歴史のお話その322:語り継がれる伝説、伝承、物語110
<ハリカルナッソスの霊廟>

紀元前4世紀の半ば、小アジアに栄えたカリア王国の首都ハリカルナッソスは港町で、マウソロス王によって統治されていました。
マウソロス王は、精力的、好戦的な性格でロードス島を征服し、暫くは隣国リュキアの領主となった事意外、現在に伝えられる事は、殆ど存在していません。
霊廟が、彼の名前に由来しマウソレウムと云う単語に成ったのは、彼の妃アルテミシアの献身の賜物と言わなければ成りません。
紀元前353年、マウソロス王が崩御すると、王妃アルテミシアは、亡き王の霊を慰める為、霊廟を建立する事としました。
王妃は、ギリシアから建築家サテュロス、ピュティアス、彫刻家スコパス、レオカレス、プリュアクシス、ティモティオス等、著名な芸術家を招集し、世界で最も壮麗な墓を造る様に命じたのでした。
彼等はエジプトのピラミッドや、ファロスの灯台に比較すれば小規模では在るものの、構造の美しさ、彫刻装飾の豊かさ、技巧の巧みさに於いて、当時知られる如何なる建造物よりも、優れた建物を造る事としたのです。
不幸にも王妃アルテミシアは、その完成を見る事無く、王マウソロス崩御の2年後に世を去りますが、王妃の遺志に従い霊廟の建立作業は、継続されたのでした。
霊廟は、ハリカルナソスの町の中央部に在る広場に造られ、まず四角の大理石の基礎が置かれ、それぞれの四隅には、馬に乗った戦士達の彫像が置かれ、金白色の大理石で造られた36本のイオニア式円柱が立ち並び、円柱と円柱の間には、男神と女神が交互に置かれました。
36本の円柱の上には台輪が載せられ、其処から急傾斜の高いピラミッドが組み立てられ、更に頂上には金箔を貼った青銅の馬具をつけた、4頭立ての2輪馬車に、大理石で造られたマウソロス王と王妃アルテミシアの像が載せられました。
霊廟の高さは42m、周囲123mの巨大な建造物に成りました。
◎霊廟の復元
マウサロスの霊廟は、エフェソスのアルテミス神殿と異なり、1500年以上もその姿を留めていたと考えられます。
しかし「形在る物は、時来れば滅す」の喩え通り、この地上から姿を消す時が来ました。
1402年イスラム勢力によってエルサレムを奪回された、十字軍はハリカルナッソス(当時の名前はブドルム)の戦略上の重要性を認め、その地に城砦を築きます。
資材には、霊廟の石材を使い、破片は更に粉砕して、石灰を作る材料となり、その場所に巨大な霊廟の痕跡すら残しませんでした。
時は流れて1859年イギリスの考古学者チャールズ・ニュートン卿は、霊廟の存在した土地を整備し、地中深くに埋没した、石のライオンや、円柱の破片、彫像等を発掘し、ロンドンの大英大国博物館の特別室(マウソレウム室)に陳列されて、その部屋には、霊廟の復元模型も展示されていますが、その考察の巧みさから、恐らく失われた霊廟に最も近いものと云われています。
マウソロスの町は、現在ブドルムと呼ばれる漁村で、栄華を誇った当時の面影を伝える物は一切存在せず、霊廟の存在した場所も、雑草の茂る窪地に過ぎません。
21世紀に生きる私達は、居ながらにして世の事柄を見聞きし、必要とあれば数時間で現地に赴く事も可能です。
巨大産業文明の中で生活する私達ですが、歴史上黄金時代の古代ギリシア人の様に美を愛し、美を理解し、美の為に生活する時間を持っているでしょうか?
疑わしい事と思います。
続く・・・

紀元前4世紀の半ば、小アジアに栄えたカリア王国の首都ハリカルナッソスは港町で、マウソロス王によって統治されていました。
マウソロス王は、精力的、好戦的な性格でロードス島を征服し、暫くは隣国リュキアの領主となった事意外、現在に伝えられる事は、殆ど存在していません。
霊廟が、彼の名前に由来しマウソレウムと云う単語に成ったのは、彼の妃アルテミシアの献身の賜物と言わなければ成りません。
紀元前353年、マウソロス王が崩御すると、王妃アルテミシアは、亡き王の霊を慰める為、霊廟を建立する事としました。
王妃は、ギリシアから建築家サテュロス、ピュティアス、彫刻家スコパス、レオカレス、プリュアクシス、ティモティオス等、著名な芸術家を招集し、世界で最も壮麗な墓を造る様に命じたのでした。
彼等はエジプトのピラミッドや、ファロスの灯台に比較すれば小規模では在るものの、構造の美しさ、彫刻装飾の豊かさ、技巧の巧みさに於いて、当時知られる如何なる建造物よりも、優れた建物を造る事としたのです。
不幸にも王妃アルテミシアは、その完成を見る事無く、王マウソロス崩御の2年後に世を去りますが、王妃の遺志に従い霊廟の建立作業は、継続されたのでした。
霊廟は、ハリカルナソスの町の中央部に在る広場に造られ、まず四角の大理石の基礎が置かれ、それぞれの四隅には、馬に乗った戦士達の彫像が置かれ、金白色の大理石で造られた36本のイオニア式円柱が立ち並び、円柱と円柱の間には、男神と女神が交互に置かれました。
36本の円柱の上には台輪が載せられ、其処から急傾斜の高いピラミッドが組み立てられ、更に頂上には金箔を貼った青銅の馬具をつけた、4頭立ての2輪馬車に、大理石で造られたマウソロス王と王妃アルテミシアの像が載せられました。
霊廟の高さは42m、周囲123mの巨大な建造物に成りました。
◎霊廟の復元
マウサロスの霊廟は、エフェソスのアルテミス神殿と異なり、1500年以上もその姿を留めていたと考えられます。
しかし「形在る物は、時来れば滅す」の喩え通り、この地上から姿を消す時が来ました。
1402年イスラム勢力によってエルサレムを奪回された、十字軍はハリカルナッソス(当時の名前はブドルム)の戦略上の重要性を認め、その地に城砦を築きます。
資材には、霊廟の石材を使い、破片は更に粉砕して、石灰を作る材料となり、その場所に巨大な霊廟の痕跡すら残しませんでした。
時は流れて1859年イギリスの考古学者チャールズ・ニュートン卿は、霊廟の存在した土地を整備し、地中深くに埋没した、石のライオンや、円柱の破片、彫像等を発掘し、ロンドンの大英大国博物館の特別室(マウソレウム室)に陳列されて、その部屋には、霊廟の復元模型も展示されていますが、その考察の巧みさから、恐らく失われた霊廟に最も近いものと云われています。
マウソロスの町は、現在ブドルムと呼ばれる漁村で、栄華を誇った当時の面影を伝える物は一切存在せず、霊廟の存在した場所も、雑草の茂る窪地に過ぎません。
21世紀に生きる私達は、居ながらにして世の事柄を見聞きし、必要とあれば数時間で現地に赴く事も可能です。
巨大産業文明の中で生活する私達ですが、歴史上黄金時代の古代ギリシア人の様に美を愛し、美を理解し、美の為に生活する時間を持っているでしょうか?
疑わしい事と思います。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント