歴史を歩く3
<古代オリエントその③>

古代地中海世界
(3)地中海東岸の諸民族
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、エジプトとメソポタミアを結ぶ通路として、 又東地中海への出入口として重要な地方であり、民族の興亡が著しい地域ですが、「海の民」の侵入でエジプトとヒッタイトの勢力が後退した前12世紀頃から、セム系の3民族(アラム人、フェニキア人、ヘブライ人)が特色ある活動を開始しました。
アラム人はセム系の遊牧民で、紀元前12世紀~紀元前8世紀にシリアを中心に諸小王国を形成しました。
ダマスクスはアラム人の商業活動の最大の中心地となり、現在に至るまで存続しています。
アラム人は西アジア一帯の内陸中継貿易に活躍し、彼らの話すアラム語は西アジアの共通語となり、アラム文字は西アジアのみならず、東方の諸民族文字の源流となりました。
フェニキア人もセム系の民族で、紀元前2000年頃、現在のレバノン海岸に居住し、フェニキアの語源はエジプト人が彼らをフェンク(船を造る者)と呼称したことに由来します。
当時、レバノン山地は良質の杉材の産地で在り、その杉材を資材として船を建造し、クレタの海上貿易衰退後、地中海貿易をほぼ独占します。
本国ではシドン (現在のサイダ)・ティルスなどの都市国家が栄え、地中海沿岸各地(北アフリカ、スペイン南部が中心)に植民市を建設し、そのなかでも紀元前814年に建設されたカルタゴは、後にローマと地中海の覇権をめぐって争うことに成ります。
フェニキア人は紀元前12世紀頃から地中海貿易を独占しますが、アッシリア・ 新バビロニアが支配した時代には一時衰退し、アケメネス朝ペルシアの貿易保護政策のもとで、再び繁栄の時代を迎えることとなります。
商業民族であったフェニキア人の文化史上最大の功績は、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を原型としてつくられた世界最古の表音アルファベットを発明し、それをギリシア人に伝授し、現在使われているアルファベットの起源となったのです。
又ガラスを発明・発見したのもフェニキア人と云われ、ガラス細工も発達しました。
ヘブライ人は、セム系の遊牧民族で、古くはユーフラテス川上流域で遊牧を営み、紀元前1500年頃パレスティナに定着、飢饉が起きたとき一部は エジプトに移住します。
ヘブライ人は外国人による呼び名で、自らはイスラエル人と称し、バビロン捕囚以後はユダヤ人とよばれることが多い民族です。
エジプトに移住したヘブライ人は、新王国の外国人排斥機運がつよいなかで、奴隷として酷使され、悲惨な境遇
に在りましたが、そのヘブライ人を「約束された 理想の地、カナン」へ同胞たちを導いたのが映画「十戒」の主人公モーゼ(紀元前1350年頃~ 紀元前1250年頃 )なのです。
モーゼついては、実在を疑う説も多数存在しますが、実在の人物と思われます。
ヘブライ人の子としてエジプトに生まれたモーゼは、神の声に従い、 エジプト第19王朝のラムセス2世の頃、ヘブライ人を率いてエジプトを脱出、 紅海を渡り、シナイ山半島に到り、シナイ山で神ヤハウェ(ヤーヴェ、エホバ とも)から「十戒」を授けられました。

十戒
有名なモーゼの「十戒」は、神(名の無い神:以下ヤハウェ)よりエジプト脱出後に授けられたものです。
内容として、
(1) お前には私以外に神があってはならぬ。
(2) お前は偶像を彫ってはならぬ、拝んでもならぬ。
(3) お前の神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならぬ。
(4) 安息日を忘れず、聖く保て。
(5) 父母を敬え。
(6) 殺すなかれ。
(7) 姦淫するなかれ。
(8) 盗むなかれ。
(9) 隣人に対して偽証するなかれ。
(10)隣人のものを欲しがるなかれ。
ユダヤ人がこの契約を守れば、ヤハウェはユダヤ人を守る云う約束をモーゼはヤハウェと結びますが、これが「旧約」です。
モーゼはその後、約40年に及ぶ荒野での彷徨の間の苦難を強い指導力で切り抜け、カナンを目前に没したとされている。
この物語が有名な「出エジプト(Exodus)」で、映画でも再現され、特に紅海の海水が真中から割れて、海底が姿を現すシーンは圧巻ですね。

ソロモンの栄華
しかし、目指すカナンの地には、ペリシテ人等が既に定着しており、ヘブライ人がこの地に移住・定住するのは彼らとの激しい抗争に勝利した後のお話です。
この様に他民族との抗争の為には、ヘブライ人が結束する必要があり、そうした状況の中から王政が出現し、ヘブライ王国が形成されました。
ヤハウェの祭司の支持によって、紀元前1010年頃サウルが初代王に就きました。
サウルの武将で牧人のダヴィデ(在位紀元前1000年頃~紀元前960年頃)がサウルの戦死後、第2代目の王と成ります。
彼の最大の功績はペリシテ人を駆逐し、エルサレムに都を定めます。
ダヴィデの次王ソロモンの頃がヘブライ王国は最盛期を迎えますが、因みに国民的英雄である若き日のダヴィデを刻んだ彫像が、有名なミケランジェロ作の「ダヴィデの像」なのです。
ダヴィデの死後、子のソロモン(在位紀元前960年頃~紀元前922年頃)が第3代の王となり、「ソロモンの知恵」、「ソロモンの栄華」と後に語り継がれる様に、彼は官僚制を整え、軍事力を強化し、経済発展に力を注いだのです。
シバの女王との話しも対外交渉が盛んであったことを物語っています。
しかしながら、外国文化の吸収に熱心で、外国から異教の神が入りこみ、信仰された為、風紀も乱れが生じ始め、又経済の発展に伴いイスラエル人の間にも貧富の差が生じ、王国内部での南北の対立も生じて来ました。
この様な状況の中、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は南北に分裂し、北にイスラエル王国(紀元前922年頃~紀元前722年)と南のユダ王国 (紀元前922年頃~紀元前586年)が成立しました。両国の抗争の間に、北ではアッシリアの台頭が顕著となり、特にイスラエル王国はその脅威に真っ向から晒されることに成り、紀元前722年に終にアッシリアに征服されます。
南のユダ王国は、この後150年ほど国を維持し、一時はアッシリアの勢力下に置かれることも在りましたが、アッシリア自体の衰退によって滅亡の危機を逃れています。

バビロン捕囚
この頃から 多くの預言者(神の言葉を預けられ、それを人々に示して警告するもの )が現れ始めますが、その言葉は国王や国民に受け入れられず、やがて新バビロニアのネブカドネザル王が侵略し、エルサレムを陥れ、王と多数の住民をバビロンへ強制移住させました。
これが歴史上名高い「バビロン捕囚」(紀元前586年~紀元前538年 )で在り、強制移住させられた人々の生活は、必ずしも奴隷状態と成った訳では無く、その多くは農業に従事しました。
こうした状況のなかでユダヤ人の多くは、地域に同化され民族性を失っていく一方で、故郷を慕って帰国を祈願するものも多く、彼らはこの時はじめてヤハウェ信仰と一体になり、ヤハウェによって解放され、何時の日か帰国できるという希望のもとで試練に耐えたのでした。
その期待は約50年後に、 アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の発した「民族解放令」によって叶えられ、 イスラエル人の帰国が許されます。
しかし、バビロニアに留まったものも多く、帰国したものは一部に過ぎませんでしたが、帰国した彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し、「モーゼの律法」の遵守と儀式を定め、ユダヤ教を確立していきました。
ユダヤ教は、多神教が一般的であるオリエントでは例外的なヤハウェの一神教です。
ユダヤ人は、出エジプト・亡国・バビロン捕囚等の民族的苦難のなかで、ヤハウェとの契約を守れば、神はユダヤ人だけを救ってくれると云う、排他的な選民思想や神は何時か自分達を苦難から救い出してくれる、メシア(救世主)をこの世に送ってくれると云う、メシア待望の信仰を生みだしたのです。
しかし、バビロン捕囚から解放された後も、彼らは国を再建することは叶わず、民族的苦難はさらに続いて行き、この様な中からモーゼの律法遵守を極端な形式主義を重視するパリサイ人が現れます。この極端な形式主義を批判し、選民主義を排し、神の絶対愛を唱えた人物が、イエス・キリストであり、そうした意味で、ユダヤ教はキリスト教の母体なのです。
この為、ヘブライ人の歴史、預言者の言葉を編纂したユダヤ教の経典である「旧約聖書] が、イエスの言行を伝える「新約聖書」と共に、キリスト教の経典と成っています。
◎フェニキア人

フェニキア船
フェニキア人は紀元前3千年ごろから交易、商業、航海の民として地中海で活躍。ローマに破れて忽然と姿を消しましたが、彼らがつくりだしたアルファベットや造船、航海技術、染色、ガラス加工の技術はその後の歴史を変えました。
フェニキア人の交易の目玉はレバノン杉。古代都市ビブロスの背後に広がるレバノン山脈は杉の名産地で、木材の乏しいエジプトなどへの貴重な輸出品になりました。
逆にエジプトの金やパピルスがこの町を経てギリシャへ。
「ビブロス」(Byblos)とはギリシア語の「パピルス」のこと、「バイブル」(Bible)の語源にもなりました。
杉はまた船材として使われました。
シチリアのマルサラ考古学博物館には、1979年に発見されたフェニキア船の船底の一部が展示されています。
けっこう大きなもので40人近い漕ぎ手を乗せました。
船底の曲面は当時の技術水準の高さの証、これを駆って、遠くアフリカ大陸を周航し、北米にも達していたのではとする説も在り、北極星を発見したのも彼らでした。
シドン、ティルスは、「ムレックス」という巻き貝から採取した紫色の染料の産地。
太陽の光に晒すと発酵して紫色に成り、ローマ帝国では皇帝だけが着用できる「帝王紫」に、イギリスでは今も「ロイヤルパープル」として、皇室のオフィシャルカラーとなっています。
紀元前5世紀には、彼らの植民地はキプロスからスペイン東部にまで広がりました。
現チュニジアのカルタゴは、ローマと争ったポエニ戦争で有名ですね。ハンニバルが象を引き連れてアルプス越えをし、8万のローマ軍をカンネーで殲滅した話はよく知られていますが、その象は彼らがファームで飼育したもの。
いっぽうで「幼児生け贄」や「cannibalism(人食い)」という、マイナスのイメージも根強くヨーロッパで流布されてきました。
ポエニ戦争で痛めつけられたローマの文化人たち、例えばウェルギリウスやキケロが彼らのことをよく書かなかったからだといわれています。
フェニキア人の故地レバノンはイスラム化され、今ではアラビア語が公用語ですが、文化的には人口の30%を占めるキリスト教徒が古代との絆を保っているようです。
特に山脈側に多い東方教会の一つマロン派教会はフェニキア文化の数少ない伝承者で、かつてのフェニキア語はマルタ島で話されているていどだとか。
「フェニックス」は椰子の1種ですが、古くからエジプト人たちによって豊かさのシンボルとされてきました。フェニックス(phoenix)の語源はフェニキア人(Phoenician)。
地中海を縦横に駆け抜けたフェニキア人によって広められたところからこう呼ばれるようになりました。
ジョークは如何?
ヒトラーがフランスに勝って、ドーヴァー海峡の岸に立ち、言った。
「この忌々しい海を、どうやって渡ったらいいだろう」
ゲッベルスは答えた。
「ユダヤ人を連れてきて、紅海を渡ったトリックを聞き出しましょう」
強制収容所をくまなく探した末、モーセが見つかったので連れてこられた。
その時の問答。
「お前は、どうやって紅海の水を分けたのかね」
「一本の杖によってです」
「それだ!その杖はどこだ!」
「ロンドンの大英博物館です」
続く・・・

古代地中海世界
(3)地中海東岸の諸民族
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、エジプトとメソポタミアを結ぶ通路として、 又東地中海への出入口として重要な地方であり、民族の興亡が著しい地域ですが、「海の民」の侵入でエジプトとヒッタイトの勢力が後退した前12世紀頃から、セム系の3民族(アラム人、フェニキア人、ヘブライ人)が特色ある活動を開始しました。
アラム人はセム系の遊牧民で、紀元前12世紀~紀元前8世紀にシリアを中心に諸小王国を形成しました。
ダマスクスはアラム人の商業活動の最大の中心地となり、現在に至るまで存続しています。
アラム人は西アジア一帯の内陸中継貿易に活躍し、彼らの話すアラム語は西アジアの共通語となり、アラム文字は西アジアのみならず、東方の諸民族文字の源流となりました。
フェニキア人もセム系の民族で、紀元前2000年頃、現在のレバノン海岸に居住し、フェニキアの語源はエジプト人が彼らをフェンク(船を造る者)と呼称したことに由来します。
当時、レバノン山地は良質の杉材の産地で在り、その杉材を資材として船を建造し、クレタの海上貿易衰退後、地中海貿易をほぼ独占します。
本国ではシドン (現在のサイダ)・ティルスなどの都市国家が栄え、地中海沿岸各地(北アフリカ、スペイン南部が中心)に植民市を建設し、そのなかでも紀元前814年に建設されたカルタゴは、後にローマと地中海の覇権をめぐって争うことに成ります。
フェニキア人は紀元前12世紀頃から地中海貿易を独占しますが、アッシリア・ 新バビロニアが支配した時代には一時衰退し、アケメネス朝ペルシアの貿易保護政策のもとで、再び繁栄の時代を迎えることとなります。
商業民族であったフェニキア人の文化史上最大の功績は、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を原型としてつくられた世界最古の表音アルファベットを発明し、それをギリシア人に伝授し、現在使われているアルファベットの起源となったのです。
又ガラスを発明・発見したのもフェニキア人と云われ、ガラス細工も発達しました。
ヘブライ人は、セム系の遊牧民族で、古くはユーフラテス川上流域で遊牧を営み、紀元前1500年頃パレスティナに定着、飢饉が起きたとき一部は エジプトに移住します。
ヘブライ人は外国人による呼び名で、自らはイスラエル人と称し、バビロン捕囚以後はユダヤ人とよばれることが多い民族です。
エジプトに移住したヘブライ人は、新王国の外国人排斥機運がつよいなかで、奴隷として酷使され、悲惨な境遇
に在りましたが、そのヘブライ人を「約束された 理想の地、カナン」へ同胞たちを導いたのが映画「十戒」の主人公モーゼ(紀元前1350年頃~ 紀元前1250年頃 )なのです。
モーゼついては、実在を疑う説も多数存在しますが、実在の人物と思われます。
ヘブライ人の子としてエジプトに生まれたモーゼは、神の声に従い、 エジプト第19王朝のラムセス2世の頃、ヘブライ人を率いてエジプトを脱出、 紅海を渡り、シナイ山半島に到り、シナイ山で神ヤハウェ(ヤーヴェ、エホバ とも)から「十戒」を授けられました。

十戒
有名なモーゼの「十戒」は、神(名の無い神:以下ヤハウェ)よりエジプト脱出後に授けられたものです。
内容として、
(1) お前には私以外に神があってはならぬ。
(2) お前は偶像を彫ってはならぬ、拝んでもならぬ。
(3) お前の神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならぬ。
(4) 安息日を忘れず、聖く保て。
(5) 父母を敬え。
(6) 殺すなかれ。
(7) 姦淫するなかれ。
(8) 盗むなかれ。
(9) 隣人に対して偽証するなかれ。
(10)隣人のものを欲しがるなかれ。
ユダヤ人がこの契約を守れば、ヤハウェはユダヤ人を守る云う約束をモーゼはヤハウェと結びますが、これが「旧約」です。
モーゼはその後、約40年に及ぶ荒野での彷徨の間の苦難を強い指導力で切り抜け、カナンを目前に没したとされている。
この物語が有名な「出エジプト(Exodus)」で、映画でも再現され、特に紅海の海水が真中から割れて、海底が姿を現すシーンは圧巻ですね。

ソロモンの栄華
しかし、目指すカナンの地には、ペリシテ人等が既に定着しており、ヘブライ人がこの地に移住・定住するのは彼らとの激しい抗争に勝利した後のお話です。
この様に他民族との抗争の為には、ヘブライ人が結束する必要があり、そうした状況の中から王政が出現し、ヘブライ王国が形成されました。
ヤハウェの祭司の支持によって、紀元前1010年頃サウルが初代王に就きました。
サウルの武将で牧人のダヴィデ(在位紀元前1000年頃~紀元前960年頃)がサウルの戦死後、第2代目の王と成ります。
彼の最大の功績はペリシテ人を駆逐し、エルサレムに都を定めます。
ダヴィデの次王ソロモンの頃がヘブライ王国は最盛期を迎えますが、因みに国民的英雄である若き日のダヴィデを刻んだ彫像が、有名なミケランジェロ作の「ダヴィデの像」なのです。
ダヴィデの死後、子のソロモン(在位紀元前960年頃~紀元前922年頃)が第3代の王となり、「ソロモンの知恵」、「ソロモンの栄華」と後に語り継がれる様に、彼は官僚制を整え、軍事力を強化し、経済発展に力を注いだのです。
シバの女王との話しも対外交渉が盛んであったことを物語っています。
しかしながら、外国文化の吸収に熱心で、外国から異教の神が入りこみ、信仰された為、風紀も乱れが生じ始め、又経済の発展に伴いイスラエル人の間にも貧富の差が生じ、王国内部での南北の対立も生じて来ました。
この様な状況の中、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は南北に分裂し、北にイスラエル王国(紀元前922年頃~紀元前722年)と南のユダ王国 (紀元前922年頃~紀元前586年)が成立しました。両国の抗争の間に、北ではアッシリアの台頭が顕著となり、特にイスラエル王国はその脅威に真っ向から晒されることに成り、紀元前722年に終にアッシリアに征服されます。
南のユダ王国は、この後150年ほど国を維持し、一時はアッシリアの勢力下に置かれることも在りましたが、アッシリア自体の衰退によって滅亡の危機を逃れています。

バビロン捕囚
この頃から 多くの預言者(神の言葉を預けられ、それを人々に示して警告するもの )が現れ始めますが、その言葉は国王や国民に受け入れられず、やがて新バビロニアのネブカドネザル王が侵略し、エルサレムを陥れ、王と多数の住民をバビロンへ強制移住させました。
これが歴史上名高い「バビロン捕囚」(紀元前586年~紀元前538年 )で在り、強制移住させられた人々の生活は、必ずしも奴隷状態と成った訳では無く、その多くは農業に従事しました。
こうした状況のなかでユダヤ人の多くは、地域に同化され民族性を失っていく一方で、故郷を慕って帰国を祈願するものも多く、彼らはこの時はじめてヤハウェ信仰と一体になり、ヤハウェによって解放され、何時の日か帰国できるという希望のもとで試練に耐えたのでした。
その期待は約50年後に、 アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の発した「民族解放令」によって叶えられ、 イスラエル人の帰国が許されます。
しかし、バビロニアに留まったものも多く、帰国したものは一部に過ぎませんでしたが、帰国した彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し、「モーゼの律法」の遵守と儀式を定め、ユダヤ教を確立していきました。
ユダヤ教は、多神教が一般的であるオリエントでは例外的なヤハウェの一神教です。
ユダヤ人は、出エジプト・亡国・バビロン捕囚等の民族的苦難のなかで、ヤハウェとの契約を守れば、神はユダヤ人だけを救ってくれると云う、排他的な選民思想や神は何時か自分達を苦難から救い出してくれる、メシア(救世主)をこの世に送ってくれると云う、メシア待望の信仰を生みだしたのです。
しかし、バビロン捕囚から解放された後も、彼らは国を再建することは叶わず、民族的苦難はさらに続いて行き、この様な中からモーゼの律法遵守を極端な形式主義を重視するパリサイ人が現れます。この極端な形式主義を批判し、選民主義を排し、神の絶対愛を唱えた人物が、イエス・キリストであり、そうした意味で、ユダヤ教はキリスト教の母体なのです。
この為、ヘブライ人の歴史、預言者の言葉を編纂したユダヤ教の経典である「旧約聖書] が、イエスの言行を伝える「新約聖書」と共に、キリスト教の経典と成っています。
◎フェニキア人

フェニキア船
フェニキア人は紀元前3千年ごろから交易、商業、航海の民として地中海で活躍。ローマに破れて忽然と姿を消しましたが、彼らがつくりだしたアルファベットや造船、航海技術、染色、ガラス加工の技術はその後の歴史を変えました。
フェニキア人の交易の目玉はレバノン杉。古代都市ビブロスの背後に広がるレバノン山脈は杉の名産地で、木材の乏しいエジプトなどへの貴重な輸出品になりました。
逆にエジプトの金やパピルスがこの町を経てギリシャへ。
「ビブロス」(Byblos)とはギリシア語の「パピルス」のこと、「バイブル」(Bible)の語源にもなりました。
杉はまた船材として使われました。
シチリアのマルサラ考古学博物館には、1979年に発見されたフェニキア船の船底の一部が展示されています。
けっこう大きなもので40人近い漕ぎ手を乗せました。
船底の曲面は当時の技術水準の高さの証、これを駆って、遠くアフリカ大陸を周航し、北米にも達していたのではとする説も在り、北極星を発見したのも彼らでした。
シドン、ティルスは、「ムレックス」という巻き貝から採取した紫色の染料の産地。
太陽の光に晒すと発酵して紫色に成り、ローマ帝国では皇帝だけが着用できる「帝王紫」に、イギリスでは今も「ロイヤルパープル」として、皇室のオフィシャルカラーとなっています。
紀元前5世紀には、彼らの植民地はキプロスからスペイン東部にまで広がりました。
現チュニジアのカルタゴは、ローマと争ったポエニ戦争で有名ですね。ハンニバルが象を引き連れてアルプス越えをし、8万のローマ軍をカンネーで殲滅した話はよく知られていますが、その象は彼らがファームで飼育したもの。
いっぽうで「幼児生け贄」や「cannibalism(人食い)」という、マイナスのイメージも根強くヨーロッパで流布されてきました。
ポエニ戦争で痛めつけられたローマの文化人たち、例えばウェルギリウスやキケロが彼らのことをよく書かなかったからだといわれています。
フェニキア人の故地レバノンはイスラム化され、今ではアラビア語が公用語ですが、文化的には人口の30%を占めるキリスト教徒が古代との絆を保っているようです。
特に山脈側に多い東方教会の一つマロン派教会はフェニキア文化の数少ない伝承者で、かつてのフェニキア語はマルタ島で話されているていどだとか。
「フェニックス」は椰子の1種ですが、古くからエジプト人たちによって豊かさのシンボルとされてきました。フェニックス(phoenix)の語源はフェニキア人(Phoenician)。
地中海を縦横に駆け抜けたフェニキア人によって広められたところからこう呼ばれるようになりました。
ジョークは如何?
ヒトラーがフランスに勝って、ドーヴァー海峡の岸に立ち、言った。
「この忌々しい海を、どうやって渡ったらいいだろう」
ゲッベルスは答えた。
「ユダヤ人を連れてきて、紅海を渡ったトリックを聞き出しましょう」
強制収容所をくまなく探した末、モーセが見つかったので連れてこられた。
その時の問答。
「お前は、どうやって紅海の水を分けたのかね」
「一本の杖によってです」
「それだ!その杖はどこだ!」
「ロンドンの大英博物館です」
続く・・・
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