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2014/07/31

歴史を歩く32

<9黄河文明③>

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春秋s時代の諸侯分布

3 春秋戦国と鉄器の普及

 東周の前半にあたる春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)には、西周時代の封建制度が崩壊し周王室の勢力が衰え、実力のある諸侯が互いに争う時代と成りました。
春秋時代の「春秋」は、有名な孔子の書物に由来し「春秋」は孔子の生国である魯の国の紀元前722年から紀元前481年に至る歴史を書いた書物で、その扱っている時代がほぼ春秋時代と同じである為、この時代を春秋時代と呼んでいます。

 春秋時代の初期には約200余りの国(小さな都市国家も含む)が存在したと伝えられますが、次第に有力な国に併合され、40~50余りの諸侯国にまとめられて行きます。
この内、特に有力な諸侯を覇者と呼び、春秋時代には周王室の権威は衰えましたが、依然として王として尊ばれていた為、有力諸侯は「尊皇攘夷」(周王室を尊び、周辺の異民族(夷)を討ちはらうの意味)を唱えて諸侯の同盟を指導して秩序を維持し、中原(黄河中・下流域)の支配を巡って争いました。

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 覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれ、誰々を五覇とするかについては諸説ありますが、一般的には以下、
斉の桓公(在位紀元前685年~紀元前643年)
晋の文公(在位紀元前636年~紀元前628年)
楚の荘王(在位紀元前613年~紀元前591年)
呉王闔閭(こうりょ)(在位紀元前514年~紀元前496年)
越王勾践(在位紀元前496年~紀元前465年)
以上を云い、呉と越を除いて秦の穆公(在位紀元前659年~紀元前621年)と宋の襄公(在位紀元前651年~紀元前637年)とする説もあり、楚の荘王にかえて呉王夫差(在位紀元前495年~紀元前473年)とする説も存在しています。

 初めて覇者となったのは斉の桓公でした。
斉は中原から離れた東方の山東省近くに存在しましたが、斉の国力を発展させた人物が桓公を補佐した名宰相として有名な管仲なのです。
彼は商工業を保護奨励する等の富国強兵策をとって斉の国力を充実させました。
桓公は中国の西北部に住む異民族の侵入から中原を守り、又南方の楚の北上阻止に努め覇者と成りましたが、桓公の死後、斉は内乱の為、衰亡して行きます。

 斉に代わって盟主となった国が、山西省を本拠とした晋なのです。
晋は武王(周の初代の王)の子が建てた国で紀元前7世紀前半頃から強国と成りましたが、後継者の相続をめぐる内乱が絶えず起きており、文公も公子の時この内乱を避けて腹心の部下と共に19年間も諸国を彷徨い、秦の援助のもとにやっと帰国し、62歳で即位しました。
やがて紀元前632年に中原に侵入してきた楚軍を城濮の戦いで撃破し、覇者と成っています。

 春秋時代中期以後は、晋を中心とする北方と楚を中心とする南方の国々の対立・抗争と云う様相を呈してきます。
中国文明はもちろん黄河流域から興り、殷から周の初頭迄は、漢民族の勢力範囲が河流域に限られていました。

 漢民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領域に入って来るのが春秋時代からなのです。
楚は古くから蛮夷の国とされ、楚の人々は中原の人々とは風俗習慣を異にしており、後に出てくる越を建てた越人は入れ墨・断髪の風習があり、当時華南からヴェトナムに分布していた南方系民族の一派でした。
春秋時代は中国文化圏が長江流域を含む南方に拡大していった時代でも在りました。

 前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠とした楚は、紀元前632年に城濮の戦いで敗れたものの荘王(在位紀元前613年~在位紀元前591年)の時代に再び中原に進出して洛陽に入り、紀元前597年に 晋を破り、荘王は覇者と成りました。

 楚と晋の対立はその後も続くものの勝敗はつかず、紀元前545年に和議を結びます。
その頃長江下流域の江蘇省蘇州を中心にまず呉が興り、次いで浙江省紹興を中心に越が興りました。呉王闔閭(在位紀元前514年~紀元前496年)は、紀元前506年に覇者と成りましたが、越王勾践との戦いに敗れ、臨終の床に子の夫差を呼んで「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と言い残して崩御します。
夫差は毎夜、薪の中に臥し復讐を誓い、やがて2年目に越に攻め込んで越軍を撃破します。

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「臥薪嘗胆」

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西施

 勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだし、属国となることを誓いますが、この時夫差の謀臣であった伍子胥(ごししょ)は 勾践を滅ぼすよう進言したが、夫差は聞き入れずその降伏を許したのです。
許された勾践は座右に胆をおき、座った時や寝る度に、苦い胆を嘗めて夫差に対する復讐を誓いました。
やがて夫差が中原に進出し晋と覇を争っている隙をついて蘇州を攻め、その知らせを聞いて急遽帰国してきた夫差の軍勢をうち破り、敗れた夫差は自刃しました。

 この話が有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの意味)の復讐の物語で、又呉と越の抗争にからんで「呉越同舟」と云う言葉も生まれ、現在もよく使われているのは、ご存知の通りです。

 呉を滅ぼした越王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時代最後の覇者と成りました。
呉と越の激しい抗争は、次第に実力抗争の時代になったことを示しており、時代は戦国時代へと変わって行きます。

◎ジョークは如何?

ナチスの突撃部隊の将校が、列車でユダヤ人と乗り合わせた。将校はナチスの機関紙を広げて、得々として言った。

「この新聞は非常にためになるので、必読しているんだ。」

彼はついでにユダヤ系の経済新聞を取り出して言った。

「こいつは尻を拭くのにもってこいだ。」

これを聞いたユダヤ人は、揉み手をしながら、嬉しそうに言った。

「将校さん、それじゃ、あんたの尻が頭よりも利口になるのは、もう間近というわけですな。」

続く・・・
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コメント

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三国志は後かな

  (´∀`*)おはようさん
  r⌒⌒ヾヾ
  (oノハヽo) 今日はご苦労さん
  (・ 。.・*从.|
  (゚。ヽy/。゚)今日もよろしく
  <,,ノ∞ヽ,,>
    ∪∪  暑いので気をつけて

こんばんは

長い中国の歴史。
古代の中国の歴史のイメージが強く、なかなか近世の中国とつながってきません。
まだ私は中国に対する理解が浅いということでしょうね。