2014/04/10

歴史を歩く5

<ギリシア世界その1>

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(1)エーゲ文明

 古代文明の中で最も早く成立したオリエント文明は、周辺の地域に多大な影響を及ぼして行きますが、特にオリエントに近く、地中海で結ばれていたギリシアを中心とする地中海東部でヨーロッパの古代文明が開闢しました。
これがエーゲ文明で、エジプトの新王国、古バビロニアと時を同じくして繁栄します。
19世紀頃までは、エジプト文明が直接ギリシア本土に伝播し、ギリシア文明が成立したと考えられていたのですが、19世紀の後半にエーゲ文明がその媒介の役割を果たしていたことが明らかになりました。

 エーゲ文明は紀元前20世紀頃から紀元前12世紀頃まで、エーゲ海を中心に繁栄を極めた青銅器文明で、前期のクレタ文明と後期のミケーネ文明から構成されています。
エーゲ文面の研究は、19世紀の後半にドイツ人シュリーマン(1822年~90年)、イギリス人エヴァンズ(1851年~1941年)の調査発掘によって明らかになったのです。

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Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日

 シュリーマンは幼少の頃読んだ本文中に挿入された、トロイ落城の挿し絵を見た事が、その後の遺跡発掘を生涯の念願として追い続け、ついに実現したのでした。
貧しい牧師の子として生まれ、生家の没落で雑貨屋の小僧に始まり、船の給仕を経て商店に勤め、苦労しながらもその間、十数カ国語を学び、24才頃ロシアに移住、クリミア戦争や南北戦争の状況を巧みも利用し、インド藍や木綿の交易で成功し巨万の富を築きます。
40才過ぎに 事業から一切手を引き、ギリシア語と考古学の研究の後、1870年に少年時代からの夢であった3回にわたるトロイ発掘(1870年~90年)に取りかかったのです。

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トロイ落城

 トロイはホメロス(紀元前8世紀頃)の叙事詩「イリアス」に歌われたトロヤ戦争の舞台となった場所で、「イリアス」には、トロヤ王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを誘拐したことから、ミケーネ王アガメンノンを指揮者とするギリシアの英雄達(例えばアキレウス)がトロヤに遠征し、10年の包囲の末、有名な「トロイの木馬」の計略を持ってトロイを落城させたと書かれていいます。

 シュリーマンはこのホメロスの詩を真実であると確信していましたが、当時の常識於いては同物語は伝説であると考えられており、更にシュリーマンが学界の定説に反して海に近いヒッサリクの丘をトロイと考えて発掘を始めたので、学者たちは冷ややかな目で傍観していたのです。

 第1回目の発掘で城壁、宮殿址と財宝を発見し、学者たちを驚愕させた上、更にシュリーマンは、総指揮官アガメンノンがミケーネ王であった事実、ホメロスが「黄金に富むミケーネ」と謳っている 事、古代記録に多くの墓所の存在が記録されている事から、1876年以来ミケーネの発掘に取りかかり、夥しい副葬品、特に「黄金の仮面」をはじめとする黄金製品は人々を驚かせたのでした。
彼はクレタ島の調査発掘も計画実行に移すのですが、その結果を見る事なく1890年に亡くなります。

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Sir Arthur John Evans、1851年7月8日- 1941年7月11日

 シュリーマンの後を受け継ぎ、クレタ文明を調査発見した人物がエヴァンズで、彼は新聞社に勤務しバルカンを旅行した際に、シュリーマンに会ってその指導を受けた後、オックスフォード大学博物館の館員として考古学を教鞭します。
やがてギリシア旅行中に見た出土品が、クレタ起源と推定してクレタ島に渡り、1900年以降クノッソス王宮遺跡の発掘を始めました。
伝説上のミノス王の宮殿跡、陶器、壁画、金銀工芸品等を発見し、この文明がそれまで知られていない青銅器文明である事、エーゲ文明の中心がクレタである事を証明したのです。

 シュリーマンやエヴァンズによる是等遺跡の発掘により、エーゲ文明の存在が実証されました。
クレタ(ミノス)文明は、紀元前20世紀頃から紀元前15世紀頃、クレタ島を中心に地中海の海上貿易によって繁栄した海洋文明、青銅器文明であり、クノッソス大宮殿の遺跡から強い権力を持った王の存在が推定されますが、この文明を築いた民族系統等は現在も不明で、最古の海洋文明として繁栄したものの、紀元前15世紀頃アカイア人(ギリシア人)の侵入によって滅亡したと考えられています。

 ミケーネ文明は紀元前15世紀頃から紀元前13世紀頃、最も繁栄した文明で、その中心はシュリーマンの発掘で有名なギリシア本土のミケーネ・ティリンスです。
この文明の小国家群は、巨石で用いて造られた城壁を持っているところから小規模ながら、専制国家であったと考えられ、アカイア人がオリエントやクレタ文明の影響を受けて形成した青銅器文明ですが、ギリシア的な要素も色濃く、紀元前12世紀頃、ドーリア人の侵入を受けて滅亡したと考えられています。

(2)ポリスの成立

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アクロポリス俯瞰図

 ギリシアは日本と同様に平野に乏しく、山々が連なり、大小多くの島々が点在し、海岸線は非常に複雑で、その面積は九州の約1.5倍に相当します。
夏は少雨で乾燥し、冬は温暖で雨が多い、典型的な地中海性気候で、穀物農業よりもオリーブ、ぶどう、いちじく等の果樹栽培に適しています。

 ギリシア人はインド・ヨーロッパ語族に属し、本来中央アジア・ 南ロシアを出身地としますが、大多数が西に進みヨーロッパに入って行くなか、途中から分派しバルカン半島を南下した部族は、紀元前20世紀頃からギリシアの半島部分に南下し、定住して行きました。

 そのギリシア人の南下・定住は二度に別れ、紀元前20世紀頃の第1次移動で南下・定住したギリシア人をアカイア人と総称し、彼らは後に方言の違いからイオニア人、アイオリス人に分別されますが、一部はクレタ島に進出、クレタ文明を滅ぼし、その影響のもとでミケーネ文明を築きました。

 第2次移動は紀元前12世紀頃、ドーリア人が鉄器文明を携えて南下、ミケーネ文明を滅ぼし、半島南部からクレタ島に侵入、先住民を征服し定住していきました。
ドーリア人が鉄器を持ち込んだ事から、以後ギリシアは鉄器時代に入り、このドーリア人の侵入によって先住民であるイオニア人、アイオリス人は本土を追われて、エーゲ海の島や小アジアにも移住する事になります。

 ドーリア人の侵入とミケーネ文明の滅亡後、長い混乱時代(暗黒時代)が到来し、この混乱は紀元前8世紀頃には収拾されますが、ギリシアには1000或いは 1500以上のポリスが成立しました。

 ポリスの成立過程は様々ですが、多くは集住(シノイキスモス)によって成立し、アテネ(アッティカ)型 ポリスと呼ばれ、その代表的ポリスはアテネで在り、地域毎に有産者(貴族)が中心となり、軍事的・政治的・経済的要地へ全住民を強制的に移住させました。
ポリスの中心部をアクロポリスと呼称しますが、一般的には小高い丘で主に貴族が住み、政治・宗教の中心で、その周りの麓にあった公共広場はアゴラ(アゴラエクレシア)と呼ばれ、商業・集会・裁判などが行われ、更にその周囲を城壁で取り囲んだのです。

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スパルタ・勇将レオニダス像

 もう1つの典型はスパルタで、スパルタはドーリア人が先住民を征服して建てたポリスで在り、これをスパルタ型ポリス、征服型ポリスと呼称します。
スパルタでは、スパルティアタイと呼ばれる5000人程の完全市民=戦士が貴族を構成し、支配階級で官職を独占しました。
そして征服された先住民は、ヘイロタイ(ヘロット)と呼ばれて国有奴隷とされ、農業労働を強制され、その数は約5万人、更に約2万人のペリオイコイ(周辺に住む者の意味)と呼ばれた劣格市民が存在しました。
彼らは、同じドーリア人ですが、何等かの理由でこの身分とされ、主として商工業に従事し、従軍の義務は在ったものの、参政権は存在しませんでした。

 数の上で少数の完全市民は、十倍以上の人口を数えるペリオイコイ、ヘイロタイを支配する為に、全員が強い戦士であることを要求され、その為に現在にその名前を残すスパルタ教育が実行され、軍国主義が形成されました。
二人の王、長老会(30人)、民会(30才以上全員)を国の基本制度とし、独特の軍国主義、鎖国的諸制度を定めたのはスパルタの伝説的立法者のリュクルゴス(紀元前9世紀頃)であるとされています。

 完全市民であるスパルタ人の一生は以下の様に伝えられています。
新生児のうち虚弱、奇形の場合は山に遺棄され、7才で家庭を離れ、共同生活に入り、12才から肉体的訓練を中心に本格的な訓練を受け、18才で軍隊に編入され、20才で主力軍となり、30才で兵営を離れ、家庭を持つものの兵役義務を負い、60才で兵役が解除となりました。

 古代ギリシアの歴史は、ポリスの発生・発展・没落の歴史です。
ポリスは独立した都市国家で、その間には戦争が絶える事が無く、又ギリシア全体が一つに統一される事も在りませんでしたが、その一方でギリシア人は一つの民族としての意識を失わなかったのです。

 彼らは自らをヘレネス (英雄ヘレンの子孫の意味)と呼び、異民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す者の意味、この単語から英語のbarbarian=未開人、野蛮人が生まれました)と呼んで軽蔑の対象としました。
尚ギリシア人と云う表現は、後のローマ人が使用した呼び方です。

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オリンポス十二神

 宗教では、ギリシア神話で有名な主神ゼウス、その妻ヘラをはじめポセイドン(海と大地の神)、アポロン(太陽の神)、アテナ(知恵の神)、アフロディテ(美の女神)等オリンポス十二神が 信仰され、オリンポス山に神々が住んでいると考えられていました。
又神託を信じ、各ポリスは守護神の神託を求めたが、特にデルフィの守護神アポロン神の神託は有名で、全ギリシアのポリスが宣戦・講和・植民の是非などを尋ね、神殿と祭礼を同じくするポリス間では 隣保同盟が結ばれていきます。

 ギリシア文学で現在も読み続けられる、ホメロスの二大叙事詩「イリアス」、「オデュッセイア」は当時から全ギリシア人に愛誦されました。

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オリンピア神殿とその聖域

 オリンピアの競技は、紀元前776年から4年毎に行われ、紀元後393年まで実に千年以上続いたのです。
近代オリンピックは1896年にクーベルタンによって提唱され、1996年のアトランタ大会でやっと100年が経過しただけなのです。
4年毎の真夏に行われるオリンピックの期間中は、選手や見物人の往来安全の為に一切の戦争行為が停止されたことはよく知られており、その参加選手は男性だけで、全裸で競技を行い、競技には競争(短距離、中距離、長距離)と五種競技(走り幅跳び、槍投げ、短距離走、円盤投げ、レスリング)そして レスリング、ボクシング、競馬、戦車競争等が記録されていますが、当時の体育目的が強靭な戦士の養成にあった事をよく示していると思います。

ジョークは如何?

田舎者のフルシチョフがステーキを手掴みでかぶりつきながら食べているのを見かねたスターリンが言った。
「同志フルシチョフ、ナイフを使いたまえ。」するとフルシチョフが答えた。
「今度は誰を殺るんですか??同志。」


続く・・・
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コメント

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こんばんは

シュリーマンの功績は偉大です。
しかし発掘というより宝探しに近い乱暴な掘り方は、遺跡破壊として後世批判されることとなりました。

発掘は破壊でもある。
これは今の考古学の世界でも大きな課題ですね。