2014/04/18

歴史を歩く7

<ギリシア世界その3>

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第1次、第2次ペルシア戦争に於ける、ペルシア軍の作戦行動

(3)ポリスの発展(その②)

 小アジア西岸のイオニア地方には、ミレトスを中心とする多くの植民市が建設されていました。
当時、東方ではアケメネス朝ペルシアが隆盛を極め、小アジアにその膨張の矛先を向け、イオニア諸都市を支配下に置いて行きます。
ペルシアはこのイオニア諸都市に専制政治・僭主政を強制し重い課税制度を押し付けたのです。

 これに対して、紀元前500年にミレトスを中心とするイオニア諸都市に反乱(イオニアの反乱)が勃発します。
イオニア諸都市はギリシア本土へ救援を依頼するものの、スパルタはこの要請に応じず、結果として紀元前494年、ペルシアはミレトスを占領・破壊し、反乱は鎮圧されますが、このイオニアの反乱に際して、アテネが20隻の軍船を派遣した事が、ペルシアがアテネに対する懲罰軍を派遣する口実を与える結果となり、此処に歴史に残るペルシア戦争(紀元前500年~ 紀元前449年、狭義的には紀元前492年~紀元前449年)が始まります。

 第1次ペルシア戦争に於いて紀元前492年、ダレオイス1世はトラキア、マケドニア遠征を行いますが、アトス岬で猛烈な北風の為、艦艇300隻、兵員2万人を喪失、遠征そのものは失敗に終わったものの、エーゲ海北岸に対するペルシアの支配権を確立する事ができました。

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マラトンの戦い

 第2次ペルシア戦争は紀元前490年、ダレイオス1世は、アテネ・ エレトリアに対する報復の大軍を動員します。
エレトリアもイオニアの反乱の際、アテネと共に軍船を派遣した経緯が在り、ペルシア軍はまずエレトリアを攻撃、これを陥落させ、直様アテネに進軍、9月初めアテネの東北方面のマラトンへ上陸しました。
この時ペルシア軍を導いた人物が、20年前にアテネを追放されたヒッピアスなのです。
何故アテネ近郊に上陸作戦を敢行しなかったのかは現在でも軍事行動上の大きな謎ですが、アテネではマラトンへ出撃をめぐって意見が対立し、結果的に積極作戦を主張するミルティアデスの意見が通り、アテネ軍はマラトンにペルシア軍を迎え撃つ事に成ります。

 数日間の小さな戦闘が在りましたが、終に全面戦闘が始まり、10万人のペルシア軍(実際は3万乃至4万)を 約1万人のアテネ軍が激突したのです。
有名なマラトンの戦いは、夜明け前に始まり午前中には集結しますが、その結果は、アテネ軍重装歩兵の密集隊(ファランクス)の目覚しい活躍でアテネ側の勝利に終わり、ペルシア軍の大敗走と成りました。
戦死者は、ペルシア軍約6400名、アテネ軍約200名と云われています。

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「我ら勝てり!」

この有名な戦いは、今日「マラソン競技」として記念されています。
激戦が終わった直後、エウクレスが完全武装のままでアテネまで「35km」を力走、「我ら勝てり」と一言いうなり息が絶えたと伝えられています。
この故事を記念して、第1回オリンピック・アテネ大会で現在のマラトン村からアテネまでの約40kmの競技が行われ、後に42.195kmとなり現在に至っています。

  第3次ペルシア戦争で、マラトンの敗戦を知ったダレイオスは直様、より大規模な遠征の準備に着手しますが、4年後の紀元前486年に崩御し、王子クレルクセス1世(在位紀元前486値~紀元前465年)が王位を継承します。
クレルクセスは紀元前480年、空前の大遠征軍を率いてギリシアに侵攻しました。
この為、陸上部隊を全員船で輸送する事は事実上不可能となり、陸上部隊はエーゲ海の北岸沿いに進み、海軍がこれを援護しながらの行軍と成りました。
紀元前492年のアトス岬の悲劇を避ける為、半島の付け根部分に運河を開鑿し、ペルシア軍の兵力について、ヘロドトスは陸軍210万人と記録していますが、実際は約30万人、海軍は三段櫂船約1200隻と考えられています。

 マラトンの戦い以後、ペルシアの再来が予測される中でも、未だギリシアは統一されていませんでした。
アテネでは、クセルクセスによる対戦準備が本格化していた紀元前483年に大規模な銀山が発見され、アテネ市民は慣例に従い、これを市民の間で分配しようと試みますが、この時テミストクレス(紀元前528年頃 ~紀元前462年頃 )は、その分配を差し止め、200隻の三段櫂船の新造させ、ペルシアの侵攻に備えたのです。

 ペルシアの侵攻が始まった頃、アテネはデルフィの神託を求めました。
最初、巫女はアテネの壊滅を予言し、更なる神託を求めた時「ゼウスは、女神(アテナ)に木の壁(艦船の意味)を与え給う。これぞ唯一つ難攻不落にして汝と子に益さん。」とのお告げを得たとされています。

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テルモピレー・スパルタ守備隊

 ペルシア軍はマケドニア方面から南下し、ギリシア連合軍も之を迎撃する形で、テルモピレー(海沿いの土地で山が迫り、隘路になっている場所)でペルシアの南下を阻止する作戦でした。
紀元前480年8月、ここに現代でも語り継がれる有名なテルモピレーの戦いが始まります。

 テルモピレーのギリシア軍守備隊は、スパルタ王レオニダス指揮下に、スパルタ市民の精鋭300人を中心とした総勢約6000人がこの任務に従事していました。
守備隊は、ペルシア軍弓兵の威力が発揮できないように、隘路の断崖に展開します。
守備隊はペルシアの大軍を相手に奮戦するのですが、地元ギリシア人がペルシア軍に迂回路を教えた為、背後を突かれる形となり、挟撃の激戦の末、300人のスパルタ兵は全員戦死しました。
この戦場跡に建てられた墓碑の詩には以下の碑文が刻まれています。
「旅人よ、ラケダイモン(スパルタのこと)の国人に行き伝えよ。御身らが命に服して、我らここに死にしと」

 テルモピレーの戦い後、ペルシア軍勢はほとんど無抵抗状態の中を南下、9月にはアテネのアクロポリスを占領しますが、この時アテネでは、「テミストクレスの決議」に従って大部分の市民は、アテネの南にあるサラミス島へ疎開しており、少数の者達が籠城していただけでした。

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ギリシア連合艦隊出撃

 テミストクレスは、軍船の数でペルシア海軍に劣る為、広い水域での戦闘を避け、狭い水道での戦闘に戦術を変え、内通者を装った使者をペルシア軍に送り、ギリシア海軍がサラミスから撤退しようとしていると告げさせます。
クセルクセスはサラミスを封鎖する作戦に出て、500隻のペルシア海軍主力艦隊が狭い水道に侵入しました。
この時、ギリシア連合艦隊の三段櫂船の総数は約310隻と伝えられています。

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サラミスの海戦俯瞰図

 夜明けと共に狭い水域で、海戦史上名高い「サラミスの海戦」(紀元前480年9月下旬)が始まりました。
機動力に優るギリシア海軍は追い風を利用し、衝角戦法(出来るだけ直角に近い角度で相手の船に船首の衝角「ラム」を突入させ、吃水線以下に穴を開け打撃を与える戦法)で、狭い水域に大艦隊で突入し混乱に陥ったペルシア海軍を攻撃し、敵艦の多数撃沈したのでした。

 サラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦いであるだけでなく、ギリシアのその後の歴史を考える時、大変重要な戦いであったと考えられています。
特に三段櫂船の漕ぎ手として多数の無産市民が活躍した事は、後の民主主義の発達に大きな影響を及ぼしました。
三段櫂船の漕ぎ手は1隻あたり170名から200名で、アテネの軍船200隻には漕ぎ手だけでも3万4千人以上が必要になります。
当時、アテネの重装歩兵階層以上の市民が約1万5千人、無産市民が約2万人と推定されていますので、全市民が乗り組んだであろうと思われます。
特にマラトンの戦いでは活躍出来なかった無産市民(文字通り財産が無い為、武器・武具を自分で買うことができず、重装歩兵部隊に入れなかった人々、当時は武器・武具は、ポリスから支給されず、自分で 調達しなければ成りませんでした)の活躍が大きな比重を占めました。
この為ペルシア戦争後、従来参政権を与えられなかった無産市民も参政権を要求し、その要求は認められて行くなかで、ギリシアの民主主義が完成して行く発端に成った戦いでした。

 サラミスの敗戦後、クセルクセスはサルディスに退却しましたが、約15万人のペルシア精鋭部隊はギリシア半島の北方で越冬待機しており、ギリシアは依然として大きな脅威に曝されていました。

 紀元前479年、アテネ・スパルタ連合軍はプラタイアに進撃してペルシア陸軍を撃破し、同じ頃、イオニアのミカレー岬ではギリシア連合艦隊がペルシア艦隊を撃破し、ギリシア側の勝利が確定します。
紀元前449年に「カリアスの和約」でアテネとペルシア間の和平条約が結ばれ、小アジアのギリシア植民市の独立が承認され、ペルシア戦争は正式に終焉を迎えました。

ジョークは如何?

米同時多発テロの翌日、中国の首相がブッシュ大統領に電話をかけてお見舞いを言った。
「大変な悲劇でしたね。いろいろお困りでしょう。
 わが国にできることがあれば何でも言って下さい」
「はい、ありがとうございます」
「ブルドーザーが足りないなら、こちらにはたくさんあります」
「はい、ありがとうございます」
「ガレキを埋める場所がないなら、こちらには広い土地もあります」
「はい、ありがとうございます」
「ペンタゴンの機密書類が見つからないなら、こちらにはコピーもあります」

続く・・・


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