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2014/07/25

歴史を歩く31

<9黄河文明②>

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殷の勢力範囲

殷②

 殷墟の発掘により宮殿跡の周辺から竪穴式の住居跡、大小1000以上の陵墓をはじめ、甲骨・青銅器・象牙細工・白陶・子安貝(東南アジア産の貝で貨幣として使用された)・鼈甲等が多数出土しました。
なかでも殷王墓とされる大型地下墳墓は約10メートルの地下に掘り下げて造営されており、19メートルと14メートルの長方形で、中央に王の棺が安置され、その周辺に青銅器、武器、武具が埋められていましたが、特に人々を驚かせたのは数100人にものぼる殉死者でした。

 殷王朝は、伝説によれば夏を滅ぼした湯王から30代続き、紂王(ちゅうおう)の時に周に滅ぼされたと成っています。
しかし、前半の歴史は極めて伝説的であり、第19代盤庚(ばんこう)(殷墟に都を移した王)以後の250年間の歴史が発掘によって究明されています。

王位は当初兄弟相続でしたが、後に父子相続に変わり、殷王は政治・軍事・農業等、国事のすべてを占卜によって決定する神権政治を行ったこと等が判明しています。

 殷の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域を支配しましたが、次第に専制的に成り、最後の紂王は美女妲己(だつき)を寵愛し、人民から重税を取り立て、宮殿更には大庭園を造営して酒池肉林、連日に及ぶ宴をはり、人民を苦しめたと伝えられています。
その頃、西方陜西省で勢力を伸ばした周の武王が、殷の支配に不満を持つ諸部族と連合して牧野(ぼくや)の戦いで紂王を撃破し、敗れた紂王は自刃したことから、約500年続いた殷は終に滅亡します。

 殷の文化を代表するものは高度な青銅器で、青銅器は当時大変貴重な物でした。
主に祭器や武器に使用されたのですが、殷の青銅器は極めて精巧な作りで、3000年前作られたとは思われない程であり、当時の鋳造技術の高さを想像することができます。

 殷は農業を主体としていますが、農具には貴重な青銅器は使用されず、依然として石器や木器が使われていた結果、その生産力は低かったと思われます。

 殷の後半の都は「商」と呼ばれていましたが、殷の滅亡後「商」の住民は各地に離散し、やがて土地を持たない彼等は物品を売買する事で生計を立てる者が多くなります。
その為「商」の人々が物を商う人、すなわち商人の語源と成ったと伝えられています。

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周の勢力範囲

周①

 陜西の渭水流域から興った周(紀元前1027年頃~紀元前256年)は、当初殷に服属していましたが、有徳者と伝えられている文王が諸侯の信頼を得て、領土を拡大し、都を鎬京(現在の西安付近)に移し、更に東進政策を押し進めますが崩御の後、子の武王(姓は姫、名は発)に引き継がれました。

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太公望呂尚

 武王は、渭水の辺で釣りをしていた太公望呂尚と出会い、彼を軍師・総司令官として牧野の戦いに勝ち殷を滅ぼしたのは有名なお話で、釣りの上手な人を太公望と呼ぶことはここに由来しています。又伯夷・叔斉の兄弟が武王に 「父(文王)の葬りも済ませないうちに戦争を始めるのは孝行といえるか、臣として君を殺そうとするのは仁といえるか」と諫め、周の世になると周の米を食べることを拒み、首陽山に隠れてわらびを採って暮らす中で餓死したと伝えられる有名な話です。

 武王は周王朝を創建し、在位7年で崩御し、その子成王が後を次ぎますが、未だ幼少の為、武王の弟・叔父の周公旦が成王を補佐し、当時東方で起きた殷の反乱及びこの反乱に乗じて結びついた東夷(山東省辺りに住む民族)を征討し、領土を東方から長江流域に迄拡大、東方の統治の拠点として洛邑(現在の洛陽)を建設する等、周の基礎を確立しました。
又彼は、周の封建制度の創始者とされています。

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周の封建制度(概念図)

 周の封建制度は、殷の制度を模倣して、一族・功臣や各地の土着の首長を諸侯とし、公・侯・伯・子・男の五等に分け、この爵位に応じて封土(ほうど)(領地)を与え、その地を支配させるとともに、彼らに軍役(周王の為に兵を率いて戦う軍事的な義務)と貢納の義務を負わせる政治組織を云います。
周の王や諸侯の元には、卿・大夫(上級の家臣)・士と呼ばれる世襲の家臣が居り、それぞれ封土を与えられ、その地の農民を支配しました。

 日本やヨーロッパにも封建制度が存在しました。
ヨーロッパの場合、主君と家臣の間には、家臣は主君に忠誠を誓い、主君は家臣を保護する関係は個人と個人の間での契約(契約だから主君が約束を守らない場合は、家臣も約束を守らなくてもよい)の上に成り立っていたのです。

 これに対して周の封建制度では、主君と家臣の関係は、本家と分家の関係で繋がれており、これが周の封建制度の大きな特色と成っています。
中国では宗族が重視されます。
宗族は父系の同族集団、同じ祖先から分かれてきた同じ姓の家で共通の祖先の祭祀を行い団結する、そして同姓不婚(同じ姓のもの同士は結婚しない)の原則が存在しました。
宗族間では本家が優越し、分家は本家を中心に団結しなければならない宗法(そうほう)決まりごとが在ったのです。

 周の封建制度では周の王(本家)と一族の諸侯(分家)の関係にも宗法が当てはめられ、分家の諸侯は本家の周の王を中心に団結しなければならない社会の決まりを周の支配に利用し、氏族的性格が濃く、血縁関係重視が特色と云われています。

 4代目の昭王は、東南地方に支配権の確立を試みました。
5代目の穆王は西北地方に勢力拡大を目指して、犬戎(けんじゅう、周代に陜西・山西の山地に存在した遊牧系の未開民族)を討伐します。
10代目の厲王(れいおう)は都の反乱の為東方に逃亡し、王位は一時空位と成り、11代目の王宣王は中興の英主とされるが、次の12代目の幽王は西周を滅ぼした暗君とされています。

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傾国の美姫・(幽王と褒姒)

◎幽王の逸話

 幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒姒(ほうじ)が笑わないのでの笑わせる為に外敵の進入を知らせる狼煙台の狼煙を上げさせました。
一大事と四方から諸侯がはせ参じたのですが、何事も無いので呆気にとられます。
彼らの間抜けな顔がおかしいと褒姒が初めて笑いました。
その笑顔を見たい一心の幽王はその後も何度も狼煙を上げ、当然ながら諸侯達は狼煙を信じなくなります。

 紀元前770年、西北から犬戎の侵入が始まります。
幽王は必死になって狼煙を上げるのですが、諸侯は誰も集まって来ません。
幽王は犬戎の手に掛かって殺され、都の鎬京は犬戎の手に落ちました。
諸侯は都を捨てて東に逃れ、洛邑を都とし、前の皇太子を平王として即位させ、以後は東周の時代と呼ばれます。

 周は800年近く続いた王朝ですが、中国史ではこの紀元前770年の出来事を境に、紀元前1027年頃から紀元前770年迄、都が鎬京に置かれていた時代を西周、そして都が洛邑に移されてから以後の紀元前770年から紀元前256年迄を東周の時代と呼びます。
更に東周を前半と後半に分けて、前半の紀元前770年から紀元前403年迄を春秋時代、後半の紀元前403年から紀元前221年迄を戦国時代と区別しています。

ジョークは如何?

ドイツで、レストランで注文したものがどれも「ありません」と断られた紳士が、「どれもこれもあの一人の男のせいだ!」と叫んで、傍らの席にいたゲシュタポに逮捕される。
調書を取られ、事実を認めた男は、「あの男とは誰のことか」と聞かれると、「むろん、チャーチルのことです」「いったい、あなた方は誰のことだと考えていたのですか。」


続く・・・

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コメント

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Re: No title

> 明日より2泊3日で旅行に出かけます。
> ネット接続状態によっては、スマホ&
> こちらからのご挨拶になるかも知れません。
> どうぞよろしくお願いします。

Re: No title

ご連絡ありがとうございます。

良いご旅行を!

世界3大文明だね

今日は月末最後の日曜日です
《*´ `*》〃☆;:*:;☆おはよう~☆;:*:;☆
   ∧∧ *。_。))ウンウンღ
と⌒っ゚ω゚)ノ○今日も元気な一日を
      今日もよろしくお願いしますo(^▽^)o

No title

秋葉奈津子様 こんばんわ。
毎日暑い日が続きます。
暑いからと言ってあまり冷たいものを取るのもよくないようですね。冷たい飲み物ばかりとって体がなんとなくだるくなりました。
今年は熱中症にかかるひとが多いようです。
お互いに気をつけないといけませんね。

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Re: No title

ご提案、了解致しました。
私は、以前の通り、お伺いさせて頂きますが、ぜひコメントも頂戴したいと思います。