くと、現代の人々は誰も、4年毎に開催されるオリンピック競技を連想する事と思います。
伝説では、ヘラクレスによって初めて開かれたと、云われています。
第一回は、紀元前776年、以後217年迄4年毎に開催されました。
最初は、地方単位の小さな行事に過ぎませんでしたが、やがて全ギリシアの行事となり、後にはマケドニア人やローマ人も参加する様に成りました。

 競技種目も最初は、ランニングとレスリングだけでしたが、最終的には24種目迄増加し、演説や絵画迄加わりました。
開催前後の1ヶ月は、「神聖な休戦」と呼ばれ、ギリシア周辺で行われている、如何なる戦争も休戦とされ、ペルシア戦争の折でさえ、この誓いは守られたのです。
競技の勝利者には、神域に在る神聖なオリーブの枝で作られた冠(月桂冠)与えられ、更に勝利者となる事は大変な名誉で、その彫像や記念碑は神域の中に建てられ、帰国後は名誉市民として、その一生を国費で賄われたのでした。

 オリンピアの競技は、ギリシアがその覇権を喪失した後も、長く開催され続けましたが、394年ローマ皇帝テオドシウス1世が、オリンピア競技の禁止に関する勅令を公布し、426年には異教の神殿破壊令が出され、ゼウス神殿は破壊され、更に522年と551年の震災でクロノスの丘は崩壊し、グラディオス川の氾濫により、その神域は3m~5mの砂の層に埋没する事と成りました。

 しかしながら、古代より文明の発展した地域に在ったお陰で、この周辺には神殿、公共施設、競技場等の建造物が多数埋没している事が知られており、18世紀頃から発掘を志す者が多数存在しました。
1829年ギリシアが独立を果たすと共に、フランスによってゼウス神殿跡の発掘が開始され、メトーブ、柱、屋根等の破片が発見されました。1875年~81年にかけて、ドイツ政府により本格的な発掘作業が再開され、オリンピアの全体像が解明され、ゼウス神殿の跡もほぼ確定されたのでした。

続く・・・

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