歴史を歩く1
<古代オリエントその①>

(1)メソポタミアと小アジア
オリエントの意味は「光は東方より」の意味で古代ローマ人から見た東方を意味します。
日本では中近東と呼ばれることも多いですが、これはヨーロッパ人が東方をNear East、 Middle East、Far Eastを合わせた使い方なのです。
「極東」はFar Eastの訳なので、日本人が東アジアを「極東」と呼ぶことは本来おかしなことなのです。
「極東」はまさにヨーロッパ史観の現われであり、 現在の日本おいて、オリエントはエジプト、西アジア、小アジアを含む地域を示す 言葉として使われています。

メソポタミアとは「川の間の地方」の意味であることは有名ですが、ティグリス川・ユーフラテス 川の流域地方で、現在のイラクに相当します。
メソポタミアの南部では、紀元前3500年頃 から集落が村落となり、次第に都市に発展し、都市は独立して都市国家が形成されました。
メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人で在り、彼らは紀元前2700年頃迄に ティグリス川・ユーフラテス川下流にウル、ウルク、ラガシュ等の多数の都市国家を形成したのです。
シュメール人の民族系統は減現在に到る迄不明ですが、すぐれた青銅器や彩文土器をつくり、 特に楔形文字を発明し、粘土板に記録を残したことは特筆されます。
楔形文字は以後2000年以上 にわたってメソポタミアで使用されることになりました。
楔形文字の解読の緒を発見した人物はドイツ学者、グローテフェントですが、解読に成功したのはイギリスのローリンソンです。
軍人であったローリンソンがペルシアに赴任した際、彼は磨崖碑であるベヒストゥーン碑文(古代の街道の120mの所に位置)を最初は望遠鏡で調査しましたが、 やがて断崖を登り、岩にしがみつきながら碑文を数年がかりで模写し、ペルシア、 エラム、バビロニアの楔形文字で書かれた碑文の解読に没頭し、1847年ペルシア文字の解読に成功したのでした。
しかし、絶え間ない都市国家相互の戦争により、シュメール人都市国家は衰退、荒廃し、セム系のアッカド人によって征服されます。
アッカド人はメソポタミアの北部から興り、特にサルゴン1世(在位紀元前2350年頃~ 紀元前2294年頃)はシュメール人の都市国家を次々にその支配下に治め、メソポタミア最初の統一国家を建設したのですが、その後急速に衰退し滅亡します。
次にセム系のアムル人がバビロンを都としてバビロン第1王朝(古バビロニア王国) を建設、この王朝の第6代目の王が、有名なハンムラビ王(在位紀元前1729年頃~紀元前1686年) で、彼は30年に及ぶ征服戦争によってメソポタミア地方を統一し、中央集権国家を建設しました。
現在でも彼を有名にしているのが「ハンムラビ法典」で、同法典は 1901~02年にペルシアのスサで発見され、高さ2.2mの黒い円柱の石に刻まれた全282条の法令でした。
シュメール法等それ以前にも法令は存在しましたが、断片的にしか現存しておらず、完全な形で残る最古の成文法であることは間違い在りません。
シュメール法を継承し、集大成した成文法で刑法は、「目には目を、歯には歯を」の言葉通り復讐法の原則が貫かれ、身分によって刑罰に違いがあることも特色なのです。
例えば、
196条「もし人が自由民の眼を 潰したときは、彼の眼を潰す」
199条「もし人の奴隷の眼を潰し、或いは人の奴隷の 骨を折たるときは、彼はその価の半分を支払う」とあるのはその好例でしょう。
しかし、バビロン第1王朝もハンムラビ王の死後いっきに衰退し、紀元前1530年頃、ヒッタイトの侵入によって滅ぼされたのでした。
ハンムラビ王統治のバビロン第1王朝の繁栄は、周囲の諸民族を多いに刺激し、彼らはその富を奪う目的で侵入をくりかえし、イランや小アジアの牧畜民、特に中央アジアや南ロシアのインド・ヨーロッパ系の遊牧民は紀元前2000年頃から紀元前1500年頃に大移動を行ったのです。
なかでもヒッタイトは、紀元前1650年頃ヒッタイト帝国を形勢し、紀元前16世紀初頭にはバビロン 第1王朝を滅亡させ、以後ミタンニ、エジプトと抗争しながら、紀元前14世紀頃最盛期を迎えます。
ヒッタイトは紀元前1400年頃、世界史上初めて鉄製武器を使用したことで歴史にその名前を残し、 優秀な鉄製武器と馬の引く戦車で他の諸民族を圧倒し繁栄の頂点に達します。
紀元前1190年頃、「海の民」(紀元前13世紀末から紀元前12世紀に東地中海一帯の諸国家・諸都市を攻略し、広い地域を混乱に陥れた諸民族の総称)の侵略を受けて滅亡します。
ヒッタイトの滅亡後、それまで極秘にされていた製鉄技術は周辺に広まり、オリエントの諸民族を 経て、更にヨーロッパ、アフリカ、アジア各地に伝播し、鉄器時代を迎えることになります。
ヒッタイトの他に同じインド・ヨーロッパ系のミタンニ人は北メソポタミアに、カッシート人は南メソポタミアに侵入して、一時強大な国家を建設し、オリエント地域では紀元前15世紀から紀元前14世紀に、エジプトの新王国、ヒッタイトを筆頭とする諸王国が並立する政治状況が生じ、数世紀にわたって混乱状態が続いて行きました。
この間、メソポタミアでは独自の文化が繁栄し、宗教は多神教が崇拝され、民族の興亡と共に信仰される最高神も変化していきます。
文字はシュメール人が創設した楔形文字が使用され、粘土板に記録され、又六十進法、太陰暦、閏年、占星術、法律等実用的学問・文化が発達したことが大きな特色なのです。
ジョークは如何?
キューバ危機の裏話
ホットライン開通後、米ソ首脳は電話会談をした
ケネディ「私は5回核ボタンに手を掛けたが、すべてマクナマラに
説得されて結局ボタンを押せなかったよ」
フルシチョフ「わたしは5回核ボタンを押したが、発射ボタンが
壊れていてすべて不発に終わったよ」
続く・・・

(1)メソポタミアと小アジア
オリエントの意味は「光は東方より」の意味で古代ローマ人から見た東方を意味します。
日本では中近東と呼ばれることも多いですが、これはヨーロッパ人が東方をNear East、 Middle East、Far Eastを合わせた使い方なのです。
「極東」はFar Eastの訳なので、日本人が東アジアを「極東」と呼ぶことは本来おかしなことなのです。
「極東」はまさにヨーロッパ史観の現われであり、 現在の日本おいて、オリエントはエジプト、西アジア、小アジアを含む地域を示す 言葉として使われています。

メソポタミアとは「川の間の地方」の意味であることは有名ですが、ティグリス川・ユーフラテス 川の流域地方で、現在のイラクに相当します。
メソポタミアの南部では、紀元前3500年頃 から集落が村落となり、次第に都市に発展し、都市は独立して都市国家が形成されました。
メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人で在り、彼らは紀元前2700年頃迄に ティグリス川・ユーフラテス川下流にウル、ウルク、ラガシュ等の多数の都市国家を形成したのです。
シュメール人の民族系統は減現在に到る迄不明ですが、すぐれた青銅器や彩文土器をつくり、 特に楔形文字を発明し、粘土板に記録を残したことは特筆されます。
楔形文字は以後2000年以上 にわたってメソポタミアで使用されることになりました。
楔形文字の解読の緒を発見した人物はドイツ学者、グローテフェントですが、解読に成功したのはイギリスのローリンソンです。
軍人であったローリンソンがペルシアに赴任した際、彼は磨崖碑であるベヒストゥーン碑文(古代の街道の120mの所に位置)を最初は望遠鏡で調査しましたが、 やがて断崖を登り、岩にしがみつきながら碑文を数年がかりで模写し、ペルシア、 エラム、バビロニアの楔形文字で書かれた碑文の解読に没頭し、1847年ペルシア文字の解読に成功したのでした。
しかし、絶え間ない都市国家相互の戦争により、シュメール人都市国家は衰退、荒廃し、セム系のアッカド人によって征服されます。
アッカド人はメソポタミアの北部から興り、特にサルゴン1世(在位紀元前2350年頃~ 紀元前2294年頃)はシュメール人の都市国家を次々にその支配下に治め、メソポタミア最初の統一国家を建設したのですが、その後急速に衰退し滅亡します。
次にセム系のアムル人がバビロンを都としてバビロン第1王朝(古バビロニア王国) を建設、この王朝の第6代目の王が、有名なハンムラビ王(在位紀元前1729年頃~紀元前1686年) で、彼は30年に及ぶ征服戦争によってメソポタミア地方を統一し、中央集権国家を建設しました。
現在でも彼を有名にしているのが「ハンムラビ法典」で、同法典は 1901~02年にペルシアのスサで発見され、高さ2.2mの黒い円柱の石に刻まれた全282条の法令でした。
シュメール法等それ以前にも法令は存在しましたが、断片的にしか現存しておらず、完全な形で残る最古の成文法であることは間違い在りません。
シュメール法を継承し、集大成した成文法で刑法は、「目には目を、歯には歯を」の言葉通り復讐法の原則が貫かれ、身分によって刑罰に違いがあることも特色なのです。
例えば、
196条「もし人が自由民の眼を 潰したときは、彼の眼を潰す」
199条「もし人の奴隷の眼を潰し、或いは人の奴隷の 骨を折たるときは、彼はその価の半分を支払う」とあるのはその好例でしょう。
しかし、バビロン第1王朝もハンムラビ王の死後いっきに衰退し、紀元前1530年頃、ヒッタイトの侵入によって滅ぼされたのでした。
ハンムラビ王統治のバビロン第1王朝の繁栄は、周囲の諸民族を多いに刺激し、彼らはその富を奪う目的で侵入をくりかえし、イランや小アジアの牧畜民、特に中央アジアや南ロシアのインド・ヨーロッパ系の遊牧民は紀元前2000年頃から紀元前1500年頃に大移動を行ったのです。
なかでもヒッタイトは、紀元前1650年頃ヒッタイト帝国を形勢し、紀元前16世紀初頭にはバビロン 第1王朝を滅亡させ、以後ミタンニ、エジプトと抗争しながら、紀元前14世紀頃最盛期を迎えます。
ヒッタイトは紀元前1400年頃、世界史上初めて鉄製武器を使用したことで歴史にその名前を残し、 優秀な鉄製武器と馬の引く戦車で他の諸民族を圧倒し繁栄の頂点に達します。
紀元前1190年頃、「海の民」(紀元前13世紀末から紀元前12世紀に東地中海一帯の諸国家・諸都市を攻略し、広い地域を混乱に陥れた諸民族の総称)の侵略を受けて滅亡します。
ヒッタイトの滅亡後、それまで極秘にされていた製鉄技術は周辺に広まり、オリエントの諸民族を 経て、更にヨーロッパ、アフリカ、アジア各地に伝播し、鉄器時代を迎えることになります。
ヒッタイトの他に同じインド・ヨーロッパ系のミタンニ人は北メソポタミアに、カッシート人は南メソポタミアに侵入して、一時強大な国家を建設し、オリエント地域では紀元前15世紀から紀元前14世紀に、エジプトの新王国、ヒッタイトを筆頭とする諸王国が並立する政治状況が生じ、数世紀にわたって混乱状態が続いて行きました。
この間、メソポタミアでは独自の文化が繁栄し、宗教は多神教が崇拝され、民族の興亡と共に信仰される最高神も変化していきます。
文字はシュメール人が創設した楔形文字が使用され、粘土板に記録され、又六十進法、太陰暦、閏年、占星術、法律等実用的学問・文化が発達したことが大きな特色なのです。
ジョークは如何?
キューバ危機の裏話
ホットライン開通後、米ソ首脳は電話会談をした
ケネディ「私は5回核ボタンに手を掛けたが、すべてマクナマラに
説得されて結局ボタンを押せなかったよ」
フルシチョフ「わたしは5回核ボタンを押したが、発射ボタンが
壊れていてすべて不発に終わったよ」
続く・・・
スポンサーサイト
コメント