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2014/02/21

歴史のお話その323:語り継がれる伝説、伝承、物語111

<ヘリオスの巨神像>

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 ロードス島はエーゲ海の南東部、小アジア半島近海に浮かぶ島で、常に戦略的、商業的な要地でした。
出土品等によって、既にミケナイ時代(紀元前15世紀)頃には、繁栄していた事が判明しています。
このロードス島にヘリオス(アポロン)の巨像が建設された経緯には、次の様な話が伝えられています。
ロードス島は、先の霊廟で登場した、カリア王マウソロスの支配下に入った事も在りましたが、その後ペルシアの征服者ダレオス王により支配されました。
紀元前340年、アレクサンドロス大王によって開放され、エジプトのアレキサンドリア(アルイスカンドリア)が地中海交易の中心地になった時、ロードス島はその中継となり、船舶は東方の財貨をこの島に運び、エジプトの産物を地中海全域に配分しまし、島は富み栄えたのでした。

 その後、エジプトのプトレマイオスがマケドニアと戦火を交えた時、ロードス島の人々は船舶を提供してプトレマイオスを援助したのです。
この様な事実から、紀元前307年、マケドニアは4万の軍勢と370隻の軍船を伴い、北部ギリシアからロードス島に侵攻し、攻撃軍は城壁を破壊する為、当時最も強大な青銅製の攻城機、斧、石弓を持ち込みました。
当時のロードス島の人口は、全てを集めても侵略軍の軍勢に及ばず、大変な苦戦を強いられたものの、勇敢に戦いマケドニア軍の攻撃を撃退して、1年間も島を死守しました。
歴史家の記述によれば、ロードス島の島民は、奴隷達にも武器を与え、戦争の終了した暁には自由人となる事を約束し、女性は弓の弦を作る為に髪の毛を差し出し、食物、衣類、武具を昼夜分かたず作り続け、島民は城壁の補強の為に神殿の石材さえを用いたと云います。
しかし、外部からの応援が望めない限り、これ以上の持久戦は不可能でした。

 その様な折、プトレマイオスがロードス島救援の為、大艦隊を急派し、マケドニア軍は沢山の武器を遺棄して本国へ撤退を余儀なくされたのでした。
ロードス島の人々は、プトレマイオスを「ソーテール(救い主)」として仰ぎ、感謝の印としてマケドニア軍が遺棄した青銅製武器を集めて、自分達の守護神ヘリオスの像を造る事にしました。

◎巨像の建立

 巨像の製作に従事したのは、有名な彫刻家リュシッポスの弟子で、リンドウスのカレスです。
カレス自身、ロードス島防御の為に勇敢に戦った一人でも在り、彼はこの記念像を建立する場所として、ロードスの港と外海の間に防波堤の様に突き出ている小さな岬の端を選びました。

 白い大理石の台座部分だけでも、15mの高さが有ったと云います。
その上に巨大な青銅の足を据え、胴、腕、頭部と付け加えて行き、空洞になった足首と脚部を安定させる為に、多量の石材が注ぎ込まれました。
カレスはこの巨像を完成に漕ぎ着ける迄に、12年の歳月を要しました。
像の高さは33m、胴回り18m、脚の太さ3.3m、足首だけでも1.5mもあり、ヘリオスの像は台座の高さを加えると48mにもなり、其れは現在のニューヨーク、リバティ島に聳え立つ自由の女神像に匹敵するものでした。
若し現代に現存していたならば、ヘリオス像と自由の女神像は双子の像と見られたかも知れません。
ヘリオス像は青銅製、自由の女神像は銅製で、何れも頭の周りに太陽の光を模った冠を戴き、自由の女神像は燭台から光を放ち、ヘリオス像はその眼から光を放ったと云われています。
高さから言えば、自由の女神像は台座を別にしても、腕を高く差し上げている分だけ、12m程高いのですが。

 処で、ヘリオス像には足から腰、胴、胸、肩、首、頭部と螺旋階段が設けられ、開いた眼のすぐ後部迄続き、夜間はこの台の部分に火が灯され、この眼の光は遥か遠くから観る事が出来ました。
この眼の部分には、いくつかの部屋も設けられ、遠方を観測する事も出来たと云われ、眼下の港や町、雪に覆われた小アジアの山々、そして真蒼な地中海が広がっていました。
港の背後の緑の丘の上には、堅固な城壁に囲まれた白い町も見渡せと思われ、港に出入りする無数の艦船も手に取る様に見えた事でしょう。

◎像に纏わるお話

 ロードス島のヘリオス像は、正しく当時の地中海世界で驚異の眼差しで見られ、世界の七不思議を選んだフィロによれば「ヘリオスの巨像は、単に巨大であるばかりでは無く、人間によって造られた神像の内で、最も完全な形の像であった」と述べていますが、一方では、神像をほぼ完成させたカレスは、設計計算の誤りに気づき、自殺を企てたとも云われ、又カレスが、作品の出来栄えを自慢したとき、ある人物から構造上の弱点を指摘され、誇りを傷つけられたとして、自殺したとも伝えられています。

 ヘリオスの巨像に設計上の不具合が存在したか否かについては、現在では検証のしようも在りませんが、この膨大な資材と人力と歳月を持って建立された巨像は、僅か半世紀程でこの地上から永遠に姿を消す事に成りました。
紀元前227年、この地方を襲った大地震の為に、ロードス島は甚大な被害を被ったのですが、ヘリオスの巨像は無残にも、巨大な両足の部分を残し、膝の部分から倒壊しました。
しかし、倒壊した青銅部分は海中に落下せず、その破片は7世紀後半迄、そのまま岩盤の上に残り、ファラオの一人はもし巨像を再建する計画が在るのなら、それに必要な金銭を提供しても良いと申しでたものの、ロードス島の人々は、おそらく、我々の神は其れを喜ばないだろうとして、断ったと云われています。
 
 巨像に関する記録は、倒壊してからもその残骸を見た人々によって伝えられ、その残骸の姿でもなお、見る人々を驚嘆させるに十分なものとの事でした。
ローマの博物学者プリニウスが、1世紀の頃、ロードス島を訪れた時、崩れ落ちた巨像を調査した結果、親指の周りを両腕で回せる成人男性は殆ど無く、指の長さは普通の神像よりも長く設計され、崩壊した脚部の中は空洞に成っていたと報告されています。

 巨像の残骸は、800年以上に渡って、地面に横たわっていましたが、672年、アラブによるロードス島占領の際、破片やその他をスクラップとしてユダヤ商人に売却してしまい、ユダヤ商人は300t程の青銅を900頭の駱駝に乗せて運び去り、現在では一切の痕跡を残さず、ヘリオス像がどの位置に建っていたか正確に伝える物は存在しません。
フィロの世界に七不思議にその名前が、残るだけなのです。

 処で、ヘリオスの巨像は、プリニウスが述べている様に、高い台座の上に両足を揃えて立っていたのですが、何時の頃から、港の入口の両方の岬を両足で踏まえ、その下を船が出入りしたと云う伝説が生まれました。
シェクスピアは、この話を信じていたのか、「ジュリアス・シーザー」の中で、カッシウスに、「あの男は狭い世に足を踏みはだけている。まるでコロッサス(巨像)の様に。そして我々人間どもは、あの大きな男の股の下をくぐって、みじめな墓地を探し回っている」と言わせ、ジョナサン・スイフト(1667年~1745年)も同じ様に伝説を鵜呑みにして、「ガリヴァー旅行記」(1726年初版)の中でガリヴァーをリリパトの首都の広場に大股を広げて立たせ、その下をくぐって軍隊を行進させ時、「コロッサスの様に」との単語で形容しています。
事実、これ等の伝説から、ヘリオスの巨像の両足を広げた姿に描いているものも散見されますが、事実に基づかない想像に過ぎません。
ギリシアの芸術家は、だれ一人として、その様な品位の無い姿で、神の像を設計するはずは無く、現実問題として、幅60mを超える港湾の入口を跨がせるなら、その像は少なくとも120m以上の身長が必要となり、其処まで巨大な像が青銅で建造されたとは、考えられません。
やはり、ヘリオスの巨像は、ギリシア伝統の立像として、石の台座に両足を真直ぐ踏み揃えて立っていたのでしょう。

続く・・・


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