2014/06/26

歴史を歩く24

<イラン文明その①>

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エデッサの戦い・ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としたシャープール1世

(1)パルティアとササン朝

 インド=ヨーロッパ語族のイラン(ペルシア)人は、南ロシアからイラン高原に移動し、遊牧民や農耕民として定住しました。
イラン人最初の国家はメディア(紀元前8世紀末~紀元前550年 )、次いで大帝国アケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)を建国しましたが、この国はアレクサンドロス大王によって滅ぼされます。
アレクサンドロス大王の死後、イラン高原はギリシア系のセレウコス朝シリア(紀元前312年~紀元前63年)の支配下に置かれ、セレウコス朝はアレクサンドロス大王の政策を継承し、イラン各地にもギリシア人植民市を建設し、ギリシア人を移住、入植させました。

セレウコス朝シリア
セレウコス朝シリアの版図

 しかし、セレウコス朝の支配力の低下とともに、各地の有力者が王朝を築いて独立します。
最も早く離反した地域は、アム川上流域のバクトリアで、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立して王国を形成します。
このギリシア人が中央アジアに建国したバクトリア王国(紀元前255年頃~紀元前139年)は、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じて、西北インドにまで進出して最盛期を迎え、その後、西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民の圧迫を受けて弱体化し、紀元前139 年スキタイ系のトハラ人によって滅ぼされました。

バクトリア・パルティア
バクトリア。パルティアの版図

 バクトリア王国の建設に刺激されてイラン系遊牧民パルニの族長であったアルサケス(ティリダテス1世)(生没年不明)が弟とともにセレウコス朝に反乱を起こし、イラン北東部のホラサーンの地に逃れ、遊牧民、定住農耕民をまとめて紀元前248 年頃建国した国がパルティア(紀元前248年~後226年)です。
中国ではアルサケスの名の音訳から安息と呼ばれました。

 パルティアはセレウコス朝を圧迫して領土を広げ、紀元前2世紀ミトリダテス1世(アルサケス6世)(在位紀元前171年頃~紀元前138年頃)は、西はユーフラテス川から東はインダス川に至る大帝国を築き、東西貿易路(シルク・ロード)の要所を押さえ、最盛期を迎えました。
都は最初ヘカトンピュロスに置かれ、メソポタミアに進出後はティグリス川流域のクテシフォンに定められ、ローマがセレウコス朝を滅ぼし(紀元前63年)更に東方に進出してくるとメソポタミア地方を中心にローマ帝国と激しい攻防をくり返します。
ローマとの200 年にわたる激しい攻防によってパルティアの国力は次第に衰え、3世紀に入るとササン朝の攻撃を受け、紀元後226年首都クテシフォン陥落、王国は30代で滅亡しました。

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ミトリダテス1世時代のコイン

 パルティアは文化的には、当初ギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受け、ミトリダテス1世の治世前半に鋳造された貨幣には「ギリシア文化の愛好者」の銘が刻まれています。
しかし紀元後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなっていきました。

 パルティアは実に約500年間にわたって存続しましたが、ギリシア・ローマ・中国に比較して日本人の知名度は高く在りません。
此れは、彼等が遊牧民で文字による記録を残してないことも原因の1つであろうと思われます。

ササン朝ペルシア
ササン朝ペルシアの版図

 ササン朝ペルシア(226年~651年)の創始者であるアルデシール1世(在位226年~241年)は、アケメネス朝の都であったペルセポリス付近の貴族から次第に勢力を拡大しパルティア王と対立するように成りました。
226 年パルティア王を破り、首都クテシフォンを占領し、全ペルシアの王となります。
彼はイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教とし(230年)、彼等の力を統治に利用して国の統一を図りました。

 第2代皇帝シャープール1世(在位241年~272年)は有能で有ると同時に秀でた武人でした。
彼は「イラン人及び非イラン人の諸王の王」という称号を名乗り、中央集権国家の建設に努め、東方のクシャーナ朝を破ってアフガニスタンに進出、西方ではローマ帝国と連年にわたって抗争を繰り返します。
特にエデッサの戦い(260年)ではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とし、ヴァレリアヌスがシャープールに跪くレリーフが岩壁に刻まれた戦勝記念碑に残されています。

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エデッサの戦い・ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としたシャープール1世

 第10代皇帝シャープール2世(在位310年~379年)も英主として知られ、ローマ帝国と抗争は一段と激しいものに成りました。
ササン朝は5世紀後半、中央アジアのイラン系遊牧騎馬民族であるエフタル(中国名は白匈奴)の侵入を受けて東方の領土を失い、国家と社会は混乱に陥りますが、混乱を鎮め国を再興した人物が、ササン朝最大の名君とされる第21代皇帝のホスロー1世(在位531年~579年)です。
対外的にはビザンツ皇帝のユスティニアヌス1世とシリアをめぐって激しく抗争し、562 年にはアンティオキアを攻略して講和を結び、更に当時中央アジアで急速に台頭してきた突厥と同盟して、今まで苦しめられてきたエフタルを東西から挟撃し(566年~567年)、終にはこれを滅ぼしてバクトリア地方を奪回しました。
国内では貴族を押さえて専制体制を強化し、地租制度の確立・灌漑・農業に力を注ぎ国を繁栄させ、ササン朝の黄金時代を築いています。

 しかし、その後内紛が続き、国力は次第に弱体化し、最後の皇帝ヤズディギルド3世(在位632年~651年)の治世642年ニハーヴァンドの戦いでアラブに敗れ、ササン朝は事実上崩壊し、王は651年に中央アジアのメルヴで殺害され、ササン朝は名実ともに滅亡しました。

ジョークは如何?

働かざる者食うべからず!

いまやソ連は共産主義に向かって行進しているのに、なぜ相変わらず食料が欠乏しているのでしょうか?

「行進中に、ものを食ったりはしない。」

続く・・・
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コメント

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イランも王国の時代があったんだ

ヽ(^▽^@)ノいつもありがとうございます
;* ☆_+ 昨日京都は33.5℃でした
__,..-‐‐:、、,へ....._
    く '´:::::::ヽ   暑いですね
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  =  {o:::::::( ´・ω・) ショボーン
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