2014/08/15

歴史を歩く36

<9黄河文明⑦>

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始皇帝

5 秦の統一

 中国を初めて統一した君主が、中国史上最も有名な人物の一人である秦の始皇帝です。
始皇帝 (姓は嬴、読みはえい、名は政)(紀元前259年~紀元前210年)は 「戦国の七雄」の秦の第31代の王で、荘襄王の子として趙の都の邯鄲(かんたん)で生まれました。
母は邯鄲の歌妓で荘襄王の妃となる前は呂不韋(りょふい)の愛人であった為、大商人であった呂不韋が実父であるとも云われています。

 始皇帝の父、後の荘襄王は、秦の強敵であった趙の人質として邯鄲で暮らしていました。
その荘襄王に目をつけた人物が趙の豪商であった呂不韋です。
彼は「奇貨居くべし」(これは掘り出し物だ、買い入れておいたほうがよかろう)として荘襄王に取り入り、その生活を援助し、二人が親しくなるなかで、荘襄王は呂不韋の最愛の歌妓を一目見て気に入りゆずってくれと言い出しました。
呂不韋は内心では可也の葛藤が生じましたが、 せっかくここまで投資したのだからと考えて譲ったと云われています。
この時既に歌妓は身ごもっていたのを隠して嫁ぎ、生まれた子供が後の始皇帝だと云われています。

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 呂不韋

 呂不韋は荘襄王を趙から脱出させ、秦に帰国させる為に、様々な工作を行い大金を使いました。
帰国後、太子となった荘襄王は父の死後秦王と成り(紀元前250年)、即位した彼は呂不韋を宰相に任命し、洛陽の地に10万戸を与えたのです。
  
 荘襄王は在位3年にして崩御、太子の政が秦王と成り(紀元前247年)、まだ13歳であった為に政治は母の太后と呂不韋に委ねられました。
政は親政を始めた翌年(紀元前238年)に呂不韋の職を免じ都を追放、更に流罪の刑に処したのですが、追いつめられた呂不韋はついに自決(紀元前235年)します。
この間、秦は益々東方に進出し、終に韓を滅ぼし(紀元前230年)、次いで魏(紀元前225年)、楚 (紀元前223年)、趙・燕(紀元前222年)、翌紀元前221年には最後まで残った斉を滅ぼし、終に中国を統一しました。

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秦の版図と周辺民族

 中国を統一した秦王の政は、王の称号を廃し皇帝(伝説上の三皇五帝の徳を兼備するの意味)と称し、自らは始皇帝(在位紀元前221年~紀元前210年)と称したのでした。

 大帝国の統治にあたっては、丞相の李斯(?~紀元前210、法家の思想家)の意見を入れて、統一前から秦で行われていた郡県制を実施します。
全土を直轄地とし、全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に数十の県(1つの県は約1万戸)を置き、皇帝に任命された官吏を中央から派遣して統治させました。

 中央官制、地方行政については、中央に丞相(最高行政官、行政全般を統括する)、大尉(軍事を 統括する最高官)、御史大夫(ぎょしたいふ、官吏の監察を行う最高官)を置き、郡には守(民政を 担当)と尉(軍事を担当)を置きます。

 又、今迄7つの国に分かれていた為、国によって異なっていた度量衡の統一等、中国を一つにまとめるために様々な統一事業を推進します。
まず度量衡を統一し、国が定めた量(ます)や権 (おもり、分銅)を全国に配布、次いで車軌を統一しました。
車が通った等に溝が出来、幅が違うと通り難いので車輪の幅を同じにしたのです。
文字も秦の書体である篆書(てんしょ)に統一され、貨幣も刀貨・布貨等、国、地域によって異なる貨幣が使われていた為、始皇帝は円形で四角の穴の空いた半両銭(重さが半両であった)に統一しました。
この円形で四角の穴のあいた半両銭が後世迄貨幣の基本の形と成ります。

 更に民間の武器を没収し、天下の富豪12万戸を都の咸陽(現在の西安郊外)に強制的に移住させ、都の繁栄を図りました。

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郡県制の概念

 始皇帝は国内の制度を整えると領土の拡大を図り、外征に乗り出します。
中国の北に広がるモンゴル高原には、古くから遊牧民族が住みつき遊牧と狩猟の生活を営んでいたのですが、中国の戦国時代の頃から、蒙古高原で活躍した民族が匈奴です。
匈奴はトルコ系又はモンゴル系と云われる遊牧民族で、戦国以来中国に侵入し、巧みな騎馬戦術で中国の脅威と成っていました。
戦国時代末期には盛んに南下を繰り返し、趙が築いていた長城を突破し、黄河南岸のオルドス地方を占領しました。
このオルドス地方を奪回する為に、始皇帝は名将の蒙恬(もうてん)に30万人の軍を授けて匈奴討伐を実行します(紀元前215年)。

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「万里の長城」の変遷

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蒙恬

 匈奴の侵入に備えて有名な「万里の長城」を構築します。
長城は既に戦国時代に趙や燕等で築かれていましたが、始皇帝はそれを修築、連結して築いたと云われています。
西は甘粛から東は遼東に及び、現在私達が見ることの出来るそれは。明時代15〜16世紀に修復された姿で、秦の長城より可也南に位置しています。

北京郊外、八達嶺の長城は煉瓦造の堂々たる構築物ですが、秦代のそれはもっと簡単な土塁でした。
騎馬民族である匈奴の侵入に備える為には、馬が飛び越せない程度の高さであれば充分だったのです。

 南方遠征も行われ、漢民族は当時、長江流域迄居住地域を拡大していましたが、長江流域から南、 現在の浙江省、広東省、広西省からヴェトナムに到る地域には「越」と呼ばれる民族が住んでいました。
戦国時代の越も彼等が建てた国と考えられています。
現在の華南からヴェトナム北部は、当時「南越」と呼ばれていたますが、ヴェトナムの漢字表記では「越南」と書かれています。
50万人と称する大軍が南越に攻め込み、その地を征服し(紀元前214年)、始皇帝はこの地に南海(現在の広東)、桂林、象郡 (この位置については諸説在り)の3郡を設置します。

 今や秦の領土は、殷や周の時代に比べると比較にならない程に拡大し、漢民族の居住の範囲も 広まり、この中国最初の統一王朝であり、巨大な帝国となった秦(Chin)が中国の代名詞となり、 その音が周辺民族に伝わり、シナ(支那)あるいは英語のChinaの語源と成りました。

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「焚書」

 始皇帝は、丞相李斯の建策をいれ、有名な「焚書・坑儒」と呼ばれる思想言論統制を実行します。 紀元前213年に「焚書」、すなわち医薬・卜筮(ぼくぜい、占い)・農業等の実用書を除く全ての 書物を焼き捨てました。
儒学者が封建制度復活論を説いたことが発端に成ったと伝えられますが、これによって秦以前の貴重な古書の多くが失われてしまいました。

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坑儒

 次いで翌年には「坑儒」が行われ、多くの儒学者が捕らえられ、そのうちの460人が大きな穴に生き埋めにされて殺された出来事でした。
始皇帝が不老長生の薬を求めて東海に探索隊を送るものの、もちろん見つかるはずもなく、失敗に終わった儒学者が始皇帝の悪口を言い触らしたことがきっかけとなったという話しが伝えられています。

 以上記述した数々の事象が、統一後のわずか10年程の間に行われてきたのですが、そのあまりにも急激な改革に対する保守派の人々の反感、又たび重なる外征や大土木事業に動員された人々の反発が強まるのは当然のことでした。

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阿房宮

 大土木事業としては、まず万里の長城があげられますが、そのほかにも六国平定後に始まり未完成に終わった阿房宮の建設が在ります。
阿房宮は、東西700メートル、南北150メートル、1万人を収容できる壮大な宮殿であったと云われ、70万人の囚人が働かされたとも云われています。
秦の滅亡後、項羽によって焼き払われましたが、燃え尽きる迄に3ヶ月を要したと伝えられています。更に始皇帝陵(当時は生前から自分の墓を造る習慣があった)の地下墳墓は死後も生前と同じ生活が送ることが出来るように造られ、地上の陵墓は高さ76メートル、周囲2キロメートルに及ぶと云われ、やはり70万人の囚人が動員されたと云われています。

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兵馬俑

 その始皇帝陵の東方の地下に、死後の始皇帝を守る秦の大軍団が7000余体の実物大陶製の人馬像(俑、よう)で再現されていましいた。
これが1974年に、 付近の農民が畑の中に井戸を掘削中に偶然に発見し、世界的に有名となった「兵馬俑」です。

 始皇帝は、紀元前210年に5回目の行幸を実行しましたが、江南地方を巡り、北上して山東に至って急病で崩御(50才)、李斯は反乱を恐れ、死を隠し、首都咸陽に着いて初めて喪を発しました。
その間宦官の趙高は詔書を書き換え、賢明であった長男の扶蘇(ふそ)を自刃に追いこみ、以前から 親しくしていた凡庸な弟の胡亥(こがい)を太子とします。
やがて即位した人物が二世皇帝で、二世皇帝は趙高の思うがままに、蒙恬を自殺に追いやり、李斯を腰斬の刑に処し、趙高を宰相としました(紀元前207年)。

ジョークは如何?(今回は実話)

 気高き皇后

 時は、「バトル・オブ・ブリテン」。連日のドイツ空軍による空襲でロンドンは大打撃を被っていた。
そして、爆撃の矛先は、イギリス王族の住むバッキンガム宮殿にも及んだ。
周囲の疎開のすすめを断り、国民と労苦をともにしようとした国王ジョージ6世の皇后エリザベス・アンジェラ・マーガリート(現女王エリザベス2世の実母)は、この時、次の言葉を述べたと伝えられている。

「ああ、これでイギリス国民と同じ労苦を経験できた。」

 なお、彼女は、ヒトラーからは「欧州で最も危険な女性」と呼ばれ、国民から一身の敬愛を受けた。
晩年、高齢になっても、慰問や外出先で気さくに言葉を交わし、国民から「クイーン・マザー」と呼ばれ敬愛された。 

続く・・・

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コメント

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日本も見習ったのかな

  ( ノ゚Д゚)こんにちは
明るく元気に過ごしましょう
お早うございます
今日もよろしくお願いします
    //
   / /パカ  
   / /    
  / /ハ,,ハ
  / ヽ(=゚ω゚)ノ__
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