歴史を歩く20
<ローマ帝国その⑦>

分割統治
(4)古代の終末
ディオクレティアヌス(在位284年~305年)はダルマティア(旧ユーゴスラヴィア西部)の貧農、解放奴隷の子として生まれ、一兵卒から皇帝の親衛隊長となり、皇帝ヌメリアヌスが暗殺された後、ニコメディア(小アジア西北部の都市)で軍隊に推されて帝位に就きました。
彼は広大な帝国を統治する為に同じ軍団のマクシミアヌスを第2の正帝に任命し、更に2人の副帝を置き、帝国の「四分統治」を成立させ、自らは東の正帝としてトラキア・アジア・エジプトを直轄し、さらに全帝国をも治めました。
再び統一と秩序を取り戻した帝国では、皇帝は「ドミヌス」(奴隷の主人の意味)と呼ばれ、市民は臣民となり、臣民は皇帝の前に出る時はペルシア風の跪拝(ひざまずいて拝礼をすること)をしなければ成りませんでした。
彼は又ローマ皇帝を現神として崇拝する皇帝崇拝を強要し、このような専制君主政を「ドミナートゥス」と呼称します。
彼は軍制の改革、行政改革、税制・幣制改革を推進し、更にインフレを抑制する為に最高価格令を発布したのですが、その効果は期待に反したものでした。

ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス( Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、 244年12月22日 - 311年12月3日・ローマ帝国皇帝(在位:284年 - 305年))
新しい政治体制を確立したディオクレティアヌスは、一方で古いローマの伝統の復活を図り、宗教の面では伝統的な多神教を崇拝します。
キリスト教に対して、即位以来20年間は寛大でしたが、303年~305年にわたって突然全帝国内で最後の、しかも今迄に記録された中で最も激しい大迫害を実行します。
キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことが最大の原因ですが、キリスト教を根絶する事は不可能で、その大迫害の中305年病気の為に退位します。

キリスト教徒迫害
四分統治は中心人物ディオクレティアヌスを失い崩壊が始まり、各地に実力者が現れ帝位を争う事と成りました。
四分統治時代の西の副帝であったコンスタンティウス1世の子であるコンスタンティヌス1世(大帝)(在位306年~337年)は、父の死後副帝に任じられ(306年)帝位争いに終止符が打たれます。
当時帝位を争う人物は6人に及び、彼は312年にマクセンティウスを、そして324年には最後の競争者のリキニウスを破って単独皇帝となり、ローマ帝国の再統一に成功しました。
312年にマクセンティウスとの戦いの時、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字が浮かび、これを旗印に戦って勝利したと伝えられています。
コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令」を発布して総ての宗教に対し信仰の自由を認め、禁教令を廃止し、ここにキリスト教は公認される事と成りました。
又リキニウスを破って単独皇帝となった頃から、ギリシア時代の都市ビザンティウムに新都の建設を始め、330年に治世25年を記念して遷都します。
新しい都は「コンスタンティヌスの都市(ポリス)」と名づけられ、コンスタンティノープル(現イスタンブル)と呼ばれるように成ります。
遷都の理由は千年の伝統を持ち、異教的伝統の強いローマのキリスト教化に見切りをつけた事、帝国にとってバルカン半島・小アジアの属州の重要性が強まっていた事、東方のササン朝ペルシアの侵入に備える為等が考えられます。

コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一の為に利用する事を考えますが、当時のキリスト教会内には多くの教理対立が存在し、統一を欠いていた事から、その教義の統一を図る為、325年小アジアのニケーアに司教、長老等約300人を集め公会議を開催しました。
このニケーア公会議(宗教会議)では、キリストの神性を否定するアリウス派(アリウスはアレクサンドリア教会の長老)を異端とし、キリストを神の子とするアタナシウス(アレクサンドリアの助祭)の主張する「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも同一である」とする「三位一体説」を正統教義として教義の統一を図ります。
内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改革を行い、又332年にコロヌスの土地緊縛令を発布し、本来自由な小作人であったコロヌスと呼ばれる農民を耕作している土地からの離散を無くし、逃亡した場合は連れ戻す権利を地主に与えました。
コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治しますが、長男と三男が非業の死を遂げ、次男が再び単独統治を行います。
彼は父の死の翌年に一族を皆殺しにしますが、この時難を逃れたコンスタンティヌス大帝の甥であるユリアヌスが、追放された後、副帝となりガリア遠征で戦績を上げ軍隊によって正帝に推戴され、コンスタンティウスの急死によって即位しました。
彼は即位すると公然と異教に改宗し、キリスト教徒を弾圧した為「背教者」と呼ばれ、内政では善政を行うものの、ササン朝遠征中に没しました。

ゲルマン民族のヨーロッパ大移動
ユリアヌスの死後、ローマ帝国の衰退は加速し、東方、北方から異民族が侵入を繰り返す様に成ります。
ヴァレンヌ帝(在位364年~378年)等は帝国の防衛に全力を注ぎますが、375年にはフン族の圧迫を受けた西ゴート族がドナウ川を越えてローマ領内に移動し、此処に「ゲルマン民族の大移動」が始まり、ヴァレンヌ帝はアドリアノープルの戦いで戦死します。
ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウス1世(大帝)(在位379年~395年)で、彼はゴート族を破った後和解し、394年には帝国最後の統一に成功しました。
その間、380年にはアタナシウス派キリスト教を信奉する事を命じ、キリスト教を国教とし、392年には他の全宗教を厳禁しました。
395年、彼は死に際して帝国を二人の子に分与した為、ローマ帝国は東西分裂は決定的と成り、西ローマ帝国は476年、ゲルマン民族大移動の混乱のなかで滅亡し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は以後1000年以上存続し、1453年に滅亡します。
ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動ですが、ローマ帝国は内部から崩壊した事も事実です。
ゲルマン人の侵入を防ぐ為に辺境の防衛に当たっていた軍隊はゲルマン人や異民族の傭兵に依存する事が多く、長い国境線を防備する為には多くの軍隊を必要とし、これら軍隊や官僚を雇う為に莫大な財源を必要とし、その財源を得る為に、都市に重税をかけたことから都市の没落を招いた事が要因として挙げられます。
その一方で都市から地方に移った有力者の大所領が国家から独立の傾向を示し、中央政府の支配力を弱体化させ、地方分権化が進む等、社会は次第に封建社会に近づきつつ在りました。
大所領経営にも大きな変化が発生しています。
共和制の末期から帝政の初期にかけて盛んであったラティフンディア(奴隷制農業にたつ大所領)は、奴隷制による経営が非能率である事(奴隷は鞭が怖くて働く振りをするだけで、奴隷が自ら進んで本気で働くとは思えない)、「ローマの平和」によって奴隷の流入が減少し、奴隷の価格が上昇した事、奴隷反乱の危険が絶えずある事等の理由から奴隷の大量使役は困難に成っていました。
そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させ、没落した自由農民を労働力として使役するようになります。
彼等はコロヌスと呼ばれ、土地と共に売買され、相続されるように成ります。
彼等は、コンスタンティヌス大帝が332年に発布した土地緊縛令によって移動を禁止され、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていきました。
このコロヌス制(コロナートゥス)は中世農奴制の先駆であり、有力者の大所領の独立と合わせて古代から中世への変化を示すものです。
都市の没落に伴い、商工業も衰退し、貨幣経済も次第に衰退して自然経済(物々交換)へと後退した結果、社会の頽廃、治安の悪化、人口の減少等ローマ帝国を衰退・滅亡へと向かわせる事と成ります。
ジョークは如何?
イギリスのチャーチルは議会で何かと物議をかもしだす人物であったことで有名である。
チャーチルが首相の時に議会である議員と言い合いになった。その議員は勢い余ってこう言ってしまった。
「あんたは酒のみの大馬鹿ものだ!」
チャーチルは激怒してこう言った。
「お前を裁判所へ訴えることにする。罪名は国家重要機密漏洩罪だ!」
これは実話であるという噂がある。
続く・・・

分割統治
(4)古代の終末
ディオクレティアヌス(在位284年~305年)はダルマティア(旧ユーゴスラヴィア西部)の貧農、解放奴隷の子として生まれ、一兵卒から皇帝の親衛隊長となり、皇帝ヌメリアヌスが暗殺された後、ニコメディア(小アジア西北部の都市)で軍隊に推されて帝位に就きました。
彼は広大な帝国を統治する為に同じ軍団のマクシミアヌスを第2の正帝に任命し、更に2人の副帝を置き、帝国の「四分統治」を成立させ、自らは東の正帝としてトラキア・アジア・エジプトを直轄し、さらに全帝国をも治めました。
再び統一と秩序を取り戻した帝国では、皇帝は「ドミヌス」(奴隷の主人の意味)と呼ばれ、市民は臣民となり、臣民は皇帝の前に出る時はペルシア風の跪拝(ひざまずいて拝礼をすること)をしなければ成りませんでした。
彼は又ローマ皇帝を現神として崇拝する皇帝崇拝を強要し、このような専制君主政を「ドミナートゥス」と呼称します。
彼は軍制の改革、行政改革、税制・幣制改革を推進し、更にインフレを抑制する為に最高価格令を発布したのですが、その効果は期待に反したものでした。

ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス( Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、 244年12月22日 - 311年12月3日・ローマ帝国皇帝(在位:284年 - 305年))
新しい政治体制を確立したディオクレティアヌスは、一方で古いローマの伝統の復活を図り、宗教の面では伝統的な多神教を崇拝します。
キリスト教に対して、即位以来20年間は寛大でしたが、303年~305年にわたって突然全帝国内で最後の、しかも今迄に記録された中で最も激しい大迫害を実行します。
キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことが最大の原因ですが、キリスト教を根絶する事は不可能で、その大迫害の中305年病気の為に退位します。

キリスト教徒迫害
四分統治は中心人物ディオクレティアヌスを失い崩壊が始まり、各地に実力者が現れ帝位を争う事と成りました。
四分統治時代の西の副帝であったコンスタンティウス1世の子であるコンスタンティヌス1世(大帝)(在位306年~337年)は、父の死後副帝に任じられ(306年)帝位争いに終止符が打たれます。
当時帝位を争う人物は6人に及び、彼は312年にマクセンティウスを、そして324年には最後の競争者のリキニウスを破って単独皇帝となり、ローマ帝国の再統一に成功しました。
312年にマクセンティウスとの戦いの時、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字が浮かび、これを旗印に戦って勝利したと伝えられています。
コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令」を発布して総ての宗教に対し信仰の自由を認め、禁教令を廃止し、ここにキリスト教は公認される事と成りました。
又リキニウスを破って単独皇帝となった頃から、ギリシア時代の都市ビザンティウムに新都の建設を始め、330年に治世25年を記念して遷都します。
新しい都は「コンスタンティヌスの都市(ポリス)」と名づけられ、コンスタンティノープル(現イスタンブル)と呼ばれるように成ります。
遷都の理由は千年の伝統を持ち、異教的伝統の強いローマのキリスト教化に見切りをつけた事、帝国にとってバルカン半島・小アジアの属州の重要性が強まっていた事、東方のササン朝ペルシアの侵入に備える為等が考えられます。

コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一の為に利用する事を考えますが、当時のキリスト教会内には多くの教理対立が存在し、統一を欠いていた事から、その教義の統一を図る為、325年小アジアのニケーアに司教、長老等約300人を集め公会議を開催しました。
このニケーア公会議(宗教会議)では、キリストの神性を否定するアリウス派(アリウスはアレクサンドリア教会の長老)を異端とし、キリストを神の子とするアタナシウス(アレクサンドリアの助祭)の主張する「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも同一である」とする「三位一体説」を正統教義として教義の統一を図ります。
内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改革を行い、又332年にコロヌスの土地緊縛令を発布し、本来自由な小作人であったコロヌスと呼ばれる農民を耕作している土地からの離散を無くし、逃亡した場合は連れ戻す権利を地主に与えました。
コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治しますが、長男と三男が非業の死を遂げ、次男が再び単独統治を行います。
彼は父の死の翌年に一族を皆殺しにしますが、この時難を逃れたコンスタンティヌス大帝の甥であるユリアヌスが、追放された後、副帝となりガリア遠征で戦績を上げ軍隊によって正帝に推戴され、コンスタンティウスの急死によって即位しました。
彼は即位すると公然と異教に改宗し、キリスト教徒を弾圧した為「背教者」と呼ばれ、内政では善政を行うものの、ササン朝遠征中に没しました。

ゲルマン民族のヨーロッパ大移動
ユリアヌスの死後、ローマ帝国の衰退は加速し、東方、北方から異民族が侵入を繰り返す様に成ります。
ヴァレンヌ帝(在位364年~378年)等は帝国の防衛に全力を注ぎますが、375年にはフン族の圧迫を受けた西ゴート族がドナウ川を越えてローマ領内に移動し、此処に「ゲルマン民族の大移動」が始まり、ヴァレンヌ帝はアドリアノープルの戦いで戦死します。
ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウス1世(大帝)(在位379年~395年)で、彼はゴート族を破った後和解し、394年には帝国最後の統一に成功しました。
その間、380年にはアタナシウス派キリスト教を信奉する事を命じ、キリスト教を国教とし、392年には他の全宗教を厳禁しました。
395年、彼は死に際して帝国を二人の子に分与した為、ローマ帝国は東西分裂は決定的と成り、西ローマ帝国は476年、ゲルマン民族大移動の混乱のなかで滅亡し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は以後1000年以上存続し、1453年に滅亡します。
ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動ですが、ローマ帝国は内部から崩壊した事も事実です。
ゲルマン人の侵入を防ぐ為に辺境の防衛に当たっていた軍隊はゲルマン人や異民族の傭兵に依存する事が多く、長い国境線を防備する為には多くの軍隊を必要とし、これら軍隊や官僚を雇う為に莫大な財源を必要とし、その財源を得る為に、都市に重税をかけたことから都市の没落を招いた事が要因として挙げられます。
その一方で都市から地方に移った有力者の大所領が国家から独立の傾向を示し、中央政府の支配力を弱体化させ、地方分権化が進む等、社会は次第に封建社会に近づきつつ在りました。
大所領経営にも大きな変化が発生しています。
共和制の末期から帝政の初期にかけて盛んであったラティフンディア(奴隷制農業にたつ大所領)は、奴隷制による経営が非能率である事(奴隷は鞭が怖くて働く振りをするだけで、奴隷が自ら進んで本気で働くとは思えない)、「ローマの平和」によって奴隷の流入が減少し、奴隷の価格が上昇した事、奴隷反乱の危険が絶えずある事等の理由から奴隷の大量使役は困難に成っていました。
そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させ、没落した自由農民を労働力として使役するようになります。
彼等はコロヌスと呼ばれ、土地と共に売買され、相続されるように成ります。
彼等は、コンスタンティヌス大帝が332年に発布した土地緊縛令によって移動を禁止され、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていきました。
このコロヌス制(コロナートゥス)は中世農奴制の先駆であり、有力者の大所領の独立と合わせて古代から中世への変化を示すものです。
都市の没落に伴い、商工業も衰退し、貨幣経済も次第に衰退して自然経済(物々交換)へと後退した結果、社会の頽廃、治安の悪化、人口の減少等ローマ帝国を衰退・滅亡へと向かわせる事と成ります。
ジョークは如何?
イギリスのチャーチルは議会で何かと物議をかもしだす人物であったことで有名である。
チャーチルが首相の時に議会である議員と言い合いになった。その議員は勢い余ってこう言ってしまった。
「あんたは酒のみの大馬鹿ものだ!」
チャーチルは激怒してこう言った。
「お前を裁判所へ訴えることにする。罪名は国家重要機密漏洩罪だ!」
これは実話であるという噂がある。
続く・・・
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コメント
トロイ:を見ました
(^_^)/お早うございます
∩_∩
(#´・ω・) 。◯ 元気に暮らしてますか?
#゚+。∪⌒∪⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒。+゚&
今日もよろしくお願いします
2014-06-11 06:24 流木庵{え~ちゃん} URL 編集