2014/05/14

歴史を歩く14

<ローマ帝国その①>

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アエネイスよりトロイ落城

(1)共和政ローマ

 インド・ヨーロッパ語族に属するイタリア人は、ギリシア人とほぼ並行してイタリア半島に、2回に渡って南下しました。
第1回目は紀元前16世紀頃、第2目は紀元前11世紀頃、半島中部西側に定着して農業を営みます。
イタリア人の第2回南下でラティウム地方に定住した人々がラテン人と呼ばれ、彼らはイタリア半島の中央を流れるティベル川下流、ティベル川北岸を中心に少数の都市国家を建設しました。

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ロムルスとレムス

 ローマはラテン人がティベル河畔に建設した都市国家が起源となります。
ヴェルギリウス(紀元前70年~紀元前19年)が叙事詩「アエネイス」で建国伝説を唱い、その伝説によればトロヤの英雄アエネイス(アエネアス)がトロヤ落城後、 長い流浪を経てラティウムにローマ建国の基礎を築き、その子孫ロムルスは双子の兄弟レムスとティベル川に流されますが、牝狼に拾われ育てられ、後に協力して、紀元前753年にローマ市を建設、ローマ初代の王となり、39年間在位したと伝えています。

 ロムルスに続き7代の王が即位しますが、7代目の王は傲慢で、貴族達の力によってローマから追放され、紀元前509年に共和政が打ち立てられたと伝えられています。

 エトルリア人は古代イタリア北部に住んだ民族ですが、現在に到る迄その民族系統は不明です。
小アジアからイタリア半島に入り、彼らは早い段階から都市に分かれて定住し、12の都市国家が分立していました。
紀元前7世紀から紀元前6世紀頃に最盛期を迎え、イタリア半島南部のギリシア植民地を除けば、最も進んだ文化を持った民族でしたが、紀元前5世紀以後衰退が著しく、紀元前3世紀にローマに征服されます。
しかし、その芸術・宗教・習俗はローマに大きな影響を及ぼしたのでした。

 王政時代のローマもエトルリア人の支配下に置かれ、7人の王の最後の3代はエトルリア人と考えられています。
紀元前509年に王政を廃止し、共和政を樹立したと伝えられていますが、この出来事はエトルリア人の支配から解放され、貴族共和政を樹立したことを意味しています。

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エトルリアの壁画より風俗

 貴族共和政のもとでは、貴族が重要な官職を独占し、当時のローマではパトリキ(貴族、名門)とプレブス(平民、中小農民)の二つの身分差が明確でした。
2名のコンスル(執政官、統領と訳し、最高政務官、任期1年、無給)やディクタトル(独裁官、非常時に臨時に置かれ、元老院の提案でコンスルの1名が任命される。任期は半年で重任は認められない。)、そして 300人の元老院議員はすべて貴族から選ばれました。
元老院は最高の立法・諮問機関で、議員の任期は終身、定員は最初300人、後に600人(一時900人)で構成されました。

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元老院

 共和政が成立して間もない、紀元前494年に貴族に対する平民の不満が爆発し、平民達は団結してローマを退去し、北方の聖山と呼ばれた丘に籠城、ローマとは別に自分達の国(都市)を創ろうとしました。
之が聖山事件で、平民の強硬な態度に対して、平民を国家の中に留めて置く為に貴族達は譲歩し、護民官の設置を認めたと言われています。

 護民官は平民の生命・財産を守る為に生まれた官職であり、平民会の投票で選出されました。
任期は1年、定員は当初2名、紀元前449年以降は10名に増員されます。
身体は神聖不可侵でコンスルや元老院の決定に拒否権を行使する権限を持ち、その権限が拒否権に留まったとは言え、平民の権利伸長に果たした役割は大きなものでした。

 護民官の設置を認めさせた平民が次に要求したのは、成文法の制定でした。
従来パトリキ(貴族)とプレブス(平民)間の身分的差別が厳しく、法知識もパトリキが独占していたのに対し、プレブスは平等を求めてパトリキと論争を繰り返し、紀元前450年頃従来の慣習法を成文化したローマ最初の成文法である十二表法を制定させました。
内容は私権の保証、強大な家父長権、身分差別等原始法的色彩が強いものですが、成文法を公布させたことはプレブスにとって大きな勝利でした。

 ケルト人はインド・ヨーロッパ語族に属し、紀元前10世紀~紀元前8世紀頃に原住地のライン・エルベ・ドナウ川を離れ、紀元前5世紀~紀元残4世紀にはガリア(現フランス)、ブリタニア(現イギリス)に広まり、紀元前3世紀には小アジアにも侵入します。
鉄製武器を使用し、好戦的で中央ヨーロッパでは最も有力な民族でしたが、ガリアは紀元前1世紀に、ブリタニアは紀元後1世紀にローマに征服され、ケルト人は21世紀の現在では、アイルランドに於いて民族独立を保っていますが、イギリス・ウェールズ地方、フランス・ブルターニュ地方にも分布しています。

 ケルト人によるローマの劫掠後の貧しい農民の没落、ローマが獲得した公有地を貴族の有力者が勝手に占有する問題等多くの弊害が生じ、こうした状況のなかでプレブスの間から、単にパトリキの施政に反対するのではなく、プレブスのなかからコンスルを選出する運動が、紀元前370年頃から激しさを増してきます。

 護民官のリキニウス(紀元前376年~紀元前367年)とセクスティウス(紀元前376年~紀元前367年)がこの運動の先頭に立ち、パトリキの激しい抵抗を排除して、紀元前367年にリキニウス・ セクスティウス法を成立させ、終にコンスル職のうち一人はプレブスから選出することを認めさせ、又同法によって、一人の占有地は500ユゲラ(約125ha)以下とし、そこに放牧される家畜は牛・馬は100頭まで、羊・山羊なら500頭に限ると定められました。
コンスル職が平民に開放された後、ディクタトル(独裁官)・ 法務官・神官職にも平民が就けるようになり、紀元前300年迄には官職上での身分差は完全に撤廃されました。

 最後迄残った問題が、平民会の決議の取り扱いで在り、当時ローマは近隣ラテン人のラティウム諸都市と戦い(紀元前340年~紀元前338年)、東南方のサムニウム人と3回にわたるサムニウム戦争(紀元前343年~紀元前290年)にも苦戦しながら、これに勝ち有名な軍用道路であるアッピア街道の建設(紀元前312年)等が相次いでいたものの、一方で中小農民の負債問題(征服戦争に駆り出され、武器・武具・遠征費の負担が重くなり、借金が支払えず、奴隷に転落する物が多かった )から貴族・平民の対立が激化していました。
プレブスはティベル川対岸のヤニクルム丘に拠ってローマからの分離も視野に入れた行動を起こします。

 この危機を乗り切る為にディクタトルに選出されたのが、プレブス出身のホルテンシウス(生没年不明 )で、彼は有名なホルテンシウス法(紀元前287年)を成立させました。
ホルテンシウス法は「平民会の決議を元老院の承認が無くとも国法とする」と言う内容で、貴族と平民は法的に完全に平等と成りました。
この身分闘争で貴族が譲歩したのは、当時最終段階を迎えていた半島の征服戦争で重装歩兵として活躍した平民の協力が必要としたからに他成りません。

ジョークは如何?

金正日が街外れを散歩している最中にちょうど八百屋を通りかかった。
八百屋の親父は将軍様の突然の訪問に感激して言った。
「ようこそおこしいただきました将軍様。
 どうか好きな野菜を選んで持っていってください。もちろんお代はいりません」

金正日は気をよくして店に入っていったが、数分後カンカンになって出てきた。
「どういうことだ同志? この店にはまったく売り物がないじゃないか!
 あるといえば、腐ったジャガイモが1つだけだ! これでどうやって選べって言うんだ!!」

八百屋は金正日の剣幕に驚きながら言った。

「ちょうど、選挙のように」

続く・・・


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