歴史のお話その335:語り継がれる伝説、伝承、物語123
<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその③>

◎モスクワ遠征の失敗
その時、突然パリから劇的な知らせが・・・トルコ宮廷を180度急転回させる知らせがもたらされました。
皇帝ナポレオン一世が皇后ジョセフィーヌを離婚したのです。
理由は、ジョセフィーヌが容貌の衰えを恐れ、ナポレオンの後継者である実子を産もうとしなかったとの事ですが、この時既に、ナポレオン一世はオーストリア皇女マリー・ルイズとの政略結婚を画策していたのでした。
この一報を聞いたエイメの目は険しく成りました。
「そんな不条理な事を!そんな恩知らずな事を!しかも愛する貞節な婦人の対してこの様な、仕打ちをするとは。この報いはきっとナポレオンに受けさせてやる。」
之まで、エイメは彼の栄誉をそのまま我が栄誉と思うほど、秘密の同盟者をもって任じてきましたが、其れも終わりの時が来たのでした。
彼女は直ちに其れまでのフランス同盟主義を捨てて、今迄彼の為に成るように尽くしてきた努力を、今日以後は、彼の為に成らない様に努力し、従姉妹ジョセフィーヌの為に報復する事でした。
そして、エイメは侮辱されてのが、彼女自身であったとしても、とてもこれ以上の方法で計画的に返報は不可能であると思われる方法で、ナポレオン皇帝に当たったのでした。
その時期の来るまで、すなわち1812年・・・おそらく1814年迄の近代史上、最も多彩な年・・・迄彼女は3年待ちました。
彼女はナポレオンに思い知らせる日が、間近で在る事を感じ取っていました。
1812年、帝政ロシアはトルコ帝国との戦いを交えており、軍隊の大部分をトルコ領土内に進駐させていました。
ナポレオンはこの事実を良く考慮した上で、同年5月、好期を得たとして、モスクワ遠征を開始したのでした。
ナポレオンは、この作戦の為に歴史上に於いて、最大かつ最も装備された、60万人を超える大部隊をもって、モスクワ攻略に向いました。
フランスは、ナポレオンの賭けとも言える作戦に、あらゆる資源を総動員し、投入します。
しかし、ナポレオンにとってこの作戦は、賭けでもなく、十分な勝算が有っての事であり、この大軍を止める軍隊がヨーロッパ大陸に存在しない事を知っていたのです。
ロシア陸軍の主力は、遥か南方に展開していたので、彼はトルコ帝国皇帝マフムト二世に対し、ロシア軍に対する一層激しい陽動作戦を展開する事を条件に、巨額の反対給付を提供する事を申し出ます。
之に対してマフムト二世は、一切の約束をせず、ナポレオン軍がドレスデンを出発し、ロシア国境に向った日、トルコ皇帝は、あらゆる情報からロシア軍が、崩壊寸前に陥っているとの確証を握っているにも係わらず、ロシア皇帝と秘密講和条約に調印し、その要求に従ったのでした。
この条約の為に、訓練された5万人のロシア精鋭部隊は、後退の自由を得て、直ちにフランス軍の補給線を遮断する為に、北方へ移動を開始しました。
この情報は、ナポレオンには察知されず、彼の軍隊は更にロシア領内深く進攻して行きます。
最も、彼は全くロシア軍の抵抗を受けない訳ではなく、フランス軍の侵攻を阻止しようとするロシア軍の間には、砲火を交え数万人の戦死者をだしていました。
ナポレオン軍は損害を顧みず、ロシアの防衛軍を押し返しながら進軍を続けました。
ロシア軍は退却の際、焦土作戦を展開し、残された食料や家屋に火を放ち、少しでも侵略者の利益になる物資を尽く破壊していきました。
食料を絶たれたフランス兵は、病気や飢えの為、毎日多数が命を失いましたが、ナポレオンは凍土の地を奥深く前進し、パリから東方へ2560km(鹿児島県鹿児島中央駅から本州を経由し、北海道函館本線小沢駅に達する距離)の、モスクワを一望できる場所に到達した時、60万人の大部隊は15万人程度にまで減少していました。
しかもその間にトルコ帝国との講和により、移動可能となった5万人のロシア精鋭部隊は、ナポレオン軍の伸びきった補給路線を中央から、遮断する為に強行軍を続けて北上していたのでした。
ナポレオンが残存部隊を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけで、当時30万の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一世に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。
9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍5万人が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。
ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
この報告は、彼の前途に対する、死刑宣告に等しいものでしたが、あれ程迄に信頼していたオスマン・トルコ帝国が、なぜその方針を転換したのか、彼はジョセフィーヌの離婚と、従姉妹エイメの心情を推し量る事など、到底出来ませんでした。
エイメが、この重大な一国の向背に、決定的な役割を演じた事を証明する文書は、フランス、ロシア、トルコの何れにも残されてはいません。
彼女がジョセフィーヌの報復の為、ロシア側に寝返った話は、推測に過ぎませんが、歴史の上で今まで対抗関係に在ったトルコが、その時敗色濃いロシアと急転直下、講和する理由を見つける事が出来ないのです。
エイメは、ベールの陰に隠れ、密かに行動を起こしましたが、其の為彼女は、一層効果的な役割を演じたのでした。
彼女は如何なる公職にも就く事なく、只、息子を擁護するのみでしたが、その息子・・・オスマン・トルコ帝国第30代皇帝 マフムト二世・・・を通じて、トルコ帝国を我が物とし、政治外交軍事一切を支配していました。
続く・・・

◎モスクワ遠征の失敗
その時、突然パリから劇的な知らせが・・・トルコ宮廷を180度急転回させる知らせがもたらされました。
皇帝ナポレオン一世が皇后ジョセフィーヌを離婚したのです。
理由は、ジョセフィーヌが容貌の衰えを恐れ、ナポレオンの後継者である実子を産もうとしなかったとの事ですが、この時既に、ナポレオン一世はオーストリア皇女マリー・ルイズとの政略結婚を画策していたのでした。
この一報を聞いたエイメの目は険しく成りました。
「そんな不条理な事を!そんな恩知らずな事を!しかも愛する貞節な婦人の対してこの様な、仕打ちをするとは。この報いはきっとナポレオンに受けさせてやる。」
之まで、エイメは彼の栄誉をそのまま我が栄誉と思うほど、秘密の同盟者をもって任じてきましたが、其れも終わりの時が来たのでした。
彼女は直ちに其れまでのフランス同盟主義を捨てて、今迄彼の為に成るように尽くしてきた努力を、今日以後は、彼の為に成らない様に努力し、従姉妹ジョセフィーヌの為に報復する事でした。
そして、エイメは侮辱されてのが、彼女自身であったとしても、とてもこれ以上の方法で計画的に返報は不可能であると思われる方法で、ナポレオン皇帝に当たったのでした。
その時期の来るまで、すなわち1812年・・・おそらく1814年迄の近代史上、最も多彩な年・・・迄彼女は3年待ちました。
彼女はナポレオンに思い知らせる日が、間近で在る事を感じ取っていました。
1812年、帝政ロシアはトルコ帝国との戦いを交えており、軍隊の大部分をトルコ領土内に進駐させていました。
ナポレオンはこの事実を良く考慮した上で、同年5月、好期を得たとして、モスクワ遠征を開始したのでした。
ナポレオンは、この作戦の為に歴史上に於いて、最大かつ最も装備された、60万人を超える大部隊をもって、モスクワ攻略に向いました。
フランスは、ナポレオンの賭けとも言える作戦に、あらゆる資源を総動員し、投入します。
しかし、ナポレオンにとってこの作戦は、賭けでもなく、十分な勝算が有っての事であり、この大軍を止める軍隊がヨーロッパ大陸に存在しない事を知っていたのです。
ロシア陸軍の主力は、遥か南方に展開していたので、彼はトルコ帝国皇帝マフムト二世に対し、ロシア軍に対する一層激しい陽動作戦を展開する事を条件に、巨額の反対給付を提供する事を申し出ます。
之に対してマフムト二世は、一切の約束をせず、ナポレオン軍がドレスデンを出発し、ロシア国境に向った日、トルコ皇帝は、あらゆる情報からロシア軍が、崩壊寸前に陥っているとの確証を握っているにも係わらず、ロシア皇帝と秘密講和条約に調印し、その要求に従ったのでした。
この条約の為に、訓練された5万人のロシア精鋭部隊は、後退の自由を得て、直ちにフランス軍の補給線を遮断する為に、北方へ移動を開始しました。
この情報は、ナポレオンには察知されず、彼の軍隊は更にロシア領内深く進攻して行きます。
最も、彼は全くロシア軍の抵抗を受けない訳ではなく、フランス軍の侵攻を阻止しようとするロシア軍の間には、砲火を交え数万人の戦死者をだしていました。
ナポレオン軍は損害を顧みず、ロシアの防衛軍を押し返しながら進軍を続けました。
ロシア軍は退却の際、焦土作戦を展開し、残された食料や家屋に火を放ち、少しでも侵略者の利益になる物資を尽く破壊していきました。
食料を絶たれたフランス兵は、病気や飢えの為、毎日多数が命を失いましたが、ナポレオンは凍土の地を奥深く前進し、パリから東方へ2560km(鹿児島県鹿児島中央駅から本州を経由し、北海道函館本線小沢駅に達する距離)の、モスクワを一望できる場所に到達した時、60万人の大部隊は15万人程度にまで減少していました。
しかもその間にトルコ帝国との講和により、移動可能となった5万人のロシア精鋭部隊は、ナポレオン軍の伸びきった補給路線を中央から、遮断する為に強行軍を続けて北上していたのでした。
ナポレオンが残存部隊を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけで、当時30万の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一世に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。
9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍5万人が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。
ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
この報告は、彼の前途に対する、死刑宣告に等しいものでしたが、あれ程迄に信頼していたオスマン・トルコ帝国が、なぜその方針を転換したのか、彼はジョセフィーヌの離婚と、従姉妹エイメの心情を推し量る事など、到底出来ませんでした。
エイメが、この重大な一国の向背に、決定的な役割を演じた事を証明する文書は、フランス、ロシア、トルコの何れにも残されてはいません。
彼女がジョセフィーヌの報復の為、ロシア側に寝返った話は、推測に過ぎませんが、歴史の上で今まで対抗関係に在ったトルコが、その時敗色濃いロシアと急転直下、講和する理由を見つける事が出来ないのです。
エイメは、ベールの陰に隠れ、密かに行動を起こしましたが、其の為彼女は、一層効果的な役割を演じたのでした。
彼女は如何なる公職にも就く事なく、只、息子を擁護するのみでしたが、その息子・・・オスマン・トルコ帝国第30代皇帝 マフムト二世・・・を通じて、トルコ帝国を我が物とし、政治外交軍事一切を支配していました。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント