歴史のお話その328:語り継がれる伝説、伝承、物語116
<聖ソフィア寺院>

◎寺院建立の由来
トルコ共和国の古都イスタンブールは、遥かな昔コンスタンチノーブル(コンスタンティノポリス)と呼ばれ、更に昔は、ビザンチウムと呼ばれていました。
4世紀初頭、ローマ帝国皇帝コンスタンチヌス1世(紀元274年~337年)は、其れまで邪教として禁令を出していたキリスト教の禁を解き、自らもキリスト教に帰依し、ローマ帝国全土をそれ以前の古い異教から解放して、都を古都ローマからビザンチウムに遷都し、自らの名前を冠してコンスタンチノーブル(コンスタンチヌスの都)と改名し、この街をキリスト教の本山と成る様、尽力したのでした。
200年程後、皇帝ユスチニアヌス1世(紀元483年~565年)が、ビザンチン帝国の帝位に尽くと、主イエスの栄光を表す為、其れまで異教の神の為に建立された如何なる寺院・神殿よりも大きく、壮麗な寺院を建立しようと考え、西暦530年から造営工事が開始されたのですが、16,000人に上る労働者は、この寺院建設の為、他にも進められていた、全ての公共工事を中断して動員されました。
また、資材は当時、最高の物資を得る為、ヨーロッパ、アジア、アフリカ等ローマ帝国の版図全てが、厳密に調査が行われ、これ等の資材を得る為、財宝を満載した船を各地に派遣しました。
ユスチニアヌス1世は、聖ソフィア寺院建立の為、皇室宝庫を空に(国家財政を傾け)しましたが、悔やむ事無く、国の官吏の給与を抑え、学校を閉鎖し、軍隊を無報酬で労働させました。
この様にして捻出した金員で、寺院の祭壇を飾る18tの銀と50万個に上る真珠を購入し、寺院の内部は大理石が張り巡らされ、巨大なドームが被せられたのでした。
聖ソフィア寺院は、キリスト教の寺院として916年間存続し、其れまでに多くのキリスト教寺院が建立されましたが、何れも壮麗さ、豪華さの点で聖ソフィア寺院に比較される物は存在しませんでした。
現在ならば、セントピエトロ大聖堂が上げられるのではないでしょうか?
只、歴史の上では、聖ソフィア寺院とセントピエトロ大聖堂では、1000年の隔たりが存在します。
◎寺院の変遷
嘗て、フランスの一歴史家が、十字軍に従軍しビザンチウムを通過した折、聖ソフィア寺院を見て以下の様に記述しています。
「之は美のパラダイスであり、神の栄光の冠である。其れは天に迄達し、地上の驚異である」と。
しかし、当時最も文明の進んだ、偉大な都市ビザンチウムにも運命の日が訪れました。
預言者マホメットの教えを信奉するトルコやアラブの国々は、キリスト教の本山と云うべきビザンチウムを嫉み、奪取する事を考えたのでした。
1453年、イスラム勢力の台頭により、東ローマ帝国が滅亡し、首都ビザンチウムと聖ソフィア寺院もイスラム勢力の手中と成りました。
彼らは、寺院を破壊する事はせず、モスクに改修したのでした。
キリスト教を表わす物は、建造物とその周辺から尽く排除され、聖人の肖像画の描かれた天井には、コーランの一節が記され、銀の祭壇や真珠の装飾も取り除かれ、ドームの頂上に在った十字架は、イスラム教のシンボルである三日月に交換され、更に寺院の四隅にはミナレット(尖塔)が加えられました。
聖ソフィア寺院は、一時期イスラム勢力によって、イスラム教の寺院として存在しましたが、その後トルコに革命が起こりスルタン制から共和制に移行すると供に、イスラムの僧侶は寺院から追放されます。
現在、トルコ共和国は、聖ソフィア寺院を博物館として維持管理し、イスラム風の絨毯、祭壇、装飾は撤去され、コーランの詩句も削られて、ユスチニアヌス1世時代のキリスト教風の装飾に変更されてその姿を残しています。
続く・・・

◎寺院建立の由来
トルコ共和国の古都イスタンブールは、遥かな昔コンスタンチノーブル(コンスタンティノポリス)と呼ばれ、更に昔は、ビザンチウムと呼ばれていました。
4世紀初頭、ローマ帝国皇帝コンスタンチヌス1世(紀元274年~337年)は、其れまで邪教として禁令を出していたキリスト教の禁を解き、自らもキリスト教に帰依し、ローマ帝国全土をそれ以前の古い異教から解放して、都を古都ローマからビザンチウムに遷都し、自らの名前を冠してコンスタンチノーブル(コンスタンチヌスの都)と改名し、この街をキリスト教の本山と成る様、尽力したのでした。
200年程後、皇帝ユスチニアヌス1世(紀元483年~565年)が、ビザンチン帝国の帝位に尽くと、主イエスの栄光を表す為、其れまで異教の神の為に建立された如何なる寺院・神殿よりも大きく、壮麗な寺院を建立しようと考え、西暦530年から造営工事が開始されたのですが、16,000人に上る労働者は、この寺院建設の為、他にも進められていた、全ての公共工事を中断して動員されました。
また、資材は当時、最高の物資を得る為、ヨーロッパ、アジア、アフリカ等ローマ帝国の版図全てが、厳密に調査が行われ、これ等の資材を得る為、財宝を満載した船を各地に派遣しました。
ユスチニアヌス1世は、聖ソフィア寺院建立の為、皇室宝庫を空に(国家財政を傾け)しましたが、悔やむ事無く、国の官吏の給与を抑え、学校を閉鎖し、軍隊を無報酬で労働させました。
この様にして捻出した金員で、寺院の祭壇を飾る18tの銀と50万個に上る真珠を購入し、寺院の内部は大理石が張り巡らされ、巨大なドームが被せられたのでした。
聖ソフィア寺院は、キリスト教の寺院として916年間存続し、其れまでに多くのキリスト教寺院が建立されましたが、何れも壮麗さ、豪華さの点で聖ソフィア寺院に比較される物は存在しませんでした。
現在ならば、セントピエトロ大聖堂が上げられるのではないでしょうか?
只、歴史の上では、聖ソフィア寺院とセントピエトロ大聖堂では、1000年の隔たりが存在します。
◎寺院の変遷
嘗て、フランスの一歴史家が、十字軍に従軍しビザンチウムを通過した折、聖ソフィア寺院を見て以下の様に記述しています。
「之は美のパラダイスであり、神の栄光の冠である。其れは天に迄達し、地上の驚異である」と。
しかし、当時最も文明の進んだ、偉大な都市ビザンチウムにも運命の日が訪れました。
預言者マホメットの教えを信奉するトルコやアラブの国々は、キリスト教の本山と云うべきビザンチウムを嫉み、奪取する事を考えたのでした。
1453年、イスラム勢力の台頭により、東ローマ帝国が滅亡し、首都ビザンチウムと聖ソフィア寺院もイスラム勢力の手中と成りました。
彼らは、寺院を破壊する事はせず、モスクに改修したのでした。
キリスト教を表わす物は、建造物とその周辺から尽く排除され、聖人の肖像画の描かれた天井には、コーランの一節が記され、銀の祭壇や真珠の装飾も取り除かれ、ドームの頂上に在った十字架は、イスラム教のシンボルである三日月に交換され、更に寺院の四隅にはミナレット(尖塔)が加えられました。
聖ソフィア寺院は、一時期イスラム勢力によって、イスラム教の寺院として存在しましたが、その後トルコに革命が起こりスルタン制から共和制に移行すると供に、イスラムの僧侶は寺院から追放されます。
現在、トルコ共和国は、聖ソフィア寺院を博物館として維持管理し、イスラム風の絨毯、祭壇、装飾は撤去され、コーランの詩句も削られて、ユスチニアヌス1世時代のキリスト教風の装飾に変更されてその姿を残しています。
続く・・・
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