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2014/07/17

歴史を歩く29

<8東南アジアの諸文明>

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本文に登場する国々の位置関係

◎インド文化の普及と東南アジア文化の形成

 現在の東南アジアの地域では、隣接する2つの文明、中国文明とインド文明の影響を受け、古くから多くの民族により独自の文化・国家が形成されてきました。

 ヴェトナム北部は早くから中国文化の影響を受け青銅・鉄器文化が形成されており、紀元前3世紀頃から紀元前1世紀頃にかけて繁栄したドンソン文化は、1924年に発見されました。
一方インド文化は1世紀頃からインドシナ半島に伝播しています。

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扶南銀銭

 インドシナ半島で最初に栄えた国は、1、2世紀頃から7世紀にかけてメコン川下流域で隆盛を極めた扶南で、この国はクメール人若しくはインドネシア系人種が、インド文化の影響のもとに建国し、支配者はインド系でサンスクリット語が公用語とされました。
宗教はバラモン教と仏教を受け入れています。

 当時のインドシナでは、インド文化を受け入れて国家体制を整えることが、周辺の人々を容易に服属させる原動力であり、支配者層はインド文化の受け入れによって支配の正当性と強化を図ったのでした。

 扶南はカンボジアを中心に、インドシナ東海岸・南部一帯、マライ半島の一部に迄領土を拡大し、1、2世紀頃から盛んとなる東南アジアとインド間の海上貿易の要衝を押さえ、中国の呉やインドのクシャン朝とも外交・通商関係を持っていました。
又海上貿易により莫大な利益を得て、特に3世紀頃から6世紀頃にかけて最盛期を迎えます。
しかし、6世紀頃から真臘の圧迫を受けて衰退し、7世紀中頃滅亡しています。

 カンボジアで扶南が栄えていた頃、ヴェトナム南部を中心に栄えた国がチャムパーで、チャムパーはチャム人(インドネシア系)が建国し2世紀末から15世紀後半迄1000年以上にわたって存続しました。
中国の史書には林邑、環王、占城の名で記録されています。

 林邑は192年に後漢の衰退に乗じて独立し、8世紀中頃交ぜ栄えました。
当初は中国文化、5世頃にインド文化が流入し、その影響を強く受けたのですが、隋の侵入を撃退したものの、唐には朝貢し、林邑も扶南と競合しながら海上貿易で繁栄します。

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チャンパーと周辺諸国

 8世紀中頃になるとチャムパーの中心が南方に移動し、この国は中国では環王と呼ばれ、環王は9世紀中頃には衰退していきます。

 8世紀後半チャムパーの中心が再び中部に戻り、以後のチャムパーは中国で占城と呼ばれます。
10世紀以後ヴェトナムが南下し、特に11世紀以後は李朝の圧迫を受け、しかも11世紀から13世紀初頭には真臘の侵入・支配を受け、13世紀前半にヴェトナムの陳朝の出現により衰退し、13世紀後半にはモンゴルの侵入を受け、15世紀には黎朝の南下により急速に衰退し、1471年に滅亡しました。

 占城も海上中継貿易によって国力を維持し発展しますが、中国では宋・元時代の技術の進歩(羅針盤の実用化、大船の建造など)によって、13世紀頃から中国が海上に進出し、東南アジアやインドと直接取引を行い、チャムパーの経済的基盤が失われ、国力の衰退を招きました。

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アンコール・ワット

 扶南や林邑が繁栄していた頃、メコン川の中・下流域ではクメール人(カンボジア人)の真臘が勃興します。
真臘も扶南やチャムパーと同じく「インド化された国」の1つで、真臘は6世紀中頃に扶南から独立し、7世紀中頃には扶南を滅ぼして大勢力を形成し、8世紀初頭から9世紀初頭にかけて、北の陸真臘と南の水真臘に分裂しますが、9世紀初めに再統一を果たし、9世紀から13世紀にかけてのクメール朝(アンコール朝)時代に全盛期を迎えます。

 12世紀前半に出たスールヤヴァルマン2世(在位1113年~45年)は王都アンコール・トムの南に壮大なアンコール・ワット(首都の寺の意味)を造営しました。
アンコール・ワットはヴィシュヌ神(ヒンドゥー教の神)に神格化された国王を祭り、死後はその墓所と成ります。
完成には約30年間を要したと云えられ、最初はヒンドゥー教寺院として建立され、後に仏教寺院と成り、長らく密林の中に埋没していたのですが1861年に欧米正解に紹介されました。

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アンコール・トム平面図

 12世紀から13世紀初頭に在位したジャヤヴァルマン7世の治世にクメール朝の領土は最大と成り、王は又現存する王都アンコール・トム(大きな都の意味)の造営を行いました。
クメール朝は内陸農業国家の典型で、水の確保・管理は国王にとって最も重要な事業で在り、9世紀から13世紀にわたって繁栄した真臘は、13世紀以後はタイのスコータイ朝の侵入を受けて衰退し、15世紀には同じくタイのアユタヤ朝の侵入を受け、アンコールを占領され、アンコール時代は終焉します。

 メナム川下流域では、7世紀にモン人の国家であるドヴァーラヴァティーが、扶南の弱体化に乗じて自立し、この国は扶南の商業活動の影響を強く受け、銀銭を使用し、又仏教文化も栄えたのですが、 8世紀初頭以後は衰退に転じ、変わってメナム川上流域に同じモン人の国であるパリプンジャヤが興り、8世紀から13世紀頃迄存続しました。
この間の11世紀から12世紀にはクメール朝と対抗しましが、13世紀末にはタイ人の活動が盛んとなるなかで滅亡します。

 同じ頃イラワディ川の中流・下流域ではビルマ・チベット系のピュー(驃)人の国家が現れ、8世紀頃プロームを中心に繁栄しました。
この国では仏教が盛んでしたが、9世紀になると衰え始め、11世紀にはパガン朝(1044年~1287年)に併合されます。

 ミャンマーの沿海地方に定住していたモン人は、9世紀ペグーに都を置くモン人の国家を形成しました。
彼らは早くからインドと文化的関係を持ち、海上貿易に活躍し、又この国では上座部(小乗)仏教が栄えました。

 シナ・チベット族のビルマ人は、7世紀頃から数世紀に渡って南下・定住し、 ピュー人の衰退に乗じて、9世紀頃パガンに中心を置き、その後勢力を拡大、11世紀にはミャンマーのほぼ全域を支配下に置くビルマ最初の統一王朝であるパガン朝(1044年~1287年)が成立します。

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ボロブドゥール仏教遺跡・シャイレーンドラ朝時代

 諸島部では、シュリーヴィジャヤ(中国名、室利仏逝)が7世紀に興り、14世紀迄続きました。
スマトラ島南部から興ったシュリーヴィジャヤは、6世紀から7世紀に扶南が衰退・滅亡していく好機に乗じて海上貿易に進出し、マラッカ海峡を勢力圏下に治めて発展し、唐僧、義浄は7世紀後半にこの国を訪れ、「南海寄帰内法伝」を執筆しています。

 シュリーヴィジャヤは、8世紀から9世紀中頃にかけてシャイレーンドラ朝の興隆に押されて弱体化して行きます。

 シャイレーンドラ朝は8世紀半ばから9世紀前半にかけて、ジャワ島中部を中心に栄え、有名な仏教遺跡であるボロブドゥールを造営しました。
ボロブドゥールは1辺約120m四方の基壇に方形・円形の壇がピラミッド状に重なって出来た石造の大ストゥーパで、多くの石仏・仏塔・回廊の浮き彫りなどで名高い仏教遺跡です。

 一時弱体化したシュリーヴィジャヤは、10世紀には再び繁栄を取り戻し、全盛期を迎えますが、その背景には8~9世紀に東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易が急速に発展したことが挙げられます。
この東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易をほぼ独占した国家が シュリーヴィジャヤでした。
全盛期にはマライ半島の大部分、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島更にフィリピンを含む一大海上帝国と形成します。

 しかし、シュリーヴィジャヤは13世紀にはいると、イスラム商人の進出等により、海上貿易独占の利益を失い、海上帝国の支配組織が崩れ始め、14世紀にはジャワ島のマジャパヒト王国の台頭によって衰亡して行きました。

ジョークは如何?

ナチス時代の地獄のドイツ。
動物園から逃げたライオンが目前、危うし!の少女を一人の勇敢な若者が救った。

新聞のインタビューに答えて曰く「・・・実は私はユダヤ人です.」

翌日の朝刊の第一面トップ「ユダヤ人、無抵抗のライオンを虐殺」

続く・・・
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コメント

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アンコール∹ワット一度行きました

今全英オープンを見ています
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