2014/05/27

歴史を歩く17

<ローマ帝国その④>

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『スパルタクスの最期』(ヘルマン・フォーゲル画、1882年)

(2)ローマの発展と内乱(その3)

 スラの死後、台頭してきた人物がポンペイウス(紀元前106年頃~紀元前48年 )でした。
彼はマリウスとスラの争いではスラを支援して名をあげ、スラの後継者と成りますが、特にスパルタクスの反乱鎮圧に功績をあげ、紀元前70年にコンスルに選出されました。

 スパルタクスの反乱(紀元前73年~紀元前71年)は当時ローマを揺るがした大事件でした。
中心人物であるスパルタクスは兵士から盗賊の首領となり、捕らえられて剣奴(グラディアトール)と成ります。
ローマ人は有名なコロッセウム(円形闘技場)で奴隷に生死をかけた決闘を行わせ、それを見て楽しむ娯楽を好んだのですが、そのために養成された奴隷が剣奴でした。

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『Pollice Verso〈指し降ろされた親指〉』ジャン=レオン・ジェローム

 紀元前73年、カプアの剣奴養成所から78人の剣奴がスパルタクスを頭として脱走し、ヴェスヴィオス山に立てこもり反乱を起こします。
奴隷制度廃止を宣言したことから、多数の逃亡奴隷や貧民も合流し、その数は急増、最盛期には12万人に達しました。
当初、奴隷たちが生まれ故郷に帰ることを目的にした為、南イタリアを占領した後、北イタリアに矛先を向けました。
北イタリアに進出した理由は奴隷の中にはガリア(現在のフランス)やトラキア(現在のブルガリア辺り)の出身の者が多かった為ですが、彼らが帰郷よりも掠奪を望んだので、再び南下してシチリア島に向かう途中から敗走が始まり、スパルタクスは南イタリアでクラッスス軍と戦って戦死、そのため大反乱も既に当初の目的を失っていた為、総崩れとなった残党はポンペイウスに討伐され、捕虜の約6千人がアッピア街道で磔にされました。

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グナエウス・ポンペイウス・マグヌス( Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)

 スパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、紀元前70年にコンスルに選出されたポンペイウスは、スラの政策を是正し、次第に平民派に接近して行きます。
更に地中海の海賊討伐にあたっては、元老院から強大な権限を与えられ、それに成功し(紀元前67年)、ついでミトリダテスを破り(紀元前66年)、セレウコウ朝シリアを征服(紀元前63年)、エジプトを除く東方を平定する偉業を為し遂げたのでした。

 しかし、その後私兵でもある軍隊への土地分配等をめぐって元老院と対立した結果、彼はカエサル(紀元前100年頃~紀元前44年)とクラッスス(紀元前114年頃~紀元前53年)と組んで元老院への対抗を企てます。
単独では元老院の権力に対抗できない為、三人が団結して政権を独占するために密約を結んだのですが、これを第1回「三頭政治」(紀元前60年)と呼びます。
ポンペイウスはイスパニア、クラッススはシリア、カエサルはガリアの特別軍令権を得てそれぞれ勢力圏としました。

 クラッススは名門の出身で、マリウスとスラの対立ではスラを支持し、スラが行った市民の財産没収に乗じて巨富を得て「富裕者」と呼ばれ、スパルタクスの反乱鎮圧に成功しコンスルに選ばれ(紀元前70年)、紀元前60年にはポンペイウス・カエサルとともに第1回三頭政治を成立させました。紀元前55年コンスルに再選され、翌年パルチィア遠征を行いますが、パルチィア軍に苦戦し、紀元前53年にカラエで息子とともに戦死します。

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ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Cæsar[1]、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)

 カエサルはローマの古い名門ユリウス家の出身、最初の妻が平民派の政治家の娘であったことなどから平民派と見なされ、スラの迫害を受け各地を転々とした後、スラの死に乗じて、ローマに帰り政界に入り、財務官等を歴任し大神官に就任しますが(紀元前63年)選挙で派手な買収を行い、又剣奴の試合の費用等で巨額の負債を背負いました。
この為紀元前62年にイスパニア総督として赴任する時には、債権者たちに阻止され、クラッススの保証によってやっと出発出来たといわれています。

 イスパニア遠征で功績を上げ、ローマに帰国、ポンペイウス・クラッススと結んで第1回三頭政治を開始(紀元前60年)、紀元前59年にコンスルに就任し、国有地分配法案を可決させ、その他さまざまな法案を民会で成立させました。
コンスルの任期終了後5年間ガリア総督に就任することを承認させたうえ、紀元前58年から紀元前51年にガリア遠征を行い、これを平定しました。

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Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" リオネル・ロワイヤル1899年

 このガリア征討については「ガリア戦記」を自ら著しています。
最初の3年間はケルト諸族や侵入してきたゲルマン人の討伐、紀元前55年にライン川を渡ってゲルマニア(現在のドイツ)にも進出し、この間の紀元前55年、紀元前54年にはブリタニア(現在のイギリス)にも侵攻しました。
紀元前52年、アルウェルニ族のヴェルキンゲトリクスを中心とする大反乱では、絶体絶命の窮地に追い詰められたものの、脱出に成功、紀元前51年には全ガリアを平定し、アルプス以北をローマの版図とし、征服した異民族に課税し、戦利品と課税によって巨額の軍資金を手に入れたのでした。

 紀元前54年にカエサルの娘でポンペイウスの妻となっていたユリアが亡くなり、翌紀元前53年にクラッススが戦死すると、カエサルとポンペイウスの対立が表面化してきます。
紀元前49年、ポンペイウスと結んだ元老院が、カエサルに対して軍隊の解散と属州の返還要求を決議し、更にローマへの召喚を決議しました。
これに対してカエサルは「骰子は投げられた」という有名な言葉と共に、自分の任地の属州と本国イタリアとの境を流れるルビコン川を渡ってローマに進撃しました。
この時のカエサルの軍団は11箇軍団(1軍団は約4200人)を擁していたのですが、実際には多くの軍団はアルプスの北に位置していたのです。

 一方、「国家防衛の大権」を与えられていたポンペイウスは、イタリアで13万人の兵士を動員する権限を得ており、スペインには7箇軍団を擁していました。
カエサルは5箇軍団を率いてルビコン川を渡って進撃、ポンペイウスは南イタリアに退き、更にイタリアでの決戦を避け、バルカン半島に渡り、東方の軍を結集してカエサルに対抗する作戦でしたが、テッサリア(北部ギリシアの一地方)のファルサロスの決戦(紀元前48年)に敗れ、エジプトのプトレマイオス朝に保護を求めます。

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進軍(イメージ)

 しかし、エジプト側はローマの内乱に巻き込まれることを極端に恐れ、港に着いたポンペイウスを出迎えると見せて暗殺します。
当時、エジプトのプトレマイオス朝は、王家内部の争いと原住民の反抗によって衰退の一途を辿っていました。
プトレマイオス12世の死後、クレオパトラ7世(紀元前69年~紀元前30年、在位前51年~在位紀元前30年)が慣習により、弟のプトレマイオス13世と結婚して共同統治者に成ります。

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クレオパトラ(イメージ)

 絶世の美女として有名なクレオパトラは、マケドニア系のギリシア人でエジプト人の血は入っていないと云われています。
弟と共同統治者になったものの、弟と廷臣のために一時エジプトを追われ、ポンペイウスを追ってエジプトに現れたカエサルの寵愛を一身に受け、王位に復し、プトレマイオス13世がカエサルと戦って戦死した後は、単独統治を行いました。
カエサルとの間にはカエサリオン(小カエサルの意味、後のプトレマイオス15世 )をもうけ、ローマに赴きますが、カエサルの暗殺後はエジプトに戻っています。

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『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto"、ピエトロ・ダ・コルトーナ1637年

 ポンペイウスを追ってエジプトに進軍したカエサルはクレオパトラの虜となり、プトレマイオス13世側についたアレクサンドリア市民との間のいわゆる「アレクサンドリア戦役」(紀元前48年~紀元前47年)に勝利し、クレオパトラを王位に就けることに成功、更に小アジアのポントス王を破り、紀元前47年にはアフリカの元老院派を破り、紀元前46年7月にローマへ凱旋しました。
そして終身ディクタトル兼インペラトール(最高軍司令官、皇帝emperorの語源)となり独裁権を掌握(紀元前44年)したのです。

ジョークは如何?

ドイツ空軍の猛爆が終わり、さる婦人が防空壕から出てくるとわが家は跡形もない。

「well it makes a change!」(まあ、気分が変わっていいわ )


続く・・・
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