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2014/05/06

歴史を歩く12

<ヘレニズム世界その①> 

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(1)ヘレニズム時代

 ヘレニズムに意味は、広義と狭義の2義に使われます。
広義にはヘブライズムと共に、ヨーロッパ文明の二大基調であるギリシア精神を意味し、狭義には純粋のヘレネス文化に区別される紀元前4世紀末以後の文化を指し、政治的にヘレニズム時代という場合は、紀元前334年から紀元前30年の約300年間を指します。
狭義のヘレニズムは、ドイツの歴史家ドロイゼン(1808年~84年)が、新しい時代と文化に意義を見だして以来普及しました。

 ギリシアのポリス社会が衰退に向かっていた頃、ギリシア北方でマケドニアが勃興します。
マケドニア人は、紀元前12世紀頃、この地に侵入したドーリア人の一派で、当初部族的な原始王政の形態を取っていましたが、ギリシア世界と交渉を持つに至ったのは、ペルシア戦争の頃からとされています。

 紀元前359年に即位したフィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)は、15才から3年間テーベで人質としての生活を強いられますが、その間エパメイノンダスの斜線陣戦法を学びました。
帰国後、摂政を経て王位に就き、エパメイノンダスの斜線陣戦法を採用し、農民による長槍歩兵のファランクス(密集隊形、古代ギリシアの隊形で、重装歩兵を横長の長方形に密に並べる兵法)を完成し、巧みな外交政策によりマケドニアを強国にすると友にギリシア・ポリスの抗争に介入しました。

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長槍歩兵・ファランクス

 当時、アテネではイソクラテス(紀元前436年~紀元前338年)が、ペルシア征討の為ポリス統一をフィリッポス2世に期待したのですが、これに対してデモステネス(紀元前384年~紀元前322年 )は、フィリッポス2世を弾劾する反マケドニア演説を行い、マケドニアがギリシア世界に於けるポリスの自由にとって脅威である事を力説し、彼はテーベに赴き、同盟を作りあげます。

 この状況を見定めたフィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を率いてギリシアに侵攻、紀元前338年カイロネイアの戦いで約3万5千のアテネ・テーベ連合軍を撃破し、この戦果を背景にフィリッポス2世は紀元前337年ヘラス同盟を成立させ、自らその盟主となり、全ギリシアを統一したのでした。
続いて対ペルシア攻略準備を進めている最中、娘の結婚式の場で部下に暗殺されます。

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カイロネアの戦い

 父王暗殺後、20才で王位に就いた人物がアレクサンドロス3世(大王)(紀元前356年~紀元前323年、在位紀元前336年~紀元前323年)です。
彼は、父王の暗殺直後に国内の反対勢力を平定し、動揺したギリシア諸市の反乱を鎮め、テーベを徹底的に破壊し全市民を奴隷としました。
そしてヘラス同盟の盟主として、紀元前334年に父王の遺志を継いでペルシア遠征に出陣、この時のマケドニア・ギリシア連合軍の兵力は、騎兵5千・重装歩兵2万4千・補助部隊8千から成る計3万7千でした。

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アレクサンドロスⅢ世(大王)

 遠征軍はヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)を渡り、小アジア西岸から東方に進撃します。当時、アケメネス朝ペルシアは、克つて繁栄は失われていましたが、其れでも尚老大国として体面を保っており、その最後の王として紀元前336年に即位したダレイオス3世(在位紀元前336年~紀元前330年)は、小アジア防衛の為に約4万の軍を小アジア西北端に集結させました。
紀元前334年グラニコス川の戦いで、ペルシア軍を撃破したアレクサンドロス軍は、小アジア西岸を南下、サルデス、ミレトス等の諸都市を占領、小アジアを平定しながら其の東南に達します。

 ダレイオス3世はバビロンに軍団を終結させ、シリア北部に進出し、地中海東岸北部で両軍は激突します。
時に紀元前333年11月、有名なイッソスの戦いが繰り広げられます。
騎兵5千・歩兵4万からなるアレクサンドロス軍は、60万(明らかに誇張された数字、アレクサンドロスの軍より遥かに多い)のペルシア軍を破り、ダレイオス3世を敗走させ、母・妃・子を捕虜としました。
この戦いによって、メソポタミアへの進出の道が開かれたのですが、彼はシリアを南下し、フェニキア人の都市ティルスを攻略し、更に南下を続け紀元前332年にエジプトに達します。

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イッソスの戦い

 エジプト人はペルシアからの解放者としてアレクサンドロスを歓迎しました。
その地に半年滞在し、その間ナイル河口にティルスにかわる商港・軍港を建設し、自分の名に因んで アレクサンドリアと命名します(紀元前331)。

 北上を開始したアレクサンドロスは、新たな兵を遠征軍に加え、騎兵7千、歩兵4万の軍を率いて、いよいよペルシア中心部のメソポタミアへ 侵攻し、ダレイオス3世はこれを迎え打つベく、4万の騎兵、1万6千の重装・軽装歩兵と大鎌を備えた新式戦車200両、象15頭を準備し、ティグリス川の上流ガウガメラに進出しました。
紀元前331年10月1日、アルベラ (ガウガメラ)の戦いが始まります。
激戦の末、ペルシア軍が次第に不利となり、ダレイオス3世は戦車で敗走します。
アレクサンドロス軍は追撃に転じ、翌朝アルベラを占領したのですが、既にダレイオス3世はイラン高原に逃亡した後でした。

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ダレイオスⅢ世

 アレクサンドロスは直ちにバビロン、スーサに兵を進め、紀元前330年 ペルセポリスを占領、膨大な財宝を捕獲し、その壮大な王宮を焼き払い、彼はこの地に於いて東方遠征終了を宣言したのでした。
しかし、彼はダレイオス3世がエクバタナに逃れたことを知り、ペルセポリスから西北のエクバタナに進出しましたが、ダレイオス3世は逃亡した後でした。
既にペルシア帝国の首都・副首都をことごとく陥れ、ペルシア戦争の復讐戦としての遠征は目的を達した為、アレクサンドロスはエクバタナに入ると、ヘラス同盟軍を解散し、一部の部隊を本国に帰還させます。

 新しく編成された軍団は、マケドニア人中心ですが、彼ら自身も傭兵としての身分に留まり、更に各地の原住民を傭兵として採用しました。
こうして軍団を再編成して、残るペルシア帝国の領土征服と、逃げるダレイオス3世の後を追い、東に軍を進め、パルティアからバクトリア(中央アジア)に到達します。
しかし、ダレイオス3世はバクトリアのサトラップ(総督)に暗殺され、ついにアケメネス朝ペルシア帝国は紀元前330年に完全に滅亡しました。

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青年時代のアレクサンドロスとアリストテレス

 アレクサンドロスが次に目指した場所がインドでした。
若き日の大王は家庭教師であったアリストテレスからインドに関する知識を得ており、インド征服は彼の夢であったと言われています。
今や「アジアの王」と成ったアレクサンドロスにとって、彼の征服事業はインド征服なしには完成しないと考えていたのでした。

 紀元前327年初夏、アレクサンドロスは、マケドニア出陣時を上回る大軍を率いて、ヒンドゥークシ山脈を越え、西北インドのパンジャープ地方へ侵入、翌年の紀元前326年春、インダス川を渡り、更に東へ進み、雨季に悩まされ、反抗する諸部族の抵抗を受けながら、更にはガンジス川流域に進出しようとしていました。

 しかし、既に出発以来の行程は約1万8千km(地球の周囲が 約4万km )に及び、軍隊の疲弊は大きく、帰国を望む声は日増しに高まり、終に将兵はそれ以上の行軍を拒否したのです。
やむなく、軍団を水路と陸路に分け、紀元前326年11月インダス川を下り、両岸の抵抗部族を鎮圧しながら、インダス河口に紀元前325年の7月に到達、そこで季節風を待ち、9月スサへ向かいました。
彼自身は、約1万の軍隊を率いて陸路を進み、暑さ、飢え、砂に悩まされ、惨憺たる状態で西に進み、一方海路も、現地人の妨害、逆風、嵐、水と食料の不足に悩まされながら80日を要してペルシア湾に到達し、陸路、海路を進んだ軍団は、共に紀元前324年の春、スサへ到着したのです。

 スサでは、歴史に残る集団結婚式が行われます。
彼自身は、ダレイオス3世の娘スタテイラ(2世)を伴侶とし、マケドニア貴族約80人にペルシアの高貴な女性が割り当てられました。
紀元前323年初頭、彼はバビロンに帰還、次の地中海西部への遠征、アラビア半島の周航の準備に取り組むのですが、7月宴席での過剰な飲酒の翌日、熱病に襲われ、10日後の紀元前323年6月13日に32才で波乱の生涯を閉じました。

 アレクサンドロスは、大帝国にオリエント的専制君主として君臨しました。
彼は東方を統治する必要上、諸民族の文化や制度を尊重する融和政策が必要であることを心得ており、ペルシアの行政組織や儀礼を継承し、東西の民族・文化の融合を図りました。
前述の集団結婚式はその現われと言え、又自身の名を冠したアレクサンドリアを70余り建設し、ギリシア人の東方移住を進めたのです。
その結果、ギリシア文化とオリエント文化が融合し独特の文化が生まれた。
これがヘレニズム文化で在り、大王は金・銀貨を鋳造し結果、貨幣経済が普及し、東西貿易も活発となりました。

 アレクサンドロスの後継者となったのは、フィリッポス2世が下位の身分の女に生ませたフィリッポス3世、アレクサンドロスとソグディアナの豪族の娘との間に生まれた子供で、共治を行ったのですが、紀元前310年迄に王家は断絶、ディアドコイ(「後継者」)は自ら王を称し始めます。

ジョークは如何?

 毛沢東がルクセンブルクを訪れ、閣僚一人一人に挨拶をしていた。
毛沢東は国防長官の前に来て首を傾げた。「失礼ですが、どうしておたくのような小さな国にそんなポストがあるのですか??」
国防長官は答えた。「何をおっしゃるんです。あなたの国にも裁判所があるじゃないですか。」


続く・・・

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コメント

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アレクサンドロスⅢ世(大王)遠征

( ノ゚Д゚)こんにちは
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