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2014/02/23

歴史のお話その324:語り継がれる伝説、伝承、物語112

<アレクサンドリアの灯台>

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◎古代アレクサンドリア

 アレクサンドリアは、エジプト第二の都市、地中海とマレオティス湖に挟まれた狭い陸地に存在し、エジプト第一の港湾都市でも在ります。
アレクサンドリアとは「アレクサンドロスの都」の意味でマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356年~紀元前323年)が、紀元前322年のエジプト征服後、ナイルデルタの西側、ラコティスの漁村に近く、北にファロス島を控え、西にマレオティス湖を湛えた地を選び、建築家のディノクラティスに命じて都市を建設した事が発端に成ります。

 大王は将来、この都市を世界貿易の中心とする考えでした。
都市の建設は、クレオメネス、更にはプトレマイオス朝エジプトに継承され、やがては同王朝の首都と成り、プトレマイオス2世の治世に完成しました。
完成したアレクサンドリアの街は、アレクサンドロス大王の意思に違わず、東西の接点として機能し、地中海貿易とアラビア、インド貿易の中心地と成り、数世紀に渡り、「人の住む世界最大の貨物集散地」としての地位を確保し、「アレクサンドリアに無い物は雪だけ」と言われる様に成ります。

 プトレマイオス王朝末期に於ける、最盛期の同市の人口は100万を超え、プトレマイオス・ソテルスの創設した、アレクサンドリア図書館はその蔵書数70万巻と云われ、古代に於ける図書館としては最大規模の図書館のひとつでした。
図書館はムセイオン(ムーサイ学園)に付属し、プトレマイオス3世エウエルゲテス(善行者)は、書物を持ってアレクサンドリアを訪問した者は、原本を図書館に寄進し、変わりに写本受け取る様に命じたので、アレクサンドリア図書館は、別名、略奪図書館との異名を冠する程に成りました。
当時、小アジアのペルガスムス(ペルガモン)にも、ユーメネス2世が創った有名な図書館が存在し、同図書館の司書アリストファネスの争奪をめぐって、アレクサンドリア図書館と紛争が起こり、其れが原因と成ってペルガスムスは、エジプトから製本に必要なパピルスの供給を停止され、その代用としてパーチメント(羊皮紙)が発明された程でした。

 紀元前48年~紀元前47年のアエクサンドリア戦役の折、ユリウス・カエサルの率いるローマ軍の戦火で消失したものの、その後、クレオパトラとの恋物語で名を留める、将軍アントニウスが、ペルガスムス図書館の蔵書を送りアレクサンドリア図書館は再建されました。
同図書館の最大の加害者は、キリスト教徒による破壊活動ですが、13世紀頃以下の様な逸話が広く語られる様になりました。
「アレクサンドリア図書館は640年、サラセン人のアレクサンドリア攻略の時、再び灰燼に帰す事に成ります。
その時、サラセンの将アムルーが、アレクサンドリア図書館の処遇に関して、国王オマル1世の意向を質した処、「もし図書館の書物がコーランの趣旨に反する物ならば有害である、コーランと同一であれば不要である」として、焼却を命じ、その膨大な蔵書は、市内4箇所の浴場で燃料として使用され、全てを焼却するのに半年もの期間を必要としました。」(以上はキリスト教徒による逸話)

◎灯台

 古代アレクサンドリアでは、紀元前3世紀半ばに70人訳(セプトゥアギンタ)と称する、ギリシア語訳「旧約聖書」の完成したことでも知られていますが、ヘレニズム文化の中心地にあるユダヤ人達の必要に基づくものと思われますが、ヘブル語辞書の初めての外国語翻訳として特に有名です。

古代アレクサンドリアは、ファロス島とは、ヘプスタディオンを呼ばれる1km余りの堤防で結ばれ、島の東側には、古代技術の精を尽くした、高さ180mにも及ぶ大灯台が建設されていました。
プトレマイオス2世フェラデルフォス(姉弟愛王 紀元前285年~紀元前247年)の命令で、ディノクラティスの子供、ソストラトスが建設指揮にあたりました。

 灯台の大部分は大理石で造られ、上部に向かって少しずつ細くなる現代の灯台ではなく、高層ビルの様な姿をした建造物でした。
最上階には、大きな火桶が設けられ絶えず火が燃やされており、その燃料が木材なのか、油類なのかは現在でも解明されていませんが、ランプの後部に強力な光を反射する巨大な反射鏡が存在していたことは、はっきりとしています。
この構造物こそ、現在の灯台(ファロス)の原型であり、ヨーロッパでは、現在でも「ファロス」の単語が灯台を意味しているのです。

 この灯台は単なる標識塔ではなく、300室以上を有する、軍隊の駐屯施設で城砦の一部を成していたとも云われています。
この大灯台は180mの高さが有ったにも関らず、階段は存在せず、燃料の補給や人間の移動は、緩やかな螺旋状通路によって行われていました。

 灯台の最上階に在る展望台から、数10kmも離れた地中海を望め、そのむこうの小アジアも望見できたと云い、明るく燃える灯台の光は、遥かな海上からもはっきりと確認でき、インドからジブラルタルに至る、地中海全ての船乗りの間で評判に成りました。

◎灯台に纏わる伝説

 アラブ人は7世紀以後エジプトを支配しましたが、彼等の語る処によれば、燃える炎が反射鏡で照らし出されると、43km先の海上を見る事が可能で、晴れた日には、マルマラ海の対岸、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の町の様子が反射鏡に映り、又日光を反射させると、160km先の船舶を焼く事ができたと云います。
残念ながら、当時の研磨技術では、上記の様に太陽光を集約する事は不可能でしょうが、ソストラトスがある種の強力な光を反射するレンズ乃至反射鏡を考案した事は間違いなく、近代レンズ乃至反射鏡の創意を先見した事は疑う余地が有りません。

 ファロスの灯台は、長い期間現存し、カエサルやクレオパトラ、アントニウスの船の為の道しるべと成ったに違いなく、その崩壊を早めたのはアラビア人の軽挙と貪欲に他なりませんでした。
エジプトがアラブの支配下に入っても、ファロスの灯台は大切に維持管理されて、海上交通の力強い助けに成っていましたが、850年頃、神聖ローマ帝国とイスラム勢力の間に抗争が始った時、その存在は、イスラム勢力にとっては好都合でしたが、神聖ローマ帝国側には、不都合極まり無い存在でした。
神聖ローマ帝国は、当時アレクサンドリアを支配していたカリフ、アル・ワリドの許へ密使を送り、灯台の下に莫大な財宝が埋蔵されていると云う、デマ情報を流しまし、欲深なカリフは、この策謀に填りすぐさま部下に灯台の解体を命じたのです。
カリフが罠に填ったと気づいた時には、灯台は大方解体されてしまい、その再構築の命令も当時のアラブ人の手に余る仕事だったのです。
その心臓部とも言える反射鏡を元の場所に戻す作業が、大失敗し反射鏡は地面に落下、しかも新しく造る術を彼等は知りませんでした。
後年、反射鏡を失った灯台の建物は、イスラム教のモスクとして利用されるだけでした。

 時代が下り、アレクサンドリアはカイロ市(エル・カーヘラ)の建設と共に寂れ、灯台は基礎部分がその面影を残していましたが、1375年ナイル・デルタを襲った地震の為、完全に破壊されその残骸を取り片付けるだけで、100年もの時間を要したと云われています。
その後、灯台の事は忘れられ、ファロスの名前のみが残り、遺跡自体の位置さえ判らなく成りましたが、20世紀初頭、ドイツの考古学者によって、カイトバイ堡塁近郊で灯台の所在を確認し、現在ではその位置が、アレクサンドリアのファロスの跡と認められています。

続く・・・


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コメント

非公開コメント

こんばんは。

ファロスの灯台の末路は知りませんでした。
実際に船は焼けなくても、そのうわさがあるだけで、十分に脅威だったことでしょう。

前の日記も興味深いですね。
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