2014/04/14

歴史を歩く6

<ギリシア世界その2>

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ギリシア主要ポリスの位置

(3)ポリスの発展(その①)

 ミケーネ時代の小王国は暗黒時代(紀元前12世紀~紀元前8世紀頃)に消滅、滅亡し、王権は衰退、ポリスが成立する頃には、王は貴族の中の一人と成っていました。
従って、最初王を頂いていた各ポリスでは、紀元前7世紀頃には広い支配地域と 多くの家畜を保有し、馬を飼育し、高価な武具を備え、騎兵としてポリス防衛に重要な役割を果たした貴族が、ポリスの政治・軍事の実権を掌握し、貴族政治が確立したのでした。
アテネでも、貴族出身の9人のアルコン(執政官、任期1年)が政治運営の実権を握っていました。

 紀元前750年から紀元前550年の約200年間の間に、ギリシア人は地中海・黒海沿岸にかけて活発な植民活動を行いますが、その主要な動機は第一にポリス内部での人口の増大の結果、土地獲得の要求、第二に商業活動への関心がそれに拍車をかけました。

 この植民活動の結果、新しいポリスが次々に誕生し、その中にはその後発展を遂げ、現在まで続いている都市が存在します。
代表的な都市として、マッシリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス(現在のナポリ)、ビザンティオン (現在のイスタンブール)等を上げる事ができます。

 植民活動による植民市の建設は、単にポリスの数が増加しただけではなく、ポリス内部にも大きな変化を引き起こし、本国のポリスと植民市のポリス間の商業・貿易が盛んに成るに従い、貨幣の使用が現れます。
鋳造貨幣の使用は紀元前7世紀頃、リディアで始まり、小アジアとの交易を通してギリシアに伝わり拡大して行きました。
更に商業の発達に伴い、手工業の発達も著しく、陶器、ブドウ酒、オリーブ油、金属器等が作られこれらの商品は輸出される様になります。
この様な商業・貿易・手工業の発達、貨幣経済の進展により、貴族の様な大規模土地所有が無くても、貨幣財産では彼らに匹敵する富を蓄えた豊かな平民が出現し、「貨幣こそは人」と云う諺は当時の状況をよく現していると思います。

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重装歩兵密集隊(ファランクス)

 商工業の発達に伴って武器製造も盛んとなり、安価な武器が普及すると、豊かな平民の中には、武器・武具を手に入れ、重装歩兵となり、ポリスの防衛に参加する者も出現しました。
従来、貴族が政治を独占出来た最大の理由は、彼らが騎兵としてポリスの防衛の主体だったことに在りましたが、平民の重装歩兵から成る密集隊(ファランクス)が戦術の中心へと変化し、騎馬の貴族の役割が低下していく事になります。
その為「国防の主体である貴族が政治を独占するのは当然である」という論理は崩壊し、今や自分たちもポリス防衛に重要な役割を果たしている現実を直視すれば、当然政権に参加する権利があると主張する平民との対立・抗争が激しく成っていきます。

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 従来の貴族政治の時代には、慣習法は成文化されず、貴族側に都合の良い様に自由に解釈されてきた為、平民は慣習を成文化する事を要求し、アテネではドラコン(生没年不明 )が、紀元前621年頃、従来の慣習法を整理・改正してギリシア最初の成文法を編纂します。
内容は刑罰が非常に厳しく、死刑の適用が多かった結果「血で書かれた」と評された成文法でした。

 貨幣経済の発展によって、平民の経済的地位が向上したのですが、もちろん全ての平民が豊かになった訳では在りません。
一方では貨幣経済の進展によって没落していく者も多く、農民の中には、借財に苦しみ、土地を失い、 奴隷に地位を落とす者も次第に増えて行きました。
借財を払えない者は土地を債権者に差押さえを受け、生産物の6分の1を債権者に納め、それが滞納になった場合や、身体を抵当として借金をした返済不能者は、奴隷として外国に売られてしまう事が当時の慣習法でした。

 貴族と平民の対立・抗争が激しくなり、一方で農民の困窮が急速に進み、奴隷に転落する者が急増していくという、アテネ内政の危機に「調停者」として登場してくる人物がソロン(紀元前640頃~紀元前560頃 )です。
「調停者」とは、ポリスが危機に陥った時、市民の合意により一定の期間全権を委ねられ、相争う党派の調停に当たり、重要な立法を行う人を云います。

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ソロン・紀元前639年頃 - 紀元前559年頃

 王家の血筋を引き名門生まれのソロンは紀元前594年に「調停者」に選ばれ、有名な「ソロンの改革]を断行しました。
まず最大の問題であった没落する市民を救う為に、「重荷おろし」と云われた借財の帳消しを行い、今後は身体を抵当とする借財を禁止しました。
次に国政の改革を行い、「財産政治」を実施します。
これは市民を 土地・財産によって4等級に分け、参政権や軍事上の義務をそれぞれの等級に応じて定めたもので、第1級(富者、500メトロンの土地)はアルコンなどの最高官職に、第2級(騎士、300メトロンの土地)はその他の官職に、第3級(農民、 200メトロンの土地)は重装歩兵、その他の官職に、第4級 (労働者、無産者)にも民会への参加を認めたものでした。

 財産政治は生まれでなく、土地・財産によって官職を定めているところから、平民にも最高官職への道が開かれ、その意味で、貴族政治は終焉を迎えます。
しかし、当然ながら借財の帳消しに対しては貴族・富裕者が強い不満を持ち、一方土地の再分配、言い換えれば、大土地所有者の土地を接収し、貧しい農民に分けることを期待していた貧農も不満を持ちました。
又身体を抵当とする借財の禁止によって、借金の道を閉ざされた人々の生活も問題でした。
双方から不満を聞いたソロンは、国外に出て各地を見聞し帰国後、僭主出現の警告を発したものの効果なく、改革法案が実行に移されない事を悲しみながら亡くなります。

 ソロン改革後の30年間は、アテネは混乱の連続で、当時3つの党派が存在し対立していました。これは地域的な対立でもあり、中央の平野を地盤とし寡頭政治を求めた平野党、中庸の政体を求める海岸党、そして山地党は貧しい者の党で民主政治を要求していたのです。

 山地党の首領であった名門出身のペイシストラトス(紀元前600年頃~紀元前528年)が、紀元前560年に山地党を率い、親衛隊と共にアクロポリスを占領して僭主となり、政権を奪取します。
僭主とは貴族と平民の対立を利用して非合法手段で独裁権を握った者を示す言葉です。

 彼は、後に反対派によって2度の亡命を余儀なくされますが、三度僭主として政権を担当し、彼の政権は手工業者・商人の支持を背景に中小農民を支柱とし、農業奨励と小農民保護を政策の中心としました。
又5%の地租を課してアテネの財政力を高め、更に手工業や海上発展にも力を注いだのです。
彼の人柄は穏和で親しみやすく、ソロンの国政を変更せず巧みな政治運営を行い 、後世の人々からは理想の政治と賛辞されました。

 しかし、一方で彼は自分の一族を高官に就任させ、又彼の二人の子の時代には、僭主政治は暴政と化し、僭主は英語のtyrant(暴君)の語源と成りました。
ペイシストラトスの長男ヒッピアスは弟が暗殺された後、暴政が顕著と成り紀元前510年にはスパルタ軍がアクロポリスを包囲し、約50年間続いた僭主政治は終わりを告げます。
ヒッピアスは国外に追放され、後のペルシア戦争の際には、ダレイオス1世の案内役を務めています。(!)

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オストラコン
 
クレイステネス(生没年不明 )は名門出身で、民衆の支持を得てヒッピアスを打倒し、貴族派がスパルタ王と結んで寡頭政治の樹立を画策した時、民衆と手を結んで民衆の力でスパルタ王を退去させ、紀元前508年に最高官のアルコンに就任し、後世に残る「クレイステネスの改革」を行いますが、そのなかで最も有名な政策が、陶片追放(オストラシズム)です。

 この政策は市民が僭主に成る恐れの在る人物の名前を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し、 投票総数が6000票以上あった場合、最高得票者1人が10年間、国外に追放される制度でした。
紀元前487年に初めて施行され、後には政敵を陥れる手段に悪用される事がしばしば起こり、有能な政治家が追放された結果、紀元前5世紀末以降中止されました。

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貴族の生活風景

 もう1つの重要な改革が、従来の貴族の権力基盤となっていた古い血縁的な4部族制を改めて、市域・海岸・内地の3つの地域に分け、各々を更に10の小地域に分割、機械的に組み合わせて地域別による10部族制を創設し、各部族から50人ずつの代表を選出し、「500人評議会」を創設しました。又毎年各部族から1名、計10名の将軍を新たに選出し、将軍はアテネ民主政下で最重要官職と成って行きます。
以後、人々は居住地域によって部族が決まり、家柄を表に出させず、「500人評議会」は、世界史上最も古い比例代表制で、この制度によってアテネの 民主政の基礎が確立したのでした。

ジョークは如何?

「王妃。わが国も核兵器を保有しませんか?」
「これ以上ギリシアに廃墟はいらないわ」
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ポリス

ギリシャの発展はポリスにあり
関西では芝桜が満開です
( ノ゚Д゚)おはよう、いい一日を
(✿◡‿◡)今日は雲ひとつない青空です
(^^)>今日もよろしくお願いします