2014/08/19

歴史を歩く37

<9黄河文明⑧>

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「陳勝・呉広の乱」

5 秦の統一その2

 始皇帝の死後間も無く各地で反乱が起こりました。
その中で有名な事件が「陳勝・呉広の乱」(紀元前209年 ~紀元前208年)です。
陳勝、呉広も、共に河南省の日傭百姓でしたが、万里の長城の工事に徴発され、北に向かう途中で大雨に合い道が通れず、決められた期限迄にはとうてい間に合わなく成りました。
当時、秦の厳しい法律では期限に遅れれば斬罪でした。
このまま任地に行っても殺される、逃げても見つけ次第殺されるのであれば、同じ死ぬなら大きな事をやって死のうと反乱を起こすことを決意し、同行していた秦の軍人を殺し、反乱に踏み切ったのでした。

 その時陳勝が同じ立場の仲間を集めて言った言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」です。
王も諸侯も、将軍も丞相も別種の者ではない(血筋に別はない)、自分達でも時を得れば彼等と同様に成れるとの意味で、生まれを問題にしない戦国時代の下剋上の実力主義の風潮を示す言葉です。
又、平等主義を示す言葉であるとも解釈されています。
陳勝・呉広等は、楚の最後の都であった陳を目指したのですが、陳に到着する頃には秦の政治に反発を抱く人々が加わり数万の大軍にふくれあがっていました。
その陳で陳勝は王位に就き、一時は反乱に加わるもの数10万に達したのですが、統制のとれてない寄せ集めの集団は、秦軍の猛反撃に遭遇して敗れ、陳勝を見限る者が続出する中で呉広は軍中で討たれ、陳勝は乱軍のなかで死亡し、反乱は6ヶ月で鎮圧されました。

 中国最初の大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱は鎮圧されましたが、この反乱を契機にして秦に対する反対勢力は各地で立ち上がり、その中で最も大きな勢力が項羽と劉邦の軍でした。

 項羽と劉邦の抗争は中国史上最も有名な出来事の一つであり、司馬遷の「史記」のなかでも最も劇的な部分です。

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項羽

 項羽(紀元前232年~紀元前202年)は、代々楚に仕えた将軍の家に生まれました。
彼の祖父は秦軍と戦って戦死しており、秦の時代になって叔父の項梁とともに呉(蘇州)に住んでいましたが、陳勝の挙兵を聞いて挙兵し(紀元前209年)、8000人の楚兵を率いて北上、山東に至って陳勝の死を知りました。
項梁は楚を再興し、西に進んで大いに秦軍を撃破したのですが、増強された秦軍に不意を打たれて敗死します。
項梁の死後、楚の懐王は諸将を集めて「最初に咸陽(秦の都)に入った者が王たるべし」との約束をさせ、項梁の後を受け継いだ項羽は、全軍を率いて北方に向かい、函谷関(かんこくかん、河南省の北西部、東の中原と西の関中とを結ぶ要衝で、秦はここに関を設けた)から関中へ入ろうと試みましたが、この方面で秦の主力軍を相手に激戦を重ねながら進撃する事になり、劉邦に先を越されることと成ります。

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劉邦

 劉邦(紀元前247年~紀元前195年)は、江蘇省の沛(はい)の中流の農家に生まれ、若い時代は 殆ど家の仕事はせず、遊侠の徒と交わり、壮年になって沛県の亭長職を拝命し下級役人と成りました。 その職務は公道の宿舎を管理し、その近辺の警察の様な仕事を行う事が役目でしたが、紀元前209年、陳勝の挙兵の知らせが沛の町にも伝わり、町は動揺していました。
県の役人であった蕭何(しょうか)が劉邦を役所に招き、劉邦が100人程の手下を引き連れて役所へ行くと、沛の人々は県令(県の行政の長、秦の役人)を殺して劉邦を迎え入れ、彼を沛公(県令の尊称)に立てました。

以後、劉邦は沛公と呼ばれ、やがて沛の若い男子が集められて数千の軍ができたので、その兵をもって周辺の地域を攻略していきました。
この時期、名参謀の張良も加わり、劉邦軍は次第に勢力を拡大して行き、項梁が諸将を招いたのに応じてその軍に加わり、項梁の死後、項羽と競いながら秦の都を目指したのです。

 項羽が秦主力軍を相手に戦い、進撃が遅れたのに対し、劉邦は南を進み裏口の武関を攻略、項羽よりも先にしかも楽に関中に入いりました。
秦ではその直前に二世皇帝が殺され、三世皇帝が即位していましたが、劉邦に降伏し紀元前206年、秦は滅亡します。

 都に入った劉邦は三世皇帝の命を助け、軍には略奪を禁じ、秦の財宝には封印し、主だった者を集めて次のように言い渡しました。
「法は三章のみとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者は罪せられ、物を盗んだ者は罰せられる」。
今迄の秦の刑罰は大変厳しかった為、人々は安心し喜んだのでした。

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鴻門の会

 劉邦が都に入って2ヶ月程遅れて、項羽はようやく函谷関に達しました。
関の門は固く閉ざされており、劉邦は既に都に入った事を聞き大いに怒り、函谷関を破って関中に入り、鴻門に陣を構えます。
項羽の部下の范増が劉邦を殺すように進言し、そこで鴻門で宴会を開いて暗殺する計画が立てられました。
劉邦は百余騎を従えて鴻門に入り、項羽に敵対する気持ちの無い事を釈明し、その後酒宴が開かれるのですが、この時の様子を実にリアルに描いている文章が司馬遷の「史記」に収められた「鴻門の会」です。
中でも樊噲(はんかい)の行動を描いた場面は圧巻で、結局、劉邦は途中で退席して逃げ帰り、 命拾いをしています。(興味の在る方は、是非「史記」読んでみて下さい)

 項羽は数日後、咸陽に入り、三世皇帝(子嬰)を殺し、阿房宮を焼き払いました。
阿房宮は3か月に渡って燃え続けたと云われており、更に秦の財宝を略奪して、東に帰り、彭城(後の徐州)を都として西楚の王と成りました。

 先に都に入った劉邦であったが、当時の兵力は項羽の40万人に対して10万人では如何ともしがたく、項羽が一時覇権を握り、劉邦は巴蜀(四川省)と漢中の地を与えられ、漢中王に封じられました。

 覇権を握った項羽でしたが、狭量な性格が災いし、その評判は悪いものでした。
彼に対する臣民の不満は日増しに高まり、その一方で度量の広い劉邦の人望は益々高まりました。
後に劉邦の危機を救い、項羽との戦いに大活躍する有名な韓信もこの時期に項羽を見限り、劉邦陣営に加わっています。

 劉邦が漢中王になって5年後、項羽に対する反乱が起こりました。
その機を逃がさず劉邦も挙兵、関中に出陣し、函谷関を越えて半年で洛陽に達し、項羽が東方に遠征している間隙を突いて本拠地の彭城を攻略しました。
しかし、項羽はすぐさま取って返し、劉邦軍を破り、以後2年余りの戦いでは項羽は常に優勢を保っていましたが、項羽の優勢をみて項羽側についた魏・趙・斉を次々に破り、劉邦の危機を救った人物が韓信でした。

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垓下の戦い

 紀元前202年、劉邦はついに項羽軍を垓下(がいか)に包囲します。
項羽軍10万人、劉邦軍30万人、主力は韓信が率いていました。
以下、「史記」による「四面楚歌」の場面です。
「四面楚歌」は周りが総て敵で孤立無援の状態を表す言葉としてよく使われます。
垓下を取り囲んだ劉邦軍から聞こえて来るのは楚の歌ばかりでした。
項羽は驚き、漢は既に楚の地を総て奪い取ったのか、何と楚人の多い事よと云い、帳の中で酒を飲み、虞美人(項羽の寵姫)に舞う様命じて、歌を読みました。
「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、時に利あらず、騅(すい、愛馬の名)逝(ゆ)かず、 騅の逝かざるは奈何(いかん)すべき、虞や、虞や汝を奈何せん」。
因みに虞美人草は雛罌粟です。

 項羽は夜陰に紛れて脱出し、800余騎が従いました。
終に長江の北の烏口に達した時は、僅か26騎になっていました。
烏口の亭長が江東(長江下流の南)に逃げて再起をはかれと勧めたのですが、「嘗て自分は江東の子弟8000人と供に渡った。今は一人も帰る者がいない、喩え江東の父兄が自分を憐んで王にしてくれても、自分は何の面目あって見(まみ)えん」と言い、追っ手の中に討ち入り、最後は自分で首を切って自決します。

 劉邦は、中国を再び統一し、紀元前202年に漢(前漢)王朝を開き、後に長安(現在の西安)を都としました。
中国史上、農民出身で皇帝になったのは、劉邦と明の太祖(朱元璋)の二人だけなのです。

「垓下の歌」

力拔山兮氣蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可柰何
虞兮虞兮柰若何

力山を抜き 気世を蓋う
時利あらずして 騅逝かず
騅の逝かざる 奈何すべき
虞や、虞や 若を奈何せん

私の力は(動かないものの代表である)山をも動かす程強大で、気迫は(広いものの代表である)この世の中をおおい尽くしてしまう程なのに
時勢は私に不利であり、(愛馬の)騅も進もうとしない。
騅が進もうとしないのを、もはやどうする事もできない。
(それよりも)虞よ、虞美人よ。そなたの事を一体どうすれば良いのか。

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虞兮虞兮柰若何

ジョークは如何?

イタリア船に乗った理由

あるとき、チャーチルがイタリアへ行くことになった。ところが、彼はイギリスの船会社の船に乗らず、イタリアの船を予約した。周りの連中が驚いて、なぜわが国の船を利用しないのかと訊くと、チャーチル曰く

「イタリー船は、まず食い物がうまい。次いで、サービスが行き届いている。最後に、救命ボートに女子供を先に乗せろとは書いていない。」

続く・・・

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コメント

非公開コメント

史記を読んでみようか

京都は35℃以上です
( ノ゚Д゚)こんにちは
() _()
(=●::●) ( ノ゚Д゚)おはよう
|* + *|
?.. (,(”)(”)?°.,,.素晴らしい一日を
°o?o,,,,o?o°`°o?o,
  今日もよろしくお願いします

No title

項羽と劉邦、歴史上は勿論、
ドラマや漫画でも有名ですが、
項羽がもう少し違う性格であれば・・・
と思ってしまいます。
何はともあれ、軍事家としては一流ですね!

No title

万里ママ様

コメントありがとうございます。

項羽の性格がその道を定めた様です。
歴史に若しは、禁物ですが、若し彼の性格が異なっていたなら、中国歴代王朝は大きく異なっていたと思います。