2014/05/18

歴史を歩く15

<ローマ帝国その②>

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(2)ローマの発展と内乱(その1)

 ローマのイタリア半島征服に最後の抵抗をみせた地域が、南イタリアのギリシア人植民市タレントゥムでした。
タレントゥムは紀元前8世紀スパルタ人の植民市として建設され、紀元前5世紀から紀元前4世紀にマグナ・グレキア(ラテン語で大ギリシアの意味、南イタリアのギリシア植民市群を指す)の中心都市として繁栄しました。
そのタレントゥムがギリシアのエピルス王ピロスの援助を得てローマと戦い、紀元前272年に敗北しローマの支配下に置かれます。
これによってローマの100年以上に渡る、イタリア半島統一が終焉を迎えました。

 ローマが短期間にイタリア半島征服に成功した理由は、訓練された重装歩兵、軍道建設、要所に植民市を設置したこと等も在りますが、最大の理由はローマ以外の都市、部族に対する統治政策が賢明・巧妙であったことです。
市民権賦与について寛大であり、また「分割統治」と呼ばれるように100以上の「同盟者」(ローマに服属した都市、部族 )の待遇に格差を設け、団結して反抗することを防いだ巧みな統治方法を選択しました。

 イタリア半島を統一したローマは西地中海の覇権をめぐりカルタゴと勢力逃走を行うことになります。
これが三回に及ぶポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)です。

 カルタゴは現在のチュニス近郊に位置したフェニキア人の植民市で、紀元前9世紀頃ティルスによって建設され、紀元前6世紀に西地中海の商業権を掌握、シチリア・ サルディニア・イスパニアにも進出し、紀元前5世紀~紀元前4世紀にはシチリアをめぐってギリシアと激しく争いました。
ポエニとはラテン語でフェニキア人を意味します。

 当時のシチリア島はカルタゴが西半分を勢力範囲に治め、東半分にはギリシア人勢力がシラクサを中心に残存していました。
そのシチリア島東北部のメッサナを拠点としていた傭兵隊のマメルス隊に対して、シラクサのヒエロンがカルタゴと結んで討伐を行い、その結果として、マメルス隊はローマに救援を求め、ポエニ戦争勃発の引き金になりました。

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 第1時ポエニ戦争(紀元前264年)でローマは艦隊を派遣し、カルタゴが宣戦を布告して戦いが始まります。
シチリア島をめぐる戦いでは、ローマはカルタゴの拠点のアグリジェントを陥落させ、シチリア全土を支配下に置きますが、カルタゴは地中海西部では無敵を誇る五段櫂船120隻から成る海軍を擁し、ローマ軍に相対します。
この為 決定的勝利を得るにはカルタゴ本国を攻撃しなければならず、その為には海軍の存在が不可欠と成り、軍船の建造を開始し、紀元前260年春迄に120隻の艦隊を編成しました。

 当時の海戦は、ギリシア時代と変わらず船首に装着された衝角(ラム)を、相手の船に突入させて沈没させる戦法が中心に成っていたのですが、急造のローマ軍船には、船首に跳ね橋(桟橋)が装備され、強力な鉄の鉤が装備されていました。
相手の船に接近した時、跳ね橋を降ろし、鉄の鉤で繋ぎ止め、敵の甲板に乗り移り、陸上の戦闘と変わらない白兵戦を計画していたのです。
紀元前260年シチリア島東北沖のミレ岬海戦で、その新戦法は効果をあげ、敵船の半分に相当する約50隻を撃沈・拿捕する大勝利を得て、一躍ローマは海軍国に成りました。

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 その後、ローマは直接カルタゴ本国を攻撃しますが、その反撃は凄まじく、シチリア攻防戦も熾烈を極めるのですが、紀元前241年終にカルタゴ海軍は壊滅し講和条約が結ばれ、第1次ポエニ戦争は集結しました。
この結果ローマは、シチリア・サルディニア・コルシカ島を獲得し、巨額な賠償金を課し、20年賦とします。



 第2次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)ハミルカル・バルカスは第1次ポエニ戦争後半からカルタゴ軍の指揮を執るもののローマに敗れます。
彼は紀元前236年に部隊を率いてカルタゴを出兵、北アフリカを西進し、北上してスペインに入り、紀元前228年に亡くなる迄スペイン経営に専念しました。

 その父の後を継いだのが、名将ハンニバル(紀元前247/246年~紀元前183年)で、紀元前221年、26才のハンニバルは全スペイン軍の指揮官に就任、紀元前219年、スペインに在ったローマの同盟都市を包囲陥落させますが、この戦闘が第2次ポエニ戦争の発端と成りました。

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 イタリア遠征の準備を整え、紀元前218年春、歩兵9万、騎兵1万2千、アフリカ象37頭を率いて陸路イタリアに向い、ピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、8月から9月に有名なアルプス越えを行いました。
しかし、9月に入ってから雪も降り初め、道に迷う者、谷に転落する者も続出し、9月半ば北イタリアの平原に達した時点での兵力は歩兵5万、騎兵9千と大きく兵力を失っていました。

 北イタリアに侵入したハンニバル軍は南下を開始し、ローマ帝国の勢力圏にせまりますが、ローマを中心とするイタリア同盟都市の固い結束から、アペニン山脈を越えて南下しカンネーを奪取します。ローマ軍もハンニバル軍の侵攻を阻止する為、歩兵8万、騎兵6千を配置しますが、対するハンニバル軍は歩兵4万、騎兵1万の戦力でした。
カンネーの戦い(紀元前216年)は、ハンニバル軍の大勝利に終わり、ローマ軍の戦死者は7万人に達します。

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 ハンニバルは更にカプア(ナポリの北)に侵攻、そこに本営を置きました。
カンネーの戦いに敗れたローマは、中・北部のイタリア諸都市が依然として忠誠を誓う中で、軍の再建に努力を払い、紀元前215年には逆にハンニバル軍とカプアを包囲、一方ハンニバル軍は、彼を支援すべきカルタゴ本国が動かず兵力・兵器の補充が不可能に成り、スペインから援軍を率いてイタリアに向かった弟もスキピオ軍に完敗して戦死(紀元前207年)し、同盟していたマケドニア軍も来援せず、イタリアの戦闘は膠着状態に陥るなかで、戦いは次第にシチリア、スペインにも拡大していきました。

 この時スペイン遠征の指揮を自ら志願した人物が、スキピオ(大アフリカヌス紀元前236年~紀元前184年)で、彼はカンネーの戦いで辛うじて死を免れた後、紀元前210年にスペイン遠征を行い、 紀元前206年迄にスペインは完全にローマ領となりました。
スペインから帰国した彼は、紀元前205年コンスルに就任、元老院の反対を押し切ってカルタゴ遠征に踏み切ります。

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 紀元前205年シチリアで艦隊を準備し、遠征軍を整備、紀元前204年、彼はアフリカに向かい、カルタゴ近郊に上陸、カルタゴ軍を撃破します。
カルタゴ本国はハンニバルを急遽イタリアから呼び返し、直ちにハンニバルは北アフリカに上陸、西進、紀元前202年春、ザマの戦いが始まりました。
両軍の死闘末、騎兵の活躍でローマ軍が勝利を得て、ハンニバル戦争と呼ばれた第2次ポエニ戦争はようやく終結、この結果カルタゴは一切の海外領土を喪失し、以後50年間の賠償金を課せられ、北アフリカ 以外では戦闘行為を行わないこと、アフリカでの戦闘行為もローマの許可を必要とすることと成りました。

 ハンニバルは、敗戦後国政改革に当たりますが、親ローマ派の政敵に陥れられ、シリアに亡命(紀元前196年)、更にローマの追求を逃れて小アジアへ逃れ、ローマの身柄引き渡し要求もあり、終に自決します。

 第3次ポエニ戦争(紀元前149年~紀元前146年)は、第2次ポエニ戦争敗戦後もカルタゴの経済力は衰えず、50年賦の賠償金を10年で一度に支払い、この様なカルタゴの潜在力に対してローマのなかでは、「カルタゴを滅ぼすべし」の声も高まった中で発生します。
この頃、カルタゴは西隣りのヌミディア王の侵入に悩まされていました。
紀元前150年にカルタゴは、終にヌミディア対して開戦したのですが、これは「アフリカでの戦闘行為もローマの許可を必要とする」という規約に違反するものでした。
翌年のローマの宣戦に対してカルタゴは和議を求め、ローマ軍は無抵抗のうちに上陸し、武装解除を行い、更に全住民の立ち退きと内地移住を命じたのでした。
その結果カルタゴは抗戦に踏み切り、ゲリラ戦でローマ軍を悩ませることに成ります。

 こうした状況の中でスキピオ(小アフリカヌス紀元前185年~紀元前129年)が登場します。
彼は大アフリカヌスの長男の養子で、紀元前147年、若くしてコンスルに就任、カルタゴ遠征軍を率いて、紀元前146年カルタゴを陥落させ、カルタゴの町は徹底的に破壊された上、17日間にわたって焼き払われ、捕虜は奴隷として売却され、カルタゴは終に滅亡します。

 このカルタゴが滅びた年に、他のギリシア都市が衰退していくなかで繁栄を続けていたコリントがローマに反旗を翻しますが敗北、コリントの町は徹底的に破壊され、婦女子は奴隷として売られ、ギリシアはローマの支配下に置かれました。

ジョークは如何?

ミュンヘン会談でチェコの領有権を見事に手にしたヒトラーが会談後チェンバレンにこう話しかけた。
「チェンバレン殿、この度の会談の成功を祝ってひとつ記念にあなたの山高帽を頂きたいのだが、どうだろうか?」
「とんでもない。だめです。」
 とりつくしまもない返事にヒトラーは機嫌を損ね声を荒げた。
「私は断固要求する!」
「・・・困ったな、この山高帽はチェコと違って私の物なのですよ。」


続く・・・

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コメント

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トロイの木馬は子の時期かな

( ^^)/ (^_^)/おはよー
何時もありがとう(((o(*゚▽゚*)o)))
今日は晴れです(✿◡‿◡)
✾(。◠‿◠。✿)今日はお風呂へ行きます
(^^)>今日もよろしくお願いします

No title

タレントゥムは第二次世界大戦でイタリア海軍の拠点だったタラントのことですかね。
ローマ時代の歴史は疎いので、勉強になりました。
テルマエ・ロマエを見てから、興味を持ちました。
カルタゴの軍船に使われていた釘の合金成分が、今の技術をもってしても再現できない・・・とかいう話も聞きました。
カルタゴの人々はかなり賢かったんですってね。