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2014/07/21

歴史を歩く30

<9黄河文明>

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位置関係図

1 黄河文明

 黄河文明は黄河の中・下流域を中心に栄えた古代文明で、新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化を経て、殷・周の青銅器文化に発展して行きました。
1921年、スェーデンの地質学兼考古学者アンダーソン(1874年~1960年)は、河南省の仰韶村で彩文土器を発掘し、更に翌年の発掘作業によって竪穴住居跡が発見され、又多くの磨製石斧・彩陶等の土器が出土しました。

 アンダーソンは周口店洞穴の発見者でもあり、北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)の発掘の端緒をつくった人物です。

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彩陶

 紀元前5000年~紀元前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土地帯で勃興した、中国最初の農耕文化は最初に発見された遺跡にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれ、1954年に発掘された西安の東に位置する半坡(はんぱ)村の集落遺跡は後期に属しますが、こちらも仰韶文化の代表的な遺跡です。

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三足土器

 仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼育し、又鹿等の狩猟も行いました。
主として竪穴住居に居住し、集落を形成し、石斧・石包丁等の磨製石器や彩陶を使用していました。 仰韶文化を代表する出土品は彩陶であることから、仰韶文化は彩陶文化とも呼ばれます。
彩陶は薄い赤色の地に赤・白・黒等の色を使用して文様が施されている素焼きの土器で、甕・鉢・碗型のものが多く、焼成温度は約1000度位です。
尚、彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものとする、オリエント伝来説がアンダーソン以来提唱されています。

 1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになりました。黒陶文化は代表遺跡の竜山に因み竜山文化とも呼ばれます。
黒陶は薄手で精巧に作られた黒色の土器で轆轤も使用され、器形は鬲(れき、湯沸し、蒸す作業に使う)・鼎(てい、物を煮ることに使う)等の三足土器が特徴的ですがその種類は多様です。
焼成温度は約1000度以上とされています。

 竜山文化期(紀元前2000年~紀元前1500年頃)になると農具・農業技術は更に進歩し、その結果、仰韶文化期よりも遥かに大きな集落(邑)が形成されるように成り、この大集落が後に都市国家に発展して行きます。

2 殷と周

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殷墟遠景

殷①

 黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現し争う中から、多くの都市国家を支配する有力な王が出現しますが、今日確認されている最古の王朝は殷とされています。

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司馬遷(紀元前145年/135年頃 – 紀元前87年/86年頃)

 中国漢代の著名な歴史家・司馬遷は「史記」の中で、中国史を三皇五帝から始め、(夏)・殷・周・秦・漢王朝の歴史を記述しています。
三皇五帝(中国史上伝説の帝王)の内、三皇は伏羲(ふくぎ、漁労の発明者)・神農(農業の発明者)・燧人(すいじん、火食の発明者)の三人の神を指し、この三皇に続いて五帝を記述しています。

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三皇五帝

 五帝は黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝こく(黄帝の曾孫)・尭・舜で、特に尭・舜は理想の聖君主とされ、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられました。
尭は舜に位を譲り、舜は黄河の治水に功のあった禹に位を譲ったとされています。
禹は黄河の治水に成功して、舜から譲位されて帝位に就き夏王朝を創始しました。

 夏王朝は以後17代450年間存続しますが、暴君桀(けつ、殷の紂とならんで暴虐な君主の代名詞となる)が登場し「酒池肉林」に耽り、暴政を行った結果、殷の湯王に滅ぼされたと司馬遷の「史記」には記述されていますが、現在のところその実在を証明する遺跡等は発見されていません。
現在の段階では伝説上の王朝に成りますが、将来実在を証明する遺跡等が発見される可能性はあると思われます。
従って現在確認できる中国最古の王朝は殷なのですが、その殷も実在が証明される様になったのは20世紀に入ってからのことでした。

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「竜の骨」

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甲骨文字

 1899年、王懿栄がマラリヤの持病に悩まされ、「竜の骨」が特効薬で良く効くと教えられ、薬屋からそれを買い求めました。
その「竜の骨」は地中から掘り出された動物の骨で、良く観察すると骨の表面に文字らしきものが刻まれています。
学者である王氏は、薬屋に出向きその出所をやっと聞き出し、「竜の骨」の蒐集に務めたのですが、薬屋は出所の秘密を守る為に他所の地を教えていました。

 王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県郊外の小屯村(殷の後半の都があった所)を発掘し、そこから甲骨文字(漢字の原型になった文字)を刻印した骨が出土し、改めて王氏と劉氏は甲骨文字を発見したことを知ります。
その解読は羅振玉・王国維の二人の学者に引き継がれ、更に羅振玉は小屯村を発掘し、甲骨の他に青銅器や玉器、骨角器、石器等を発掘することに成功しました。

 羅振玉・王国維は辛亥革命(1911年)後、京都に亡命し、京都大学の学者等と共に甲骨文字の研究・解読を進め、1913年、甲骨文字の解釈に関する本を出版しました。
発見された約3000の甲骨文字の半数近くが彼等によって解読され、その中で羅氏は甲骨に刻まれた王の名が、司馬遷の「史記」等に記述されている殷の系図に出てくる王の名とほぼ一致していること、小屯村が殷の末期の都であること等を論証しました。

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殷墟発掘(現在)

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殷墟発掘(1928年〜1937年)

 1928年から1937年にかけて殷墟(河南省安陽県小屯村を中心とした殷の都の跡、殷の時代には「大邑商」(大きな町、商)と呼ばれていた)の大発掘が中央研究院によって15回行われ、世界中の注目を集めました。
しかし1937年日中戦争の勃発に伴い、戦場となった為に発掘作業はすべて中止されてしまいます。

ジョークは如何?

吉田茂元首相晩年のジョーク

「吉田先生ご長寿でいらっしゃいますな、なにか健康の秘訣でもあるのですか?」

「それはあるよ。だいたい君たちとは食べ物が違う。」

「で、先生は何を食べていらっしゃるのですか。」

「それは君、人を食っているのさ。」

と吉田は笑った。それが、吉田茂がこの世に残した最後のジョークとなった。89歳で昭和42年(1967)の10月20日にその天寿をまっとうした。


続く・・・

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コメント

非公開コメント

こんばんわ。

秋葉奈津子様 コンバンワ。
おきてがみが従来のように作動しなくなりました。

何とかこちらでメール遅れれば良いのですが。

今日も36℃の暑さで皆バテバテのようです。
お体ご自愛ください。

こんばんわ

秋葉奈津子様 こんばんわ。
暑さが日ごと厳しくなってきました。
京都も祇園祭の後祭り、大船鉾巡行が昨日終わりました。
また当分京都の町も静かになることでしょう。
おきてがみは以前のようにコメント欄が出ませんので
こちらの方から遅らせていただきます。

おはようございます。

秋葉奈津子様 おはようございます。

今朝も太陽が照りつける真夏日のようです。
蝉時雨と明るい太陽の光で目を覚ましました。
全国で熱中症にかかった方がすごい数になっていますね。
お互いに健康で居れます様に!

Re: おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

おきてがみのメッセージは読めますか?

五帝は実在の人物とおもいますか?