歴史を歩く23
キリスト教の成立と発展

イエス生誕
(1) キリスト教の成立
キリスト教の始祖はイエスですが、その生誕についてははっきり分かっていません。
現在では研究の結果、その誕生は紀元前4年頃となっています。
「新約聖書」の「福音書」(新約聖書の中のイエスの言行を記録した部分で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4者によるイエスの伝記)ではナザレ(パレスティナの北部)の大工ヨセフを父とし、母マリアとの子としてベツレヘム(イェルサレムの南)の馬小屋で生まれたとされています。
マリアが聖霊によって懐妊したこと、処女懐胎はよく知られていますが、幼少時代についてはほとんど解明されておらず、30才頃まで小村ナザレで成長し、そこで生活していたと思われます。

イエスの教え
30才の頃ユダヤの預言者ヨハネによってヨルダン川で悔い改めの洗礼を受け、メシア(救世主)であることを自覚し、「神の国は近づいた。悔い改めて福音(よい知らせの意味)を信ぜよ」と説き、ガリラヤ(ナザレのある地方)を中心に至る所で集まってくる群衆に教えを説いきました。
彼は、神は罪を自覚し、救いを求める全ての人々を救ってくれるという神の絶対愛と敵をも愛せよという隣人愛を説き、ヘブライ人(ユダヤ人)のみが救われるとする選民思想と律法(ユダヤ教の戒律)の形式的な遵守を排し、律法学者やパリサイ人(宗教儀礼を極端に重視したユダヤ教徒の一派)と対立したのです。
彼の説教と病気を直す等の数々の奇跡によってイエスの名声は高まり、彼の教えはローマ帝国と富裕者の重圧に苦しむユダヤの民衆に受け入れられ、多くの人々が彼につき従うように成って行きます。彼の説教のなかでも、「マタイによる福音書」第5章「こころ貧しき人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」に始まる「山上の垂訓」は特に有名です。

イエスと使徒
イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネ等の12人の弟子を選び(12使徒)伝道を助けさせ、ガリラヤからイェルサレムに入ってその神殿の内外で説教を行い、当時のユダヤ教の指導者たちを批判しました。ユダヤ教の祭司・律法学者・パリサイ人等はイエスを捕らえ、審問にかけようとしたが、彼はそのことを悟り、12人の弟子と共に「最後の晩餐」を囲み、この中に裏切り者がいること、その訴えにより自分は捕らえられるであろう事を弟子たちに告げます。(情景を描いた絵画が有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」)そしてユダの手引きによって捕らえられ、ユダヤ評議会の審問で神への不敬罪とされ、ローマ帝国への反乱を企てる者としてローマ帝国ユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスに訴えられ、紀元後30年頃、イェルサレム郊外ゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられました。
ティベリウス帝(第2代ローマ皇帝)の時代でした。

ゴルゴタの丘へ
ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に復活するとする信仰が弟子達の間に生まれ、彼こそ「メシア(救世主)」(そのギリシア語訳がキリスト)である、神のひとり子が全ての人々の罪をあがなう為に十字架に架けられて死んだと信じられ、「主キリスト」を礼拝するキリスト教が成立したのです。
(2) キリスト教の発展

ローマの大火を見るネロ
キリスト教は以後、ペテロ、パウロ等の使徒達によってシリア、小アジア等パレスティナ以外の地に広められていきました。
特に「異邦人の使徒」とよばれるパウロは、当初熱烈なユダヤ教徒でキリスト教徒を弾圧していのですが、ダマスカス城外で天からの光に打たれ、復活したイエスの声を聞いて回心し、以後熱心な伝道者となり、小アジアからギリシアに伝道し、61年頃には首都ローマに行き、ペテロと共にローマ伝道に力を尽くします。
64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け、当時人口100万人と言われたローマの市街の大半が消失したのは、有名な「暴君ネロ」の治世の時でした。
この時ネロが新しい、そして自分の名前を付けた新しい都を建設する為、ローマ旧市街に放火させ、焼き払わせたという噂がたち、民衆が暴動を起こしそうに成りました。
ネロはこの噂を消す為に放火をキリスト教徒に被せ、多くの信者を捕らえ、十字架の刑、火あぶりの刑、更には獣の皮を被せて猛犬にかみ殺させる弾圧を行います。

聖ペテロの殉教
当時、キリスト教信仰はもちろん許されておらず、信者達はカタコンベと呼ばれる古代ローマ人の地下納骨墓に夜ひそかに集まって礼拝を行っていました。
ローマには総延長560kmに及ぶカタコンベが存在したと云われ、しかもローマ人は墓所を神聖視し、役人も立ち入らなかった為、キリスト教徒達が集会・礼拝所として利用するには、格好に場所だったのです。
その為一般のローマ人から誤解され、魔術を行う、幼児の血を吸う、人肉を食べる、果ては近親相姦、獣姦を行っている等、悪いイメージばかりが噂に上り、ローマの良き伝統を汚す者である云われていました。
ネロはこの流言飛語を巧み利用し、放火の罪を被せることによって彼らを弾圧したのです。
このネロの迫害の時、難を逃れてローマ市街を出たペテロは朝霧の中でキリストの姿を幻視し、「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこに、行きたもう)と尋ねると、「私はローマへ行き、十字架に掛かるのだ」と答えられたので、ペテロは今の自分の行いを恥じ、ローマへ戻り、やがて逆さ吊りの十字架に掛かって殉教した伝説が生まれました。
この物語を題材とした作品が、ポーランド人シェンキェヴィッチの名作「クオ・ヴァディス」(1896刊)で1905年にノーベル文学賞を受賞しています。(第1回ノーベル賞は1901年)
キリスト教は当時のローマの多神教と相いれず、又ローマ皇帝を神として崇拝する皇帝崇拝をも拒否した結果、度々迫害を受けることと成り、多くの殉教者を出しています。
しかし、度重なる迫害にも拘わらず、まずこの世の生活になんら希望を見だせない奴隷をはじめとする下層民の間に普及し、次第に上流社会にも広がって行き、この間に各地に信者の団体である教会が生まれて行きました。
又マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによるイエスの言行を記録した「福音書」、使徒の活躍を述べた「使徒行伝」、書簡集を集めた「新約聖書」がヘレニズム世界で広く使われたギリシア語(コイネーと呼ばれる)で2世紀中頃迄に書物の姿に集約されます。
しかし、現在の形の「新約聖書」が正式に公認されるのは397年のことなのです。

コンスタンティヌスの洗礼
歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒は増大の一途を極め、4世紀初頭、ディオクレティアヌス帝による大迫害の後、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であると悟らせるに至り、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用しようと考えた人物が、コンスタンティヌス帝でした。
当時、西の副帝であったコンスタンティヌス帝は、6人と帝位を争っていましたが、順次政敵を破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字を眺め、それを旗印に戦って勝利を得た結果、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督宛の書簡の形でキリスト教の信仰を公認します。
これが有名な「ミラノ勅令」です。
コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一の為に利用しょうとしたのですが、この時代になると教会内にも教義の対立が生じ始め、教義の統一を計る為小アジアのニケーアに全教会の司教、長老など約300人を集め、「ニケーアの公会議」を開き、激しい論争の末、「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも本質的には同一である」という三位一体説を唱えたアレクサンドリアの助祭のアタナシウス(295年頃~373年)の説を正統とし、アレクサンドリア教会の長老のアリウス(250年頃~336年)のキリストの神性を否定し、人性を重んじる、いわゆるアリウス派を異端としました。
この為ローマ帝国から追放されたアリウス派は以後ゲルマン人の間に広まって行く結果と成ります。

ニケーアの公会議
キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユリアヌス(在位361年~363年)はギリシア文化に心酔し、ミトラ教等の密儀宗教を崇拝し、即位後異教に改宗し、キリスト教を弾圧したため「背教者」と呼ばれました。
その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、392年には他の宗教を厳禁とします。
その後もさまざまな教説が現れ異端とされた。特に431年に開かれたエフェソス公会議でコンスタンティノープルの総大司教であったネストリウス(?~451年頃)は、イエスと聖母マリアの神性説に反対し、イエスについては神・人両性説をマリアについては非聖母説を唱え、異端を宣告され、国外追放となりました。
彼の説はササン朝ペルシアを経て唐代の中国に伝わり、景教と呼ばれ栄えた様子は、長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」に詳しく書かれています。
この頃迄に教会の組織化が進み、聖職者身分が成立すると共に、「教父」と呼ばれるキリスト教の正統教義の確立に努めた多くの学者が現れました。
特にアウグスティヌス(354年~430年)は最大の教父・神学者で在り、彼の母は熱心なキリスト教徒でしたが、彼は放縦な生活に溺れ、肉欲に苦しみ、一時マニ教に帰依したものの、後に母の祈りに心を動かされ、回心を決意して、回心してからは異教や異端との激しい論争を通して正統教義の確立に努めました。
彼の著書「神の国」(神国論)はアラリックのローマ荒掠をキリスト教の責任と非難したのに対して擁護したものでキリスト教歴史哲学の基礎と成りました。
又「告白録」は三大告白録の1つとして有名です。
ジョークは如何?
共産党の地区オルグ。中央から派遣された委員が共産主義社会の成果について得々と語る。
「わが国の肉や小麦生産は飛躍的に向上している。」
会場から質問。
「その肉や小麦は何処に行ったんですか?」
演説に水を差された委員がみるみる不機嫌そうに・・・
次の月のオルグ。
あいかわらず景気のいい演説。すると会場から「質問」の声が。
「なんだ?ここの地区は質問が多いな?肉や小麦の質問なら先月回答したはずだ。」
質問者。
「いいえ、同志委員。肉や小麦のことはいいんですけど、先月質問した奴は何処に行ったんですか?」
続く・・・

イエス生誕
(1) キリスト教の成立
キリスト教の始祖はイエスですが、その生誕についてははっきり分かっていません。
現在では研究の結果、その誕生は紀元前4年頃となっています。
「新約聖書」の「福音書」(新約聖書の中のイエスの言行を記録した部分で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4者によるイエスの伝記)ではナザレ(パレスティナの北部)の大工ヨセフを父とし、母マリアとの子としてベツレヘム(イェルサレムの南)の馬小屋で生まれたとされています。
マリアが聖霊によって懐妊したこと、処女懐胎はよく知られていますが、幼少時代についてはほとんど解明されておらず、30才頃まで小村ナザレで成長し、そこで生活していたと思われます。

イエスの教え
30才の頃ユダヤの預言者ヨハネによってヨルダン川で悔い改めの洗礼を受け、メシア(救世主)であることを自覚し、「神の国は近づいた。悔い改めて福音(よい知らせの意味)を信ぜよ」と説き、ガリラヤ(ナザレのある地方)を中心に至る所で集まってくる群衆に教えを説いきました。
彼は、神は罪を自覚し、救いを求める全ての人々を救ってくれるという神の絶対愛と敵をも愛せよという隣人愛を説き、ヘブライ人(ユダヤ人)のみが救われるとする選民思想と律法(ユダヤ教の戒律)の形式的な遵守を排し、律法学者やパリサイ人(宗教儀礼を極端に重視したユダヤ教徒の一派)と対立したのです。
彼の説教と病気を直す等の数々の奇跡によってイエスの名声は高まり、彼の教えはローマ帝国と富裕者の重圧に苦しむユダヤの民衆に受け入れられ、多くの人々が彼につき従うように成って行きます。彼の説教のなかでも、「マタイによる福音書」第5章「こころ貧しき人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」に始まる「山上の垂訓」は特に有名です。

イエスと使徒
イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネ等の12人の弟子を選び(12使徒)伝道を助けさせ、ガリラヤからイェルサレムに入ってその神殿の内外で説教を行い、当時のユダヤ教の指導者たちを批判しました。ユダヤ教の祭司・律法学者・パリサイ人等はイエスを捕らえ、審問にかけようとしたが、彼はそのことを悟り、12人の弟子と共に「最後の晩餐」を囲み、この中に裏切り者がいること、その訴えにより自分は捕らえられるであろう事を弟子たちに告げます。(情景を描いた絵画が有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」)そしてユダの手引きによって捕らえられ、ユダヤ評議会の審問で神への不敬罪とされ、ローマ帝国への反乱を企てる者としてローマ帝国ユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスに訴えられ、紀元後30年頃、イェルサレム郊外ゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられました。
ティベリウス帝(第2代ローマ皇帝)の時代でした。

ゴルゴタの丘へ
ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に復活するとする信仰が弟子達の間に生まれ、彼こそ「メシア(救世主)」(そのギリシア語訳がキリスト)である、神のひとり子が全ての人々の罪をあがなう為に十字架に架けられて死んだと信じられ、「主キリスト」を礼拝するキリスト教が成立したのです。
(2) キリスト教の発展

ローマの大火を見るネロ
キリスト教は以後、ペテロ、パウロ等の使徒達によってシリア、小アジア等パレスティナ以外の地に広められていきました。
特に「異邦人の使徒」とよばれるパウロは、当初熱烈なユダヤ教徒でキリスト教徒を弾圧していのですが、ダマスカス城外で天からの光に打たれ、復活したイエスの声を聞いて回心し、以後熱心な伝道者となり、小アジアからギリシアに伝道し、61年頃には首都ローマに行き、ペテロと共にローマ伝道に力を尽くします。
64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け、当時人口100万人と言われたローマの市街の大半が消失したのは、有名な「暴君ネロ」の治世の時でした。
この時ネロが新しい、そして自分の名前を付けた新しい都を建設する為、ローマ旧市街に放火させ、焼き払わせたという噂がたち、民衆が暴動を起こしそうに成りました。
ネロはこの噂を消す為に放火をキリスト教徒に被せ、多くの信者を捕らえ、十字架の刑、火あぶりの刑、更には獣の皮を被せて猛犬にかみ殺させる弾圧を行います。

聖ペテロの殉教
当時、キリスト教信仰はもちろん許されておらず、信者達はカタコンベと呼ばれる古代ローマ人の地下納骨墓に夜ひそかに集まって礼拝を行っていました。
ローマには総延長560kmに及ぶカタコンベが存在したと云われ、しかもローマ人は墓所を神聖視し、役人も立ち入らなかった為、キリスト教徒達が集会・礼拝所として利用するには、格好に場所だったのです。
その為一般のローマ人から誤解され、魔術を行う、幼児の血を吸う、人肉を食べる、果ては近親相姦、獣姦を行っている等、悪いイメージばかりが噂に上り、ローマの良き伝統を汚す者である云われていました。
ネロはこの流言飛語を巧み利用し、放火の罪を被せることによって彼らを弾圧したのです。
このネロの迫害の時、難を逃れてローマ市街を出たペテロは朝霧の中でキリストの姿を幻視し、「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこに、行きたもう)と尋ねると、「私はローマへ行き、十字架に掛かるのだ」と答えられたので、ペテロは今の自分の行いを恥じ、ローマへ戻り、やがて逆さ吊りの十字架に掛かって殉教した伝説が生まれました。
この物語を題材とした作品が、ポーランド人シェンキェヴィッチの名作「クオ・ヴァディス」(1896刊)で1905年にノーベル文学賞を受賞しています。(第1回ノーベル賞は1901年)
キリスト教は当時のローマの多神教と相いれず、又ローマ皇帝を神として崇拝する皇帝崇拝をも拒否した結果、度々迫害を受けることと成り、多くの殉教者を出しています。
しかし、度重なる迫害にも拘わらず、まずこの世の生活になんら希望を見だせない奴隷をはじめとする下層民の間に普及し、次第に上流社会にも広がって行き、この間に各地に信者の団体である教会が生まれて行きました。
又マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによるイエスの言行を記録した「福音書」、使徒の活躍を述べた「使徒行伝」、書簡集を集めた「新約聖書」がヘレニズム世界で広く使われたギリシア語(コイネーと呼ばれる)で2世紀中頃迄に書物の姿に集約されます。
しかし、現在の形の「新約聖書」が正式に公認されるのは397年のことなのです。

コンスタンティヌスの洗礼
歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒は増大の一途を極め、4世紀初頭、ディオクレティアヌス帝による大迫害の後、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であると悟らせるに至り、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用しようと考えた人物が、コンスタンティヌス帝でした。
当時、西の副帝であったコンスタンティヌス帝は、6人と帝位を争っていましたが、順次政敵を破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字を眺め、それを旗印に戦って勝利を得た結果、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督宛の書簡の形でキリスト教の信仰を公認します。
これが有名な「ミラノ勅令」です。
コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一の為に利用しょうとしたのですが、この時代になると教会内にも教義の対立が生じ始め、教義の統一を計る為小アジアのニケーアに全教会の司教、長老など約300人を集め、「ニケーアの公会議」を開き、激しい論争の末、「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも本質的には同一である」という三位一体説を唱えたアレクサンドリアの助祭のアタナシウス(295年頃~373年)の説を正統とし、アレクサンドリア教会の長老のアリウス(250年頃~336年)のキリストの神性を否定し、人性を重んじる、いわゆるアリウス派を異端としました。
この為ローマ帝国から追放されたアリウス派は以後ゲルマン人の間に広まって行く結果と成ります。

ニケーアの公会議
キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユリアヌス(在位361年~363年)はギリシア文化に心酔し、ミトラ教等の密儀宗教を崇拝し、即位後異教に改宗し、キリスト教を弾圧したため「背教者」と呼ばれました。
その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、392年には他の宗教を厳禁とします。
その後もさまざまな教説が現れ異端とされた。特に431年に開かれたエフェソス公会議でコンスタンティノープルの総大司教であったネストリウス(?~451年頃)は、イエスと聖母マリアの神性説に反対し、イエスについては神・人両性説をマリアについては非聖母説を唱え、異端を宣告され、国外追放となりました。
彼の説はササン朝ペルシアを経て唐代の中国に伝わり、景教と呼ばれ栄えた様子は、長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」に詳しく書かれています。
この頃迄に教会の組織化が進み、聖職者身分が成立すると共に、「教父」と呼ばれるキリスト教の正統教義の確立に努めた多くの学者が現れました。
特にアウグスティヌス(354年~430年)は最大の教父・神学者で在り、彼の母は熱心なキリスト教徒でしたが、彼は放縦な生活に溺れ、肉欲に苦しみ、一時マニ教に帰依したものの、後に母の祈りに心を動かされ、回心を決意して、回心してからは異教や異端との激しい論争を通して正統教義の確立に努めました。
彼の著書「神の国」(神国論)はアラリックのローマ荒掠をキリスト教の責任と非難したのに対して擁護したものでキリスト教歴史哲学の基礎と成りました。
又「告白録」は三大告白録の1つとして有名です。
ジョークは如何?
共産党の地区オルグ。中央から派遣された委員が共産主義社会の成果について得々と語る。
「わが国の肉や小麦生産は飛躍的に向上している。」
会場から質問。
「その肉や小麦は何処に行ったんですか?」
演説に水を差された委員がみるみる不機嫌そうに・・・
次の月のオルグ。
あいかわらず景気のいい演説。すると会場から「質問」の声が。
「なんだ?ここの地区は質問が多いな?肉や小麦の質問なら先月回答したはずだ。」
質問者。
「いいえ、同志委員。肉や小麦のことはいいんですけど、先月質問した奴は何処に行ったんですか?」
続く・・・
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コメント
こんばんは
この虐殺でネロはキリスト教徒にとって、悪魔として捉えられました。
ネロの名を数字に変えると666。
そのため、666は獣の数になりましたね。
2014-06-22 22:15 kopanda06 URL 編集