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2014/04/22

歴史を歩く8

<ギリシア世界その4>

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(3)ポリスの発展(その③)

 ペルシア戦争はギリシア的なヨーロッパとアジアとが衝突し、ギリシア的自由市民国家がオリエント的専制国家に対して勝利し、以後のギリシアのみならず、後世のヨーロッパの歴史にも大きな影響を及ぼす出来事でした。

 第3次ペルシア戦争後も、ペルシア再来の可能性は依然として存在しており、この様な状況の中で、従来のスパルタに替わって「ギリシア連合」の中心と成ったアテネを盟主として、紀元前477年にデロス同盟が結成され、エーゲ海周辺の数百のポリスが加わります。
参加したポリスには、ペルシアの脅威に対抗する為の軍船・兵員を提供するか若しくは、軍事費捻出の為、貢租を納める義務を課せられました。
この同盟資金は、最初はエーゲ海の小島デロスに置かれましたが、紀元前454年に同盟の金庫がアテネに移され、資金がアテネ財政に流用されるようになり、アテネは盟主として他の同盟国を支配下に置き、以後アテネは事実上の「アテネ帝国」として繁栄していく事に成ります。

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 サラミスの海戦で活躍した無産市民は、自分達がギリシアの自由を守ったと(当然)主張し、政治的権利の要求を強めて行きます。
この様な状況の中で、紀元前462年に、母はクレイステネスの姪であり富裕な名門出身のペリクレス(紀元前495年頃~紀元前429年)が一種のクーデターにより、元老院から実権を奪取し、政治・司法における実権を五百人評議会、民会、民衆裁判所に委ねました。

 特に民会が政策決定の最高機関として、民衆裁判所が最高の司法機関としての力を持つように成りましたが、結果的にアルコン(最高官職、執政官、任期1年)の権威は失墜し、任期は1年のまま重任、再任が認められていた将軍職の地位が極めて高くなり、その様な背景の中15年間連続で将軍職に重任したペリクレスが台頭し、紀元前443年に保守派の中心人物が陶片追放で退けられると、「名目上は民主政、事実は独裁」と称された、ペリクレス時代(紀元前443年~紀元前429年)が現出しました。
このペリクレス時代にアテネ民主主義が完成したと云っても良いと思います。

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ペリクレスの演説

 国家の最高決定機関は民会で、民会は500人評議会が提案した議案のみを審議しました。
民会には成年男子市民であれば誰でも出席し、自由に発言ができ、民会への出席者には日当が支給されました。
民会は年に40回位開催されましたが、出席率等不明な部分も多く、又将軍・財務官等の一部官職を除いて、一般官職が市民に開放され、抽選で決められたのです。
官職抽選制も古代ギリシアの民主主義の特色で、この様に庶民迄が役人と成る課程に於いて、官職就任時には、報酬が支給されるように成りました。

 これ等諸制度を現代民主主義と比較すると、幾つかの相違点が存在します。

1)現代の間接民主制に 対して直接民主制である事。
2)成年男子市民による民主制で在って、女性には参政権が無かった事。
3)民主主義に最も相反する奴隷制の上に成立した民主主義である事。
4)官職抽選制が取り入れられた事。
5)政党が存在しない事。

 ペリクレスは、市民の日当を公金から支払う政策を取って市民の歓心をかい、その資金はデロス同盟の資金を流用し、同じくデロス同盟の資金でアテネ海軍の増強にも務めました。
対外的には、ペルシアとスパルタを同時に敵にまわす事の不利を悟り、紀元前449年にはペルシアと「カリアスの和約」を結び、紀元前446年にはスパルタと30年間の和約を結びます。
又ペルシア戦争の際、破壊された神殿の跡にパルテノン神殿を再興し(紀元前447年着工~紀元前432年完成)、文化を奨励し、アテネの全盛期を築いた反面、晩年には専横な行動も多かったと伝えられ、嫡子2人をペストで失い、自らもペスト患い他界します。

(4)奴隷制度

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市民生活(この中に何れ程の奴隷階級が居るのか?)

 奴隷制は古代社会では、普通に存在する制度形態ですが、ギリシアのポリス社会は、古代ローマと共に、世界史上最も奴隷制が発達した社会でも在りました。
奴隷とは、他人への隷属性が最も強い人間であり、人格が認められず、所有者の意のままに労働を強制され、譲渡・売買された人々です。
一般的に、その発生の原因は、戦争捕虜・略奪・世襲・債務の不払い等ですが、ギリシアでも債務の為に転落した市民の他、捕虜、奴隷として輸入された異民族が奴隷として売買されたのでした。

 アテネには、人口の約3分の1に相当する約8万人の奴隷が存在したと考えられています。
その多くは異民族の奴隷であり、その中で債務奴隷はソロンの立法以後は禁止されました。
アテネの場合、奴隷の多くは召し使い等の家内奴隷ですが、 銀山(ラウレイオン銀山等)をはじめ鉱山でも大量の奴隷が使用され、その生活は最も悲惨を極めました。
又陶器の製造をはじめとする手工業でも奴隷が労働力となり、市民の生活を支えたのでした。
スパルタでは被征服民が奴隷とされ、ヘロット(ヘイロタイ)と呼ばれ、農業労働に従事しています。

 有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・ 奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから。・・・」と述べています。
当時のギリシアでは奴隷制度はその経済基盤上必要不可欠な制度であり、大学者で在ってもその存在に疑問の余地を挟む問題では無かったのです。

(5)ポリス社会の没落(その①)

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 アテネは、デロス同盟の盟主として、その地位は強化され、紀元前449年のペルシアとの和約によって存在理由が無意味と成ったデロス同盟の加盟ポリスから、貢租金を取り立て、その財源をアテネの為に流用し、又アテネの民主制を加盟ポリスに強要する等、種々の干渉、強制を加え、反乱に対しては武力で弾圧を行いました。
ペリクレス時代のアテネは、当に「アテネ帝国」として、エーゲ海周辺に確固たる覇権を確立した時代でした。

 当然ながら、このアテネの繁栄を快く思ってなかったのがスパルタです。
スパルタはその強力な武力を背景に、紀元前6世紀末迄に、ペロポネソス半島一帯の諸ポリスから成るペロポネソス同盟の盟主となり、ギリシア随一の強力なポリスと自他ともに認められる存在に成っていました。

 スパルタは、少数のスパルタ人が多数のペリオイコイやヘロットを支配している貴族政のポリスで、従い他のポリスの貴族政や寡頭政を支持していました。
アテネのような民主政治を導入する事は、スパルタの崩壊につながると考え、民主派を弾圧こそが国是で在り、アテネが興隆し、その影響が周辺に広まることはスパルタにとって当に政治的脅威でした。
その意味でも、いずれ両陣営間の激突は避けられないことも当然の成り行きでした。
その様な中、紀元前446年に30年間の和約が結ばれますが、約15年で条約は破綻し、ギリシア世界を二分する、ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)が勃発することになります。

 紀元前431年3月、スパルタ側のテーベ軍がアテネ側のプラタイアに侵入しました。
この事件は以後27年間に及ぶペロポネソス戦争の発端と成り、スパルタはペロポネソス同盟軍を動員して、アッティカ(中部ギリシア東部のエーゲ゙海面した半島部、アテネはこのアッティカ地方に位置)に侵入し、耕地を破壊します。

 当時、ペロポネソス同盟側の兵力は、約5万人の重装歩兵とそれを上回る軽装歩兵、約100隻の三段櫂船であり、対するデロス同盟側は 約3万人の重装歩兵、数千の軽装歩兵、約300隻の三段櫂船を持ち、陸軍ではペロポネソス同盟に劣るものの、海軍力では圧倒的な戦力を有していました。
当然ながらペリクレスは陸戦を避け、海戦に持ちこむ作戦を展開し、アッティカの田園地方を放棄して、籠城戦術を選択します。
ペリクレスは艦隊をペロポネソス半島に出動させますが、スパルタ軍は耕地並びに周辺村落を破壊するに留まり、第1年目はアテネ側がやや優勢のうちに集結します。

 翌年の紀元前430年、アテネでは戦死者の国葬が営まれ、ペリクレスが有名な葬礼演説を行ったのですが、そのなかで、民主政治、自由、勇気、理性等「ギリシアの模範」としてのアテネが優越する 点を列挙して、次のように言っています。

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。人の理想を追うのではなく、人をして我範を習しめるものである。その名は、少数者の独占を廃し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と 呼ばれる。」

 紀元前430年、スパルタは再度アッティカに侵入、40日間に及ぶ破壊行為を行います。
この侵入の直後アテネに、ペストが大流行します。
ペストはアテネの外港ピレウスで発生し、すぐ様アテネに飛び火しました。
当時のアテネは過密で、不衛生な籠城生活であることが災いし、この恐ろしい疫病は非常な勢いで広まり、2年間で全人口の3分の1を死に追いやります。

 現在、ペストは地球上からほぼ消滅しましたが、歴史的には20世紀初頭迄何度も大流行し、多くの人々の命を奪いました。
主な症状は、高熱、激しい嘔吐、下痢、腫物で、大多数は発病後 7日から9日目で死亡します。
幸い一命を取りとめた者も、末端部の機能喪失、盲目、健忘症に悩まされました。
死体は街路にも神殿にも積み重ねられ、その死肉を食べた鳥獣も同じ運命を辿ったのです。
人々は自暴自棄に陥り、ペリクレスに非難が集中し、彼は罷免され、紀元前429年に再び将軍に選任されますが、彼自身ペストに罹災し、この年に亡くなります。
ペストは紀元前430年~紀元前429年に猛威をふるい、一時は沈静化の兆しが見えたものの、紀元前427年に再度の流行が発生し、紀元前426年迄続く災難と成りました。

(5)ポリス社会の没落(その②)

 ペリクレス亡き後のアテネの政治を導いたのは、所謂デマゴーグ達でした。
このデマゴークの意味は本来「民衆を指導する者」なのですが、一般には「煽動政治家」と説明されており、民衆に迎合してこれを煽動し、土地や戦利品獲得の夢を煽り、貧しい民衆達の好戦機運を盛り上げることによって、彼等の支持を得ることで政権を維持しようとした人々を指します。
今日の「デマ」と言う単語は、このデマゴークから派生した言葉です。
民主政治は当に衆愚政治へと堕落して行いきました。

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 紀元前426年、アテネ軍はピロスを占領し、スパルタ軍を包囲しました。
その為スパルタは現状維持を条件に和平を申し入れたのですが、有名なデマゴーグのクレオン(皮なめし業者)は、この和平提案に強硬に反対を唱え、法外な要求を繰り返し、更なる戦争による利益を要求する民衆を煽動し、交渉を決裂させ、和平の好機を逃がしてしまいます。

 その後、スパルタはトラキアに出兵し、同地の諸都市をアテネから離反する様画策した結果、紀元前422年、クレオンはトラキアに派兵を行うものの大敗を喫し、自らも戦死します。
その現実を受けて、アテネでもようやく和平の機運が強まり、紀元前421年、双方占領地を返還する条件で「ニキアスの和約」が締結されました。

 ニキアスはクレオン亡き後の最も有力な政治家であり、銀山の採掘を営み、千人の奴隷を所有する富豪でした。
彼はスパルタとの和平を続ける努力を継続するのですが この様な状況のなかで、アルキビアデスが急速に頭角を現してきます。
彼も又富裕な名門出身で、後見人であるペリクレス家で育てられ、ソクラテスに愛された、美貌、才気煥発の人物でした。
紀元前420年、30才の時に将軍に選ばれた彼はニキアスと対立し、ニキアスの和平主義に対して、スパルタの仇敵アルゴスと同盟し、紀元前418年にスパルタと交戦し大敗を喫します。

 この頃、シチリア島のアテネの同盟国がアテネに救援を求めていました。
アルキビアデスは第1人者となる絶好のチャンスと考え、大衆はその勇ましい計画に魅せられ、空前の大遠征が決議され、アルキビアデスとニキアスが指揮官に抜擢され、紀元前415年60隻の三段櫂船を含む100隻の大船隊と約6000人の歩兵からなる大遠征隊が出陣しました。
ところがシチリア到着後、アルキビアデスにたいする本国への召喚命令が届けられ、彼はその召喚の途上、脱出し、寝返る様にスパルタへ逃亡します。

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 シチリア遠征軍は、シラクサを包囲しますが、スパルタからの増援軍到着によって、アテネ側包囲軍は次第に劣勢に陥り、紀元前413年の陸戦で惨敗を喫し、撤退を余儀なくされるものの、退路を封鎖され、その封鎖突破試みた海戦でも敗れ、約4万人の退却は悲惨を極めました。
約7千人が戦争捕虜となり、更に多くの将兵が病気や飢えで死んでいきました。
アテネはこの遠征で莫大な艦隊と兵員を失い、資金面でも大打撃を被ったのです。

 シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスが次々とアテネから離反し、スパルタと結んだ結果、以後小アジアをめぐる攻防戦は続くのですが、スパルタはペルシアと同盟を結び、度重なる海戦を繰り返し、紀元前405年最後の海戦に敗れたアテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年紀元前404年にアテネは終に降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの勝利で幕を降ろしました。

 ギリシアの覇者となったスパルタは、各国に監督官と守備隊を派遣し、寡頭政を強要しますが、鎖国政策を放棄した影響がすぐに現れ、貨幣経済が普及し、市民間に貧富の差が生じてきます。
スパルタの覇権奪取を巡って、アテネ、テーベ、アルゴス、コリントが同盟してコリント戦争(紀元前395年~紀元前386年)が勃発します。
その背後にはペルシアの策謀が存在し、ペルシアはスパルタが強大になることに大いなる警戒心を持ち、ギリシアに分裂・抗争を起こさせることを狙い、アテネその他のポリスを経済的に援助し、ギリシアの政局を左右したのでした。

この頃テーベが急速に勃興してきます。
テーベは、アテネの北方ボイオティア地方に位置し、早くからギリシア中部の中心ポリスでしたが、 ペロポネソス戦争ではアテネ攻撃の先鋒と成りました。
しかし、戦後はスパルタと対立し、紀元前4世紀前半にエパメイノンダス(エパミノンダス)(?~紀元前362年)指導のもとで国力を充実させ、紀元前371年のレウクトラの戦いで、エパメイノンダスの考案した斜線陣戦法で、スパルタに対して決定的な勝利を得ることが出来ました。

 これによってギリシアの覇権はスパルタからテーベに移つり、 エパメイノンダスはスパルタに対抗して諸ポリスの解放に努めますが、紀元前362年にスパルタとの戦いで戦死し、テーベの覇権も、 彼の戦死と共に急速に失われ、以後ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り、ギリシア世界全体が衰退していきました。

 この頃、北方ではマケドニアが勃興し、その王フィリッポス2世 (紀元位前359年~紀元前336年)が、ギリシアに侵入します。
アテネとテーベは連合して、紀元前338年カイロネイアの戦いに敗れ、全ギリシアはマケドニアの支配下に置かれることと成りました。

ジョークは如何?

ソビエトの収容所で三人の元労働者が何故捕まったのかを話していた。
「俺は一分遅れただけでぶち込まれたんだ。職務怠慢で。」
「俺なんか一分早かったんでぶち込まれたんだ。スパイ容疑で。」
「お前らはまだましさ。俺なんか時間きっかりに着いてぶち込まれたんだ。
西側製の時計を持っている容疑で。」

続く・・・

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