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2014/03/22

歴史のお話その336:語り継がれる伝説、伝承、物語130

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその④>

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◎英雄の末路

 ナポレオンは、ロシア皇帝アレクサンドル一世と講和を望みましたが、ロシア皇帝は、侵略軍がフランス本国から全く孤立し、飢餓と寒さの為、急激に消耗しつつある事を知っていたので、最後まで講和を拒否します。
ナポレオンのモスクワ撤退の物語は、世界史に残る、最も凄まじく、最も悲惨な出来事の一つとして、永遠に語り継がれる事に成りました。
(第二次世界大戦に於ける、ドイツ軍のスターリングラード(現:ボルゴグラード)の敗退も、ナポレオンの逸れに匹敵しますが)
ナポレオンは、ロシア軍の姦計に翻弄され、命からがら逃げるより、他に道は残されていませんでした。

 厳しいロシアの冬に襲われ、全身傷つき、飢餓に瀕した10万人の敗残部隊は、食料、援軍、弾薬もそれら一切が補給される望みは無く、10月19日、モスクワを退却しました。
その内7万人は、未だロシア軍が退路を閉塞している地点にすら到達しない間に、寒気と飢餓で倒れて行きました。
ベレジナ河では、ロシア軍の激しい砲撃の中、強行渡河を試み、更に犠牲者は増えていきます。
敵陣を突破し得たナポレオンと敗残部隊は、僅かな人員に過ぎず、ナポレオン自身も危うく捕虜となる処でした。

 エイメは見事に復習を遂げたのでした。

 エイメ自身は、最後迄、自分の素性を明らかにせず、彼女の事を知っていたのは、ハミット一世とマフムト二世だけかも知れません。
従姉妹のジョセフィーヌにさえ、彼女の境遇を知らせた痕跡は無く、二人の間に私信の遣り取りが、行われた事も無かったと思われます。
エイメは、なぜ自分の境遇を従姉妹にすら、秘密にしていたのでしょう?
ジョセフィーヌの注目さえ、避ける事が、エイメの意識的な終始変わらぬ考え方でした。
彼女は、常に人目を避け、ベールの陰に隠れ、大臣、外国使節の一人にさえ姿を見せず、政府の干渉も、国民からの尊敬、時には敵意さえうける事無く、マフムト二世に忠告を与え、自由に支配する事が出来たのでした。
之には、エイメ自身が、宮廷内部でも外部でも、殆ど誰にも知られる事が無く、一般の人々が近寄る事の出来ない地位に居り、そして、一見幽閉されたような境遇に置かれた事に、その力が根ざしていたのでした。

◎余談

 マルティニク島生まれのフランス女性エイメが、海賊に囚われ、オスマン・トルコ帝国の後宮に送られ、後のトルコ皇帝の妃に成った様に、この時期よりも少し早く、アイルランド出身の女性が、アフリカの首長の妃に成った事が在りました。

 アイルランドの南部、コーク州エメラルド生まれの女性、マリー・ソンプスンは、同島の出身で、スペインのカディスで商人として成功した一人の男性から、墓参の為に帰国した折、見初められて結婚の申し出を受けました。
彼女は、暫し考える時間を求め、男性は後ろ髪を引かれる思いで、スペインに帰国する事にしました。

 マリーは熟慮を重ねた末、男性の申し出を受入れる事を決め、単身、カディスに向う事としスペイン行きの船に乗り込みました。
天気はよく晴れ渡り、波も静かで、彼女の前途を祝福するかの様に思える程、順調に航海も進み、船旅の終盤、間も無く目的地に着くと思われた時、突如、バルバリア海賊船の襲撃を受け、彼女は捕らえられ、モロッコの奴隷市場に送られました。
彼女の美貌を伝えるニュースは、メクネス(モロッコ)の宮廷の主、シディ・マホメッドの下にも伝えられていました。
宮廷の主は早速、大金を投じて、彼女を自分の物とし、その美貌に見せられて妃とします。
かくて、マリーは首長と王座を分ける事30年(1760年~1790年)に及び、その懸命さと、慈悲深さにより、臣民から敬愛されました。

 その頃、エイメは既にトルコ皇妃として、イスタンブールの宮廷の奥深く、ベールに包まれていたのでした。

終わり・・・



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