2014/06/06

歴史を歩く19

<ローマ帝国その⑥>

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ローマの火災を見つめるネロ アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)1887年作

(3)帝国の成立②

 アウグストゥスの死後、後継者として第2代目の皇帝となったのは皇后の連れ子であるティベリウス(在位14年~37年)でした。
次いで彼の甥の子のカリグラ(在位37年~41年)が皇帝と成ったものの即位後、病を患い狂人の暴君となり、臣下に暗殺され、第4代皇帝はカリグラの叔父、クラウディウス(在位41年~54年)で、この時期にブリタニア遠征が行われ、ブリタニアは属州と成ります。

 第5代皇帝が、クラウディウスの後妻の子であり「暴君」として名高いネロ(在位54年~68年)せした。
ネロは初期の5年間、哲学者の家庭教師であったセネカらの後見で善政をしいたのですが、セネカの引退後、暴虐の性格を現わし、母・妻を殺害し、又64年のローマの大火の罪をキリスト教徒にかぶせ大迫害を加えたことは有名です。
しかし、ガリアの反乱を発端として反乱は各地の軍隊に広まり、近衛軍団にも見捨てられたネロはローマを脱出したのち自ら命を断ちます。

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キリスト教徒迫害

 ネロの死によってユリウス・クラウディウス家(カエサル、アウグストゥスの系統)は断絶し、68年から69年にかけて4人の皇帝が入り乱れた内乱となりますが、このなかからヴェスパシアヌスが帝位についてフラヴィウス朝が始まり、ティツス、ドミティアヌスと続くものの、ドミティアヌスが暗殺されフラヴィウス朝が絶えると、穏和で名門出身の元老院議員のネルヴァ(在位96年~98年)が元老院に推されて66歳の高齢ながら皇帝に即位しました。
彼は元老院との協調を図り、救貧制度の確立などに成果を上げるのですが、嗣子がなかったために、トラヤヌスを養子にして、有能な人物を後継者に選ぶ先例を開き、いわゆる「五賢帝時代」(96年~180年)の幕開けと成りました。

 トラヤヌス(在位98年~117年 )はスペインに生まれ、軍人として活躍、コンスルを経てネルヴァの養子となり翌年に即位しました。
彼は寛容・質素な性格で内政でも実績を上げますが、特に対外政策ではアウグストゥス以来の守勢から積極策に転じ、ドナウ川を渡ってダキア(現在のルーマニア)を属州とし(106年)、更に東方に進み、パルティアの首都を占領し、ローマ帝国の領土は史上最大と成ります。

 トラヤヌスの後即位したハドリアヌス(在位117年~138年)もスペイン出身で、トラヤヌスの甥にあたり、トラヤヌスの死で皇帝に推されました。
彼は内政を重視し、対外政策は再び守勢に転じますが、彼は帝国全土を2度にわたって巡察し、ブリタニアにも渡り(122年)、「ハドリアヌスの長城」を築いて北方への防備としました。

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ハドリアヌスの長城・Wikipediaより

 ハドリアヌスの養子となり帝位を継いだアントニヌス・ピウス(在位138年~161年)は、即位に際して「ピウス(敬虔な者)」の称号を与えられ、穏健で仁慈に富み、国内は平安な時代を迎えます。彼もハドリアヌスの意向に従い、マルクス・アウレリウス・アントニヌスとヴェルスを養子に迎え、帝政を迎えて初めて、二人の皇帝による共同統治と成りました。

 五賢帝最後の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161年~180年)は、スペイン名門貴族の子としてローマに生まれ、11歳で早くもストア派の哲学者として知られ、ピウス帝の娘と結婚し、帝の死後ヴェルスと共同統治となり、ヴェルスの死後(169年)単独の皇帝と成りました。
彼は「哲人皇帝」として有名であり、寛仁な性格で善政を施したが、当時は「パックス・ロマーナ」も最終時期で、パルティアやゲルマン人の侵入に悩まされ続け、20年に及ぶ治世中の大部分をバルカン北方・シリア・エジプト等の辺境陣営で過ごし、最後は出征地のウィンドボナ(現在のウィーン)の陣中で病没しました。

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「マルクス・アウレリウスの死」ウージェーヌ・ドラクロワ (1798-1863)

 彼の著書「自省録」は、ストア派の哲学者であった彼の自己反省の記録です。
又中国の「後漢書」に大秦国王(ローマ皇帝の意味)安敦の使者と称する者がヴェトナム中部に到着し、入貢したと記録されていますが、安敦はマルクス・アウレリウスを注していると考えられています。

 マルクス・アウレリウスは慣習を破って不肖の子、コンモドゥス(在位180年~192年)を後継者としましたが、彼は「第2のネロ」と呼ばれた暴君と成り、政治は側近に任せ、日夜遊楽に溺れ、元老院を無視し、近衛軍団の俸給を増額しその機嫌を取り、結果として国家財政、政治は大きく乱れ、コンモドゥスは近衛長官らが雇った剣奴によって暗殺されます。

 コンモドゥスの死後近衛軍団の暴走が顕著になり、近衛軍団や属州の軍隊に推挙された4人の皇帝が分立しましたが、アフリカ出身で上パンノニア(現在のオーストリア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアティア)総督であったセプティミウス・セヴェルス(在位193年~211年)が対立皇帝を破って帝位に就きます。
最初の軍人皇帝(軍隊に擁立された皇帝)であるセヴェルスは、従来イタリア人が独占していた近衛軍団をすべての属州民に開放し、地方軍団の兵で新しい近衛軍団を編成し、近衛長官の権限を強化しました。
対外遠征も数度に及びましたが、ブリタニア出征中に病没します。

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カラカラ帝・ローレンス・アルマ=タデマ(1836~1912)オランダ

 セヴェルスの死後、弟と共同統治皇帝となり、後に弟を暗殺して単独の皇帝となったのがカラカラ(在位211年~217年)です。
彼は軍隊の支持を得るために給与を増額し、租税の増徴を図って帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス法を発布しました(212年)。
また彼が建設したカラカラ大浴場は有名ですが、そこで淫楽に耽り、パルティア遠征の途中に近衛長官に命を奪われます。

 235年に皇帝となったマクシミヌス(在位235年~238年)はトラキアの農民出身で、一兵卒から身をおこし、巨体と怪力で軍隊の人気を集めた人物ですが、彼は元老院の承認を得られず、イタリアに向かって進軍中に、部下に殺され、それ以後は帝国各地に駐留する軍隊が、その軍司令官を勝手に皇帝に擁立したので、235年~284年の約50年間に26人の皇帝が乱立しました。
しかもそのうち25人は治世の半ばで暗殺、戦死し、是等大多数の皇帝は軍隊がかつぎ上げた皇帝であり軍人皇帝と呼ばれ、235年~284年の約50年間を軍人皇帝時代と呼びます。
広義には193年~284年を指す場合も在ります。

 この内乱のため辺境の防備は弱まり、これに乗じて北方のゲルマン人、東方のペルシア人が国境を越えて侵入を繰り返し、ヴァレリアヌス(在位253年~260年)は東方から侵入してきたササン朝ペルシアのシャープール1世と交戦するものの捕虜となります。
このような内外の混乱のなかにあってローマ帝国を立て直そうとする動きは存在したのですが、軍人皇帝時代の混乱に終止符を打ち、帝国を新しい組織の上に再発足させたのはディオクレティアヌスでした。

ジョークは如何?

フルシチョフの没落。
「クズモヴィッチ、どうして党を除名になったんだ?」
「フルシチョフの引き下ろしに協力しなかったからだとさ」
「だけど、きみはそんなに大物じゃないだろう?」
「ある日、党の書記がおれの部屋にやってきて、
『そのごろつきの写真を壁から降ろすんだ』って言ったんだ。
 で、おれはつい、こう尋ねてしまってね。
『どの?』」


続く・・・


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コメント

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暴君ネロ

6月は気持ちも曇りがち
仕事もプライベートもより充実させましょう!
   ∧,,,∧  ( ノ゚Д゚)おはよう
  (´・ω・)
  /っ旦o-_。_-.、 元気出た~
  (´   c(_ア )
  [i=======i]  今日もよろしくお願いします