2014/03/14

歴史のお話その332:語り継がれる伝説、伝承、物語120

<パルミュラ:砂漠の女王ゼノビアその②>

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◎パルミュラの盛衰

 しかし、彼女には心の平安を迎える時は無く、ローマ帝国は着々と戦力を整備し、機会を見てパルミュラを攻略し東方世界の覇権を復活させんとしている事を感じていました。
ゼノビア自身も準備を怠ること無く、戦力を増強し、占領地には強固な要塞を設け、来るべきローマ帝国との戦闘に国全体の防御を固めたのでした。

 その日は終に訪れました。
ローマ帝国は、最精鋭の軍団を派兵し、ゼノビア軍を一気に殲滅する事を目的に、そのローマ軍の指揮にあったのは、当時第一の武人としての誉れの高い、アウレリアヌス将軍でした。
将軍の手により、西暦270年エジプトはローマ帝国に奪還され、翌271年愈々アジアにその鉾先を向け、ゼノビアは駱駝騎乗隊を持って、之を迎え撃ちます。

 両軍はアンチオケで対峙し、第二回目の会戦はホムスで行われ、彼女は何時も軍団の先頭に立ち「ダイアナの如く武装し、ヴィーナスの様に輝いて見えた」と云われています。
ゼノビア軍は善戦し、ローマ軍騎兵隊の間中に突入する事も厭わず、勇敢でした。
一方、ローマ軍は姦計を巡らし、軍団を急遽反転させ、ゼノビア軍にはあたかも軍団が敗走しているかの様に思わせ、その追撃に疲れさせる戦法を取りました。
合図と共にローマ軍は再び反転し、ゼノビア軍を蹂躙します。

 この様な作戦は、アンチオケでも、ホムスでも試みられ何れも成功しています。
アウレリアヌス将軍の為に敗走したゼノビアは、戦線を縮小し、残存兵力をパルミュラに後退させ、城門を硬く閉ざし、敵に降伏するよりはむしろ死を選ぶ覚悟で、パルミュラを死守する道を選んだのでした。

 アウレリアヌス将軍は、降伏を求め、若し平和の内に城門を開き、街を引き渡すならば、街に危害を加えず、ゼノビアの命も保証しようと申しいれますが、彼女は頑強にこの申し出を拒否しました。
ローマ軍の強烈な包囲攻撃が火蓋を切り、昼夜を分かたぬ猛烈な攻撃には、流石の武勇を持って聞こえたゼノビア軍も、一歩一歩と絶望の淵に追い詰められて行きます。
ゼノビアは、勇敢にも城壁を見回り、兵士達を励ます一方、自ら槍を取ってローマ軍に立ち向かう事もしばしばでした。

 この様なゼノビアの鼓舞激励にも関わらず、守備軍の士気は日一日と衰え、食料も極度に欠乏し、このままでは全員餓死するより他に術の無い処迄、追い詰められ、何処からか援軍の手が差し伸べられない限り、パルミュラの運命は当に風前の灯でした。

 この様な事態を打開する為、彼女は包囲されたパルミュラを脱出し、仇敵ペルシアに救いを求める事にしました。
暗夜、城壁からロープを垂らし、其れに蔦ってローマ軍の野営陣地の真ん中に降り立ち、予ねてより準備した、一つコブの駱駝に跨り、数名の従者を従えて、ローマ軍の最前線を脱出しました。
其れからは、砂漠に光る星の位置を頼りに、東方の国ペルシアに向けて駱駝に鞭を入れたのです。

 ゼノビア一行は、夜間に駱駝で移動し、昼間は谷間に姿を隠して、周囲が暗くなる時間を待ちました。
一行はローマ軍の追撃を恐れ、人家の在る町や村を避け、喉の渇きに苦しめられながら、人目をはばかり夜間の旅を続けたのでした。

 5日目の明け方、東の空が白く成り始めた頃、駱駝の背に跨るゼノビアの勇士が見られました。
彼女は昨夜から一睡もせず、駱駝を進め、その体は綿の様に疲れていたが、寸刻を惜しみ片時もその歩みを止めませんでした。
明け方の光を通し、遥か前方にユーフラテス川の姿が見え始めます。
其処こそ、ゼノビアの目指す終着地であり、対岸には彼女が助けを求めるペルシアが在ります。

 太陽が昇ると3km程先にシュロの並木が見えました。
川の土手に沿って植えられたものです。
目的地は目前ですが、その直ぐ後方200mにはローマ軍の追撃部隊が、急速に近づいて着ます。
もはや一刻の猶予も無く、ゼノビアは全力を振り絞り、疲れきった駱駝に鞭を入れました。
既に追撃部隊の声が近づき、此処で捕らわれては万事休す、何が何でも川迄、行き付かなければ成りません。
ユーフラテス川の岸に着くや否や、駱駝を飛び降り、岸に下りて小船を捜し求めます。
見れば岸から少し離れた場所に、漁夫を乗せた小舟が一艘浮かんでいます。
ゼノビアは在らんばかりの声で、自分たちを乗せてくれる様に頼み、漁夫は舟を巡らし大急ぎで彼女の処に急ぎました。

 ローマ軍追撃隊と漁夫の競争に成りましたが、残念な事にローマ軍の方に軍配が上がってしまいます。
小舟が岸に着いた時、追撃隊の兵士達は土手を乗り越えて岸に下り、ゼノビアの従者を倒すと彼女を捕らえたのでした。
小舟があと1分早く岸に着いていたら、彼女は逃れその後の歴史も変わっていたかも知れません。
パルミユラに篭城し、飢餓に苦しみ、援軍の到着を一日千秋の思いで待ち望んでいた人々も、ゼノビアがローマ軍に捕らえられた事を知ると、総ての希望を失い、城門を開いてローマの軍門に降ったのでした。
アルレリアヌス将軍は、優れた政治家でも在った為、パルミュラの市民には慈悲を足れ、ゼノビアを捕える事で、一般市民を罰する必要は無いと考え、降伏した市民を許し、僅かな守備兵を残すとゼノビアを連れてローマに凱旋しました。

 しかし、彼等がローマへ船団を出航させようとしていた時、パルミュラで市民蜂起が起こり、ローマ軍守備隊を殲滅させる事件が発生してしまいます。
将軍は踵を返してパルミュラを攻略し、火と剣で反乱を鎮圧し、砂漠の中に光り輝いたパルミュラに終末が訪れたのでした。

◎栄華の終焉

 ローマ帝国に捕えられた、ゼノビアの最後については、諸説が存在します。
一説には、彼女はパルミュラがローマ軍に蹂躙された事を知ると、30日間の間、食を断ち絶命したと云い、別の話では、アウレリアヌス将軍が、凱旋した時、彼女を捕虜として連れ帰り、将軍が市内を凱旋行進する時、宝石で飾られた彼女を黄金の鎖で戦車の後ろに繋ぎ、市中を引き回したとも云われています。
その後のゼノビアについても二つの伝承が存在し、第一は、彼女は砂漠の故郷と消え去った栄華を偲びながら、寂しく、捕囚の内に死んで行ったと云うもの。
第二は、更に散文的で、後に彼女は許され自由人と成り、アウリアヌスはティベル河畔に邸宅を与え、静かな晩年を送ったと云うものですが、最近の研究では、第二説が正しいとの見解が発表されています。   

 現在のパルミュラは、シリアを通過する国営イラク石油会社のパイプラインが、地中海に向けて3本敷設されていますが、その1本はシリア砂漠の中央をパルミュラ、ホムスと進み、バニヤス港に抜けています。 
パルミュラの廃墟は、東西1.5kmに及び、かつて栄華を誇った頃、街の主要道路は、巨大な円柱が1500本以上立ち並んでおり、ローマ侵攻時その多くは倒壊してしまいましたが、それでも尚若干の円柱が現在でも往時を偲ばせています。
ゼノビアの建立した、ヴェール神殿には370本の円柱が用いられ、その栄華を誇りましたが、今日でもその数本が現存し、当時の面影を留めています。
巨大な建造物の装飾や形態は、ローマの影響よりもむしろエジプトの其れの名残を留めています。

 第二次世界大戦以前、シリアにはフランスの委任統治領として、外人部隊が駐留していました。
パルミュラ近郊に駐留した部隊の兵士に因れば、シリア人は日が暮れると決して廃墟に近づく事は有りませんでした。
幾世紀にも渡って、夜が更けると、女王ゼノビアの亡霊が一つコブの駱駝に跨り、大路を闊歩し、彼女は黄金の兜を冠り、腕も顕にマントを風に靡かせながら、道行く人々の黒い瞳を注ぎ、槍を取って彼女に従い、城壁を取り囲むローマ軍を打ち破る手助けをしてくれる様、懇願している様に思えてならず、シリア人はその恐ろしさ故に、夜間、廃墟に近づく事はしないと云う事なのです。
  
続く・・・

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