2014/05/31

歴史を歩く18

<ローマ帝国その⑤>

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「ブルータス、お前もか!」

(3)帝国の成立①

 カエサルはコリントやカルタゴに貧民を送り込み、植民市を建設することによって無産者や老兵へ土地を分配し、属州での徴税請負制の廃止、100万都市ローマの都市計画に取り組むのですが、後世に大きな影響を及ぼしたのは、エジプト起源の太陽暦採用でした。
ユリウス暦と呼ばれるこの暦は、1年365日に加えて4年に一度閏年を置き、1582年に現在のグレゴリ暦に変わるまで使用されたのです。

 しかし、カエサル個人の神格化が進み、王位に就くことを画策したことから独裁に対する反感が強まり、ブルートゥス、カッシウスを首謀者とする60人以上の同志による共和派の暗殺計画が進められ、紀元前44年3月15日にカエサルは元老院内で23ヶ所刺され、ポンペイウスの立像の下に倒れます。
「ブルートゥス、お前もか」の一節は、この時のカエサルの発した言葉として有名です。

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凱歌を挙げる閥族派と横たわるカエサルの遺骸

 共和政擁護の英雄とされるブルートゥス(紀元前85年~紀元前42年)、カッシウス(紀元前?年~紀元前42年)の目論見は見事に外れ、市民の反発は日増しに高まり、終に彼らはローマから脱出せざるを得なくなります。

 カエサルの死後、彼の姪の子で遺言によって養子となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス(紀元前63年~紀元後14年、在位紀元前27年~紀元後14年)とカエサルの部将であったアントニウス(紀元前82年~紀元前30年)、キケロを中心とする元老院の三者による抗争が1年半続きますが、紀元前43年、オクタヴィアヌスは元老院と対立し、ローマに進軍して自らコンスルに就任し、カエサルの部将であったレピドゥス(?~紀元前13年頃)の仲介によってアントニウスと和解し、紀元前43年11月末に第2回三頭政治が始まります。

 彼らはバルカン半島に逃れて再起を計っていたブルートゥス、カッシウスと紀元前42年にマケドニアのフィリッピで戦闘を交え、カッシウス・ブルートゥスを破り、両者を自刃に追い込みます。

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ブルートゥスとカエサルの亡霊

 この戦いで功績をあげたアントニウスの声望は上り、再びオクタヴィアヌスとの抗争が起こるのですが、紀元前40年に再び協定が結ばれ、オクタヴィアヌスはガリアとイスパニアを、アントニウスは東方の属州を、レピドゥスはアフリカを支配地とすることとなり、その時にアントニウスの妻が亡くなったので、オクタヴィアヌスの姉で寡婦であったオクタヴィアと結婚し、両者は結束を強めます。

 アフリカを得たレピドゥスはシチリアを要求してオクタヴィアヌスと対立後失脚し、政界から引退し(紀元前36年)、閑職の大神官の地位に左遷されます。
オクタヴィアヌスはレピドゥスの支配地と部下を継承した結果、三頭政治は崩壊、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立は三度避けがたいものとなって行きます。

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クレオパトラの祝宴

 東方を支配下に置いたアントニウスは、パルティア遠征の軍費を獲得するためにエジプトを巻き込み、カエサルの死後エジプトに戻っていたクレオパトラをタルソスに呼び寄せます。
彼女の美貌に魅せられたアントニウスはクレオパトラと結ばれ(紀元前41年)、翌40年にかけてエジプトに滞在しました。

 帰国後、オクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し(紀元前40年)、オクタヴィアヌスとローマを東西に分割する協定を結びます。
しかし、紀元前36年のパルティア遠征が大失敗に終わり、以後彼は益々クレオパトラに傾倒し、所謂「アレクサンドリアの寄贈」でキプロス島等をクレオパトラに与える約束を交わします。
紀元前34年「アレクサンドリアの寄贈」が公けにされ、アントニウスのローマ市民に対する裏切りが明らかとなり、更に紀元前33年アントニウスがクレオパトラと正式に結婚し、オクタヴィアを離婚したことからオクタヴィアヌスとの対立は決定的となりました。

 紀元前32年、オクタヴィアヌスはクレオパトラに対して宣戦を布告、アントニウスは約7万の歩兵、1万2千の騎兵、500隻の艦隊を、翌紀元前31年までにギリシアに侵攻させます。
これに対してオクタヴィアヌスは歩兵8万、騎兵1万2千、400隻以上の艦船を擁して東に進み、アントニウスの海陸軍を4ヶ月にわたって包囲しました。

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アクティウムの海戦

 紀元前31年9月、アントニウスの艦隊が行動を開始し、有名なアクティウムの海戦が始まりました。
オクタヴィアヌス軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍、双方約500隻以上の艦船が文字どうり衝突した戦闘は、結局1回の激突で終わり、10~15隻の艦船を喪失したアントニウスの艦隊は逃亡、あるいは降伏し、クレオパトラはその艦隊を率いていち早くエジプトに脱出、アントニウスもクレオパトラを追い、その旗艦に便乗してアレクサンドリアに退却します。

 翌年の紀元前30年夏、オクタヴィアヌス軍はシリアからエジプトに迫り、アントニウスの対抗虚しく敗れ、クレオパトラの死の誤報を聞き、8月1日自害し、アレクサンドリアは陥落、そしてアントニウスの死を知ったクレオパトラも毒蛇にその腕を噛ませて命を断ち、その後カエサリオン(カエサルとクレオパトラの子 )がオクタヴィアヌスに暗殺され、ここに300年間続いたプトレマイオス朝エジプトはついに滅亡します。

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クレオパトラの死

 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、元老院は「プリンケプス(第1の市民)」の称号を(紀元前29年)、ついで「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を紀元前27年に送ります。
アウグストゥス(オクタヴィアヌスは以後アウグストゥスと呼ばれるようになる)は軍隊の命令権、護民官の職権、宣戦・講和の大権、コンスルの指名権などあらゆる権限を掌握しますが、養父カエサルの失敗に鑑み、共和政の伝統を尊重し、属州は元老院と分けて統治するなど元老院との共同統治の形を選択します。

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オクタヴィアヌス

 事実上は君主政・帝政なのですが共和政の伝統を尊重した彼の政治は「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ばれ、一般的にはこの時から「帝政ローマ(ローマ帝国)」が始まるとされ、彼は初代のローマ皇帝(在位紀元前27年~紀元後14年)とされます。
彼は「内乱の1世紀(紀元前133年~紀元前27年)」と呼ばれた混乱の時代を収拾し、社会秩序の確立・財政の整備に力をそそぎ、又当時人口100万人の巨大都市ローマの美化にも努め、彼の治世にラテン文学は黄金時代を迎え、ヴェルギリウスを初めとする多くの文人が活躍しました。

 対外的には、紀元後9年にトイトブルグの戦いでゲルマン民族に大敗北を喫し、2万人のローマ軍が全滅、以後ローマはゲルマニア経営を断念せざるを得なくなり、帝国の防衛線をライン・ドナウ川の北境とし、東方では強国パルティアと講和してユーフラテス川を国境としました。
このため以後200年間にわたって、一応の平和が保たれることに成り、アウグストゥス時代から180年までの約200年間を「ローマの平和(パックス=ロマーナ)」と呼んでいます。

ジョークは如何?

チャーチルが米国を訪問しホワイトハウスに滞在した時のくだりがあります。
チャーチルが入浴中にたまたま緊急な事件が起き、大統領秘書官が浴室をノックして「ご入浴中大変恐縮ですが、火急の問題が起きまして...」とかなんとか云ったのでしょう。
するとチャーチルはなにも隠さぬ全裸姿で顔を出し、いきなり、「イギリス首相はアメリカ大統領に何一つ隠し立てするものはありません。」


続く・・・
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コメント

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こんばんは

素晴らしい数々の絵画。
カエサルが刺された23箇所というのは詳細な傷痕の記録ですが、文献などに記載されているのでしょうか。
歴史というのは、記録の残り方にムラがありますね。