歴史を歩く16
<ローマ帝国その③>

奴隷市
(2)ローマの発展と内乱(その2)
第2次ポエニ戦争の勝利より、ローマは海外に広大な属州(プロウィンキア、一般的にはポエニ戦争以後にローマが獲得したイタリアの外の海外領土を指す )を獲得し、地中海支配が実現しました。ヒスパニア(スペイン紀元前197年)、3回にわたるマケドニア戦争でマケドニア(紀元前168年)、そして紀元前146年にカルタゴ、ギリシア、更に紀元前133年には小アジアを征服、属州として総督を派遣し直接支配しました。
この属州から安い穀物が大量に流入し、おびただしい安価な奴隷が流入したことは、ローマ社会に大きな影響を及ぼすこととなります。
最大の問題は中小土地所有農民の没落でした。
彼等は重装歩兵として征服戦争に永年にわたって従軍し、その負担と戦争による農地の荒廃の為、離農する者も多く、次第に窮乏の度を高めて行きます。
その為、これ迄ローマ発展を支えてきた重装歩兵を中心とするローマ軍の編成が維持出来なくなり、傭兵制に変わらざるを得なくなって行きました。
中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティフンディア (ラティフンディウム、広大な土地を意味するラテン語)の発展です。
ローマの発展に伴う占領地は国有地とされましたが、未分配の公有地は資力のある者から地代を徴収して占有を許可しました。
最初期は単に彼らの占有地であった土地が次第に私有地化され、大規模に果樹栽培や牧畜を経営するようになり、労働力として当時大量に安価に手に入れることができた奴隷を使用します。
この奴隷制大農場経営をラティフンディアと呼び、このラティフンディアの発展に伴って没落しつつあった中小農民の私有地は次々に買い占められ、これが中小土地所有農民の没落を一層促進して行きました。

奴隷商人
もう一つの大問題は、奴隷制度の問題です。
ローマがイタリア半島を統一し 地中海へと発展していくなかで、相つぐ戦勝は膨大で安価な奴隷を供給しました。
紀元前2世紀から紀元前1世紀は奴隷制の最盛期で在り、多くの奴隷が家内奴隷や手工業・鉱山労働、 大規模な農場での穀物・果樹栽培に使用されます。
奴隷反乱もしばしば発生し市民を脅かしましたが、特に紀元前135年シチリアの奴隷反乱は全島を巻き込む大反乱となりました。
紀元前3世紀頃から元老院を中心に政権を独占してきたのは、新貴族(ノビレス、ノビリタス)と呼ばれる人々で、新貴族は富裕なプレブス(平民)とパトリキ(貴族)の両身分の最上層部が融合し、最高官職(コンスルなど)に就任した者の直系の子孫で形成され、少数の家柄の者が主要な官職を独占します。
彼らは、政治的決定は元老院によってなされるべきだと考え、閥族(オプティマテス)と呼ばれ閥族派を形成し、貴族中心の元老院支配を守ろうとしました。
ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済的には第一の勢力となったのが騎士(エクィテス)階級です。
彼らは元来、騎乗で戦う騎兵の身分であり、従ってある程度富裕な階級ですが、ローマの属州が増えるに従い、元老院議員が商業に従事することを禁止されているのに乗じて、商業・貿易・公共事業の請負、特に属州における徴税請負によって財を成し、一部は政治家、元老院議員など政界に進出して行きます。
一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地を放浪、ローマに流れこみ、「パンとサーカス(見世物)」を要求しました。
又遊民とならず有力者の傭兵となり、一部はラティフンディアの小作人になっていきます。
こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守ると口実のもとに貧困者の支持を得て、民会の多数決によって政治が成れるべきだと唱え、民会を足がかりに政権を握ろうとする政治家、及びそのグループが現れ、彼らは平民派(ポプラレス)と呼ばれます。
ローマでは平民の間にも貧富の差が拡大し、そのなかで閥族派と平民派の争いが激しくなって行き、ローマの危機、「内乱の一世紀」(紀元前133年~紀元前30年)に、没落していく中小土地所有農民を何とか救済し、もう一度嘗ての重装歩兵である平民を中心とする社会を再建しようと努力した人物がグラックス兄弟でした。

グラックス兄弟
兄、ティベリウス・グラックス(紀元前162年頃~紀元前132年)は、政治家・将軍の父とスキピオ(大アフリカヌス)の娘を母として生まれ、若い頃軍務に就いた後、中小農民の没落・貧民化が大問題になってきた頃の紀元前133年に護民官に選ばれました。
彼は、リキニウス・セクステイウス法を復活させ大土地所有を125haに制限し、制限以上の占有地を取り上げて土地のない市民に分ける土地法案を成立させ、自ら土地分配委員の一人となり、実行に移します。
しかし、土地問題などで 元老院と対立し、その上政策をやり遂げる為、伝統を無視して護民官の再選を企てた結果、翌年暗殺(撲殺)され、遺体はティベル川に投げ込まれました。
彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を食む野獣でさえ、 洞窟を持ち、それぞれ自分の寝座とし、また隠処としているのに、イタリアの為に戦い、そして斃れる人たちには、空気と光の他何も与えられず、彼らは、家もなく落着く先もなく、妻や子供を連れて彷徨っている。・・・」と論じました。
弟、ガイウス・グラックス(紀元前153年頃~紀元前121年)は、兄と共に土地分配委員と成りましたが、兄は暗殺されましたが彼は紀元前123年、紀元前122年と続けて護民官と成り、兄の改革運動を受け継ぎ、土地法で大土地所有を制限すると共に、穀物法で貧民に対して穀物を一定の安い価格で販売することを定め、更にはカルタゴに植民市を建設する法案を通過させたのですが、全イタリア人に市民権を拡大しようとして元老院と激しく対立し、やがてそれは武力闘争に発展、最後は自殺に追いこまれます。
グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族派と平民派の党争が激しく成りました。その中で登場してきたのが平民派のマリウス(紀元前157年~紀元前86年)です。
一兵士から身を起こした彼は紀元前119年に護民官に就任、更に紀元前107年にはコンスルと成りました。
アフリカのヌミディア王とユグルタ戦争(紀元前111年~紀元前105年)に勝利をおさめ、以後亡くなる迄7回コンスルと成ります。
彼は中小農民が没落し従来の兵制が維持出来ず、無産市民を志願兵として採用し国費で武装させる傭兵制を採用しますが、これは「私兵」の始まりとされています。

ローマ兵
紀元前100年、兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下のスラとの抗争が激しく成り、一時閥族派が平民派を押さえます。
この時期に勃発した抗争が同盟市戦争(紀元前91年~紀元前88年)で、イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求して反乱を起こしたのですが、スラが元老院の了解のもとに市民権の付与を約束して平定しました。
しかしこの結果、ローマ市民権は全イタリア半島に広がり、イタリアは一つの領土国家と成ったのです。
同盟市戦争が平定された紀元前88年にミトリダテス戦争(紀元前88年~紀元前63年)が始まります。
小アジアのポントス王ミトリダテスが、3回にわたってローマと抗争を繰り返し、このミトリダテス討伐権をめぐってマリウスとスラは激しく争い、マリウスは紀元前87年にスラの不在の最中にローマでスラ派に対して大虐殺を行ったのですが、翌年に天罰を受けたのか病死しています。
マリウスの後ローマで、一時独裁権を掌握した人物がスラ(紀元前138年~紀元前78年)で、貴族に生まれ、最初マリウスの部下であった彼は、ユグルタ戦争等で功績を上げ、閥族派の巨頭となり、ミトリダテス戦争から帰国後、マリウス派を全滅させ、無期限のディクタトル(独裁官)に就任して(紀元前82年)、独裁政治を断行しますが、後に突然ディクタトルを辞し、翌年没しています。
ジョークは如何?
社会主義下のソ連、コンビナートの職場集会にて。
講師が大きな声で問う。
「資本主義の本質とは何だろうか!」
黙っている労働者たち。講師は自ら答える。
「それは、人間の人間による搾取そのものである!」
労働者の1人が質問。
「それでは共産主義の本質は何ですか?」
「その逆である!」
続く・・・

奴隷市
(2)ローマの発展と内乱(その2)
第2次ポエニ戦争の勝利より、ローマは海外に広大な属州(プロウィンキア、一般的にはポエニ戦争以後にローマが獲得したイタリアの外の海外領土を指す )を獲得し、地中海支配が実現しました。ヒスパニア(スペイン紀元前197年)、3回にわたるマケドニア戦争でマケドニア(紀元前168年)、そして紀元前146年にカルタゴ、ギリシア、更に紀元前133年には小アジアを征服、属州として総督を派遣し直接支配しました。
この属州から安い穀物が大量に流入し、おびただしい安価な奴隷が流入したことは、ローマ社会に大きな影響を及ぼすこととなります。
最大の問題は中小土地所有農民の没落でした。
彼等は重装歩兵として征服戦争に永年にわたって従軍し、その負担と戦争による農地の荒廃の為、離農する者も多く、次第に窮乏の度を高めて行きます。
その為、これ迄ローマ発展を支えてきた重装歩兵を中心とするローマ軍の編成が維持出来なくなり、傭兵制に変わらざるを得なくなって行きました。
中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティフンディア (ラティフンディウム、広大な土地を意味するラテン語)の発展です。
ローマの発展に伴う占領地は国有地とされましたが、未分配の公有地は資力のある者から地代を徴収して占有を許可しました。
最初期は単に彼らの占有地であった土地が次第に私有地化され、大規模に果樹栽培や牧畜を経営するようになり、労働力として当時大量に安価に手に入れることができた奴隷を使用します。
この奴隷制大農場経営をラティフンディアと呼び、このラティフンディアの発展に伴って没落しつつあった中小農民の私有地は次々に買い占められ、これが中小土地所有農民の没落を一層促進して行きました。

奴隷商人
もう一つの大問題は、奴隷制度の問題です。
ローマがイタリア半島を統一し 地中海へと発展していくなかで、相つぐ戦勝は膨大で安価な奴隷を供給しました。
紀元前2世紀から紀元前1世紀は奴隷制の最盛期で在り、多くの奴隷が家内奴隷や手工業・鉱山労働、 大規模な農場での穀物・果樹栽培に使用されます。
奴隷反乱もしばしば発生し市民を脅かしましたが、特に紀元前135年シチリアの奴隷反乱は全島を巻き込む大反乱となりました。
紀元前3世紀頃から元老院を中心に政権を独占してきたのは、新貴族(ノビレス、ノビリタス)と呼ばれる人々で、新貴族は富裕なプレブス(平民)とパトリキ(貴族)の両身分の最上層部が融合し、最高官職(コンスルなど)に就任した者の直系の子孫で形成され、少数の家柄の者が主要な官職を独占します。
彼らは、政治的決定は元老院によってなされるべきだと考え、閥族(オプティマテス)と呼ばれ閥族派を形成し、貴族中心の元老院支配を守ろうとしました。
ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済的には第一の勢力となったのが騎士(エクィテス)階級です。
彼らは元来、騎乗で戦う騎兵の身分であり、従ってある程度富裕な階級ですが、ローマの属州が増えるに従い、元老院議員が商業に従事することを禁止されているのに乗じて、商業・貿易・公共事業の請負、特に属州における徴税請負によって財を成し、一部は政治家、元老院議員など政界に進出して行きます。
一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地を放浪、ローマに流れこみ、「パンとサーカス(見世物)」を要求しました。
又遊民とならず有力者の傭兵となり、一部はラティフンディアの小作人になっていきます。
こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守ると口実のもとに貧困者の支持を得て、民会の多数決によって政治が成れるべきだと唱え、民会を足がかりに政権を握ろうとする政治家、及びそのグループが現れ、彼らは平民派(ポプラレス)と呼ばれます。
ローマでは平民の間にも貧富の差が拡大し、そのなかで閥族派と平民派の争いが激しくなって行き、ローマの危機、「内乱の一世紀」(紀元前133年~紀元前30年)に、没落していく中小土地所有農民を何とか救済し、もう一度嘗ての重装歩兵である平民を中心とする社会を再建しようと努力した人物がグラックス兄弟でした。

グラックス兄弟
兄、ティベリウス・グラックス(紀元前162年頃~紀元前132年)は、政治家・将軍の父とスキピオ(大アフリカヌス)の娘を母として生まれ、若い頃軍務に就いた後、中小農民の没落・貧民化が大問題になってきた頃の紀元前133年に護民官に選ばれました。
彼は、リキニウス・セクステイウス法を復活させ大土地所有を125haに制限し、制限以上の占有地を取り上げて土地のない市民に分ける土地法案を成立させ、自ら土地分配委員の一人となり、実行に移します。
しかし、土地問題などで 元老院と対立し、その上政策をやり遂げる為、伝統を無視して護民官の再選を企てた結果、翌年暗殺(撲殺)され、遺体はティベル川に投げ込まれました。
彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を食む野獣でさえ、 洞窟を持ち、それぞれ自分の寝座とし、また隠処としているのに、イタリアの為に戦い、そして斃れる人たちには、空気と光の他何も与えられず、彼らは、家もなく落着く先もなく、妻や子供を連れて彷徨っている。・・・」と論じました。
弟、ガイウス・グラックス(紀元前153年頃~紀元前121年)は、兄と共に土地分配委員と成りましたが、兄は暗殺されましたが彼は紀元前123年、紀元前122年と続けて護民官と成り、兄の改革運動を受け継ぎ、土地法で大土地所有を制限すると共に、穀物法で貧民に対して穀物を一定の安い価格で販売することを定め、更にはカルタゴに植民市を建設する法案を通過させたのですが、全イタリア人に市民権を拡大しようとして元老院と激しく対立し、やがてそれは武力闘争に発展、最後は自殺に追いこまれます。
グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族派と平民派の党争が激しく成りました。その中で登場してきたのが平民派のマリウス(紀元前157年~紀元前86年)です。
一兵士から身を起こした彼は紀元前119年に護民官に就任、更に紀元前107年にはコンスルと成りました。
アフリカのヌミディア王とユグルタ戦争(紀元前111年~紀元前105年)に勝利をおさめ、以後亡くなる迄7回コンスルと成ります。
彼は中小農民が没落し従来の兵制が維持出来ず、無産市民を志願兵として採用し国費で武装させる傭兵制を採用しますが、これは「私兵」の始まりとされています。

ローマ兵
紀元前100年、兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下のスラとの抗争が激しく成り、一時閥族派が平民派を押さえます。
この時期に勃発した抗争が同盟市戦争(紀元前91年~紀元前88年)で、イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求して反乱を起こしたのですが、スラが元老院の了解のもとに市民権の付与を約束して平定しました。
しかしこの結果、ローマ市民権は全イタリア半島に広がり、イタリアは一つの領土国家と成ったのです。
同盟市戦争が平定された紀元前88年にミトリダテス戦争(紀元前88年~紀元前63年)が始まります。
小アジアのポントス王ミトリダテスが、3回にわたってローマと抗争を繰り返し、このミトリダテス討伐権をめぐってマリウスとスラは激しく争い、マリウスは紀元前87年にスラの不在の最中にローマでスラ派に対して大虐殺を行ったのですが、翌年に天罰を受けたのか病死しています。
マリウスの後ローマで、一時独裁権を掌握した人物がスラ(紀元前138年~紀元前78年)で、貴族に生まれ、最初マリウスの部下であった彼は、ユグルタ戦争等で功績を上げ、閥族派の巨頭となり、ミトリダテス戦争から帰国後、マリウス派を全滅させ、無期限のディクタトル(独裁官)に就任して(紀元前82年)、独裁政治を断行しますが、後に突然ディクタトルを辞し、翌年没しています。
ジョークは如何?
社会主義下のソ連、コンビナートの職場集会にて。
講師が大きな声で問う。
「資本主義の本質とは何だろうか!」
黙っている労働者たち。講師は自ら答える。
「それは、人間の人間による搾取そのものである!」
労働者の1人が質問。
「それでは共産主義の本質は何ですか?」
「その逆である!」
続く・・・
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