歴史のお話その334:語り継がれる伝説、伝承、物語122
<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその②>

◎オスマン・トルコ皇妃
オスマン・トルコ宮廷のハレムに伴われたエイメは、此処でトルコ皇帝アブドル・ハミット一世(1774年~1789年)の心を捕らえました。
ハレムには、既にギリシア、アルメニア、サルカシア(コーカサス南西部1829年ロシア帝国に併合)の女性達が、数えきれぬ程居ましたが、その殆どは、無教育な女奴隷に過ぎませんでしたが、エイメは違っていました。
高等教育を受け、読み書きが出来る事、教養が有り文明社会から来た彼女は、事実、何百と居るハレムの女性内で、容貌ばかりではなく、最も知性に溢れていました。
エイメは、皇帝ハミット一世の寵愛を一身に集め、やがて金髪の皇子を産みました。
エイメは、ハレムに入ると共に、其処からの脱出、マルティニク島への帰還、ジョセフィーヌとの再会の希望を全て捨て去ります。
事実、トルコ帝国のハレムに入った女性で、今だ嘗て自由の身に成った者は、皆無でした。
其処で彼女は後半生を「壮大で壮麗な宮殿」に住み、「出来得る限りの権力を振るう身と成る」事を決意します。
其れは、幼い日、占い師が予言した事そのものでした。
この間に、従姉妹のジョセフィーヌも幾つかの冒険をしていました。
彼女は1779年ボ-アルネ-子爵に嫁ぎ、二児をもうけましたが、フランス革命の際、夫は断頭台の露と消え、革命後、彼女は美貌と才知をもって、パリ社交界の花形となり、1795年3月、ナポレオン・ボナパルトと云う、コルシカ生まれの精力的な英才に富んだ三歳と歳下の青年将校と結婚しました。
やがて、ボナパルト婦人の人生は、変化に富むものと成り、彼女の夫はフランスの為に、次々と軍事上の勝利をおさめ、彼女はその妻として、同様の栄誉を受ける身と成りました。
一方、エイメはイスタンブールに在って、トルコ皇帝の皇妃として、それ以上に身辺多事の日々を送っていました。
皇位継承問題の中、彼女とハミット一世との間に誕生したマフムトは、第三皇子にあたり、トルコ後宮では、当然の成り行きと思われる、マフムトに対する命がけの陰謀が企てられていました。
異母兄弟の長男セリム、次男ムスタファは共に宿敵となり、その母親達は、一層の敵意を燃やし、隙あらば、相手の子供を毒殺し、政敵側の勢力を失墜させようと画策していました。
しかし、エイメは三人の母親の内で、最も機知に富み、息子の身辺に迫る敵の魔手を最後迄防ぎおおせます。
1789年、皇帝アブドル・ハミット一世は逝去し、正当な後継者である、第一皇子のセリムが即位しました。
しかし、第二皇子ムスタファの母親は、決して野心を捨てず、執拗に廷臣達を操り、1807年、終にセリムを退位に持ち込みムスタファを皇位に就ける事に成功します。
この事態にセリム派の怒りを買い、彼らはムスタファを殺害し、セリムを復位させる為、宮殿を強襲しますが、その強固な扉は硬く閉ざされます。
ムスタファ派は刺客を放ち、セリムだけでなく、エイメの息子のマフムト皇子をも亡き者にしようと図ります。
この計画が成功すれば、後継者問題も一機に解決される筈でした。
刺客達は、セリムの殺害に成功しますが、マフムトはその時、煙突に登り、屋根伝いに逃れ、やがてマフムトの警護隊が駆けつけて彼を助け、一方ムスタファとその母親一味は逮捕され、処刑されました。
ムスタファが皇位に就いた期間は、1年に過ぎず、マフムト皇子は、オスマン・トルコ帝国第30代皇帝の位に就き、(母エイメと共に)インド洋からアドリア海に跨る、大帝国を統治する事に成りました。
終にエイメは、「壮大にして華麗な宮殿で、権力を振るう」事と成ったのです。
皇帝マフムトの母親エイメに対する感情には、母への愛情以上のものが在りました。
其れは正しく崇拝と言うに相応しいもので、エイメは若きマフムトの賢明にして、献身的な相談相手でした。
そして、23歳の若さでトルコ皇帝になったマフムトは、彼女を実質的な摂生として、国政の一切を委任する結果と成りました。
トルコ政府の実際の頭であるエイメが、生粋のフランス人であり、彼女の愛する従姉妹ジョセフィーヌが、フランス皇帝ナポレオン一世の皇后に成っていたので、フランス対残余のヨーロッパ諸国との戦争に於いても、トルコは全力を上げてフランス側に組します。
フランス軍将校はトルコ軍を訓練する為に派遣され、フランス海軍将兵は、トルコ海軍艦艇に配備され、フランスの砲兵は、イギリス艦隊をイスタンブールから駆逐したのでした。
フランスの流行、フランスの学校、フランス語がトルコ人の間に風びし、ナポレオン一世自身も、このトルコのフランス一辺倒には驚いたに違い在りません。(現在でも、トルコ共和国において、最も普及している外国語はフランス語です)
イギリスは完全にトルコ帝国領内から、閉め出された格好に成りました。
誰も、トルコ女性のベールを被り、後宮のカーテンの後ろで物静かに控えめに座っているエイメ・・・トルコ皇帝マフムドの生母が、生粋のフランス人・・・祖国フランスを愛するフランス婦人・・・であり、長く異教の地に在りながら、ジョセフィーヌやマルティニク島を夢見ている人物で在る事に、気づきませんでした。
この状況は、1809年迄続き、エイメは46歳に、そして皇帝マフムトは24歳に成っていました。
続く・・・

◎オスマン・トルコ皇妃
オスマン・トルコ宮廷のハレムに伴われたエイメは、此処でトルコ皇帝アブドル・ハミット一世(1774年~1789年)の心を捕らえました。
ハレムには、既にギリシア、アルメニア、サルカシア(コーカサス南西部1829年ロシア帝国に併合)の女性達が、数えきれぬ程居ましたが、その殆どは、無教育な女奴隷に過ぎませんでしたが、エイメは違っていました。
高等教育を受け、読み書きが出来る事、教養が有り文明社会から来た彼女は、事実、何百と居るハレムの女性内で、容貌ばかりではなく、最も知性に溢れていました。
エイメは、皇帝ハミット一世の寵愛を一身に集め、やがて金髪の皇子を産みました。
エイメは、ハレムに入ると共に、其処からの脱出、マルティニク島への帰還、ジョセフィーヌとの再会の希望を全て捨て去ります。
事実、トルコ帝国のハレムに入った女性で、今だ嘗て自由の身に成った者は、皆無でした。
其処で彼女は後半生を「壮大で壮麗な宮殿」に住み、「出来得る限りの権力を振るう身と成る」事を決意します。
其れは、幼い日、占い師が予言した事そのものでした。
この間に、従姉妹のジョセフィーヌも幾つかの冒険をしていました。
彼女は1779年ボ-アルネ-子爵に嫁ぎ、二児をもうけましたが、フランス革命の際、夫は断頭台の露と消え、革命後、彼女は美貌と才知をもって、パリ社交界の花形となり、1795年3月、ナポレオン・ボナパルトと云う、コルシカ生まれの精力的な英才に富んだ三歳と歳下の青年将校と結婚しました。
やがて、ボナパルト婦人の人生は、変化に富むものと成り、彼女の夫はフランスの為に、次々と軍事上の勝利をおさめ、彼女はその妻として、同様の栄誉を受ける身と成りました。
一方、エイメはイスタンブールに在って、トルコ皇帝の皇妃として、それ以上に身辺多事の日々を送っていました。
皇位継承問題の中、彼女とハミット一世との間に誕生したマフムトは、第三皇子にあたり、トルコ後宮では、当然の成り行きと思われる、マフムトに対する命がけの陰謀が企てられていました。
異母兄弟の長男セリム、次男ムスタファは共に宿敵となり、その母親達は、一層の敵意を燃やし、隙あらば、相手の子供を毒殺し、政敵側の勢力を失墜させようと画策していました。
しかし、エイメは三人の母親の内で、最も機知に富み、息子の身辺に迫る敵の魔手を最後迄防ぎおおせます。
1789年、皇帝アブドル・ハミット一世は逝去し、正当な後継者である、第一皇子のセリムが即位しました。
しかし、第二皇子ムスタファの母親は、決して野心を捨てず、執拗に廷臣達を操り、1807年、終にセリムを退位に持ち込みムスタファを皇位に就ける事に成功します。
この事態にセリム派の怒りを買い、彼らはムスタファを殺害し、セリムを復位させる為、宮殿を強襲しますが、その強固な扉は硬く閉ざされます。
ムスタファ派は刺客を放ち、セリムだけでなく、エイメの息子のマフムト皇子をも亡き者にしようと図ります。
この計画が成功すれば、後継者問題も一機に解決される筈でした。
刺客達は、セリムの殺害に成功しますが、マフムトはその時、煙突に登り、屋根伝いに逃れ、やがてマフムトの警護隊が駆けつけて彼を助け、一方ムスタファとその母親一味は逮捕され、処刑されました。
ムスタファが皇位に就いた期間は、1年に過ぎず、マフムト皇子は、オスマン・トルコ帝国第30代皇帝の位に就き、(母エイメと共に)インド洋からアドリア海に跨る、大帝国を統治する事に成りました。
終にエイメは、「壮大にして華麗な宮殿で、権力を振るう」事と成ったのです。
皇帝マフムトの母親エイメに対する感情には、母への愛情以上のものが在りました。
其れは正しく崇拝と言うに相応しいもので、エイメは若きマフムトの賢明にして、献身的な相談相手でした。
そして、23歳の若さでトルコ皇帝になったマフムトは、彼女を実質的な摂生として、国政の一切を委任する結果と成りました。
トルコ政府の実際の頭であるエイメが、生粋のフランス人であり、彼女の愛する従姉妹ジョセフィーヌが、フランス皇帝ナポレオン一世の皇后に成っていたので、フランス対残余のヨーロッパ諸国との戦争に於いても、トルコは全力を上げてフランス側に組します。
フランス軍将校はトルコ軍を訓練する為に派遣され、フランス海軍将兵は、トルコ海軍艦艇に配備され、フランスの砲兵は、イギリス艦隊をイスタンブールから駆逐したのでした。
フランスの流行、フランスの学校、フランス語がトルコ人の間に風びし、ナポレオン一世自身も、このトルコのフランス一辺倒には驚いたに違い在りません。(現在でも、トルコ共和国において、最も普及している外国語はフランス語です)
イギリスは完全にトルコ帝国領内から、閉め出された格好に成りました。
誰も、トルコ女性のベールを被り、後宮のカーテンの後ろで物静かに控えめに座っているエイメ・・・トルコ皇帝マフムドの生母が、生粋のフランス人・・・祖国フランスを愛するフランス婦人・・・であり、長く異教の地に在りながら、ジョセフィーヌやマルティニク島を夢見ている人物で在る事に、気づきませんでした。
この状況は、1809年迄続き、エイメは46歳に、そして皇帝マフムトは24歳に成っていました。
続く・・・
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