2014/03/16

歴史のお話その333:語り継がれる伝説、伝承、物語121

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその①>

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トプカピ宮殿のハレム・Wikipediaより

◎始めに

 1812年5月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)は、60万人の大軍を率いて、モスクワ遠征に赴き、同年9月同市を占領したものの、ロシア軍は焦土戦術を展開し、決戦を回避したので、ナポレオン軍はロシアの冬に悩まされ、10月19日モスクワから退却、その大軍を全滅に近い状況に追い遣りました。
この敗退は、ナポレオンの運命を変える一大転機と成ります。

 ナポレオン軍のモスクワ敗退は、ロシアの冬の到来が大きな原因でしたが、この敗北を決定的にした陰に、一人の女性の大きな魔手、報復の手が伸びていた事を見逃しては成りません。
その女性エイメ・ジュビュク・リベリは、一度ナポレオン一世の皇妃となり、やがて離婚の憂き目を見たジョセフィーヌの従姉妹にあたり、「ベールをかけた皇后」(The Velled Empress)として、後のトルコ皇后と成った人物です。

 イスタンブールの観光案内に登場する、一番高い丘の頂上からは、この連綿と続く歴史的は古都の隅々迄見渡す事が出来ます。
1400年前から造営が続いた「教会の母」聖ソフィア教会、更にマホメット二世寺院のドームやミナレットが聳えていますが、そのマホメット寺院の中庭の一角に、殆ど訪れる者もない墓所が存在しています。
その中には、200年を経た、一人の女性が安置されています。

 この墓の主こそ、これから紹介するエイメ・ジュビュク・リベリであり、この女性程数奇な運命を辿った人物は居ないと思われます。
其れは、アラビアン・ナイトの中で語られる如何なる物語よりも波乱に富み、一層空想的な生涯を過ごし、その美貌を持って大帝国を覆し、自分の頭脳で国家を統治し、征服者を屈服させ、世界史の潮流を変えたのでした。
しかも、この女性を一層注目させる存在としたのは、この人物の存在が歴史の陰に隠れ、極めて少数の人物にしか知られていなかった事なのです。

 この女性の存在を始めて発見したのは、ニューヨークに在る銀行の副頭取を務めるベンジャミン・A・モートンで、彼は、フランス領西インド諸島のマルティニク島に渡り、この島で生まれ、少女時代を送った、ナポレオン一世の皇后ジョセフィーヌの事跡を追跡調査中、偶然にも彼女の従姉妹エイメの事跡に遭遇し、然もジョセフィーヌの其れよりも、遥かに波乱万丈な物語を発見したのでした。
この調査記録は後に、「ベールをかけた皇后」と題してプトナム書店から刊行されました。

◎生い立ち

 西インド諸島東部、小アンティル諸島の中にマルティニク島が在ります。
1635年以来のフランス領で、人口約20万人、サトウキビ、バナナ、パイナップル、ココア、コーヒー等の農産物、牛、豚などの畜産物が在りますが、食料的には不足気味で、米、トウモロコシを輸入している現状です。

 1763年、後にフランス皇后となるジョセフィーヌ・タスシェは、マルティニク島のサトウキビ農場主の娘として生まれました。
父親は、フランス守備隊将校として同地に従軍し、除隊後もそのまま同地に留まり、在住のフランス人女性と結婚して、二人の間にジョセフィーヌを得ましたが、二人とも病がもとで、相次いで世を去りました。

 幼くして両親を失ったジョセフィーヌは、同じく同地で農園を営む伯父夫婦のもとに引き取られました。
伯父の家には、ジョセフィーヌより二歳年上のエイメ・ジュビュクが居ました。
エイメはジョセフィーヌの父ジョセフ・タスシェが独身の頃、現地のマイノリティに生ませたとの説も存在しますが、現実は良く判っていません。
この二人の少女は、大変仲が良く、夫妻のヨーロッパ風な厳格な内にも温情溢れた中で成長していきました。

 ジョセフィーヌが10歳の頃、エイメと一緒に、村で評判の占い師を訪問した際、面白半分に自分達の将来を占って貰った事が有りました。
占い師はまず、ジョセフィーヌの左の手の平を見つめていましたが、やがて、「貴女は、二度結婚する事に成りますが、二度目の夫は、この世界を自分の栄誉で満たし、多くの国々を征服します。貴女も一国の皇后よりも高い地位に昇りますが、後に之を失い、嘗てマルティニク島で過ごした、幼い平和な日々を愛しく思う様に成るでしょう」。
占い師のエイメに対する予言は、更に奇怪なものでした。
「海を渡る時、貴女の船は異教徒の海賊に襲われ、貴女は異教国の後宮に送られるが、その国の皇帝は貴女を見初め、皇帝の後継者を産む事になる。その後貴女はその半生を通じて、壮大華麗な宮殿を我が物として、其処で強大な権力をふるう事に成る」と。

 二人の少女は、自らがこの様な波乱万丈の運命になると言われても、全く本気にする事なく、笑いに興じて聞き捨てました。
しかし、占い師の予言は、エイメの場合、この後彼女に起こる様ざまな事柄の半分も、表現していませんでした。

◎受難

 エイメは13歳に成った時、母国ナントの修道院学校で教育を受ける為、故郷のマルティニク島を後にしました。
その後勃発した英仏戦争は、彼女の帰国を妨げ、8年の歳月が流れていきました。
1784年、漸く戦争も終結し、故郷に帰る事に成ったエイメは、芳紀正に21歳、青みがかった金髪と、黒い瞳を持つ、美しい女性に成長していました。
しかし、エイメはその時も、それから後も、終に再び故郷の土を踏む事は在りませんでした。
彼女を乗せて、マルティニク島に向った船は、歴史上屈指の勇猛果敢さで名を馳せた、アルジェリアのバルバリア海賊船の襲撃を受けます。
彼等は、地中海沿岸、大西洋東部を襲い、又非武装の民間商船を略奪し、その全てを虜にしていたのでした。

 今回、拉致された人々の中で、エイメは一際目立つ存在でした。
多年に渡り、フランスで身に着けた、深い教養は異常な魅力となって、その動作に現れます。
海賊の頭目は、彼女を滅多に見る事の出来ない「上玉」と眼を付け、アルジェリアの太守に引渡しました。

 彼女の体験は、之で終わりに成る事は無く、アルジェリアの太守は、エイメを一目見て、自分の傍に置くには恐れ多いと考えて、自分の主君であり、財政と武器の援助を受けていたオスマン・トルコ皇帝の下へ送る事にします。
当時、アルジェリアは、名目上、尚オスマン・トルコ帝国の一部であり、この美しい異教徒を虜として皇帝に献上し、今までの援助に報いるだけでなく、彼女を元手に新たな援助を得ようと考えたのでした。

 エイメは再びバルバリア海賊船に乗せられて、地中海を東に向かい、ギリシアを過ぎ、エーゲ海に入り、トロイの遺跡を遠くに眺めながら、ダーダネルス海峡を通り、ボスポラス海峡の岸に建つ、首都イスタンブールに運ばれていきました。

続く・・・


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