2014/08/23

歴史を歩く38

<9黄河文明⑨>

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前漢の版図

6 漢の内政と外征

 項羽を滅ぼして中国を統一した高祖(在位紀元前202年~紀元前195年)劉邦は、最初洛陽を、後に長安を都として紀元前202年に前漢王朝(紀元前202年~紀元後8年)を開きました。
高祖は秦の制度・法律をほとんどそのまま継承しましたが、秦が郡県制をはじめとする急激な改革によって反感を招き、短期間で滅亡したことを反省し、漸進主義を採用します。

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劉邦、韓信他漢帝国建国の功臣

 劉邦は皇帝となるや、一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封建制を併用する郡国制を採用しました。即ち直轄地(都の長安周辺や西部地域)には郡県制を定期用し、中央から官吏を派遣して統治させ、遠隔地(東部・南部を中心)には王国・侯国をつくり、一族や功臣を封じたのです。
劉氏一族以外で王になった者は韓信等7人、列侯となった者は百余人を数えました。
しかし、皇帝支配が安定してくると、高祖は一族以外の異姓の王・侯を殆んど除き、その後に同姓(劉氏)の者を配置していきました。
韓信も反逆の疑いをかけられ、王から侯に下げられ、後に捕殺されます(紀元前196年)。

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冒頓単于:モンゴル国公式切手

 当時、北方では匈奴が冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于は匈奴の君主の称号、在位紀元前209年頃~紀元前174年)のもとで大帝国となり、嘗て始皇帝の時代に奪われたオルドス地方を奪回し、漢の北辺にしばしば侵入を繰り返していました。

 中国を統一して意気盛んな高祖は、自ら32万の軍を率いて匈奴討伐に向かい(紀元前200年)、匈奴はほとんど抵抗せずに退却しています。
高祖は追撃体制に入り、平城(現在の大同付近)の白登山迄進撃したのですが、翌朝目を覚ました漢の軍勢は仰天します。
周りは冒頓単于自ら率いた40万騎の匈奴軍によって包囲され、しかもこの包囲は7日間にも及び、逃れられないことを知った高祖は莫大な貢物を単于の妃に送り、単于に兵を引いてもらうように頼み込み、やっと危機から脱出し、命からがらに逃げ帰ったのでした。
以後必ず漢の王室の娘を公主として単于に送り、毎年莫大な絹・米・酒・食糧を送ることを約束する和議を結び(紀元前198年)、これ以後高祖は対外的に消極策を取り、国力の充実に努め、漢王朝の基礎を築き、紀元前195年に崩御しました。

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呂后

 高祖の死後、呂后(高祖の皇后)の子の恵帝(在位紀元前195年~紀元前188年)が即位し、呂后は太后として政治の実権を握ります。
嘗て高祖は気の弱い恵帝を嫌い、晩年寵愛した戚夫人の子を太子に立てようとしたために、呂后は我が子の太子の地位を守るために努力し、戚夫人とその子を憎みましや。
高祖が崩御すると、戚夫人を捕らえ後宮の獄に監禁し、子の趙王を毒殺し、戚夫人に対しては、手足を切り、目をくりぬき、耳を焼き、声の出なくなる薬を飲ませ、厠(かわや)に投げ込み、人豚と名づけます。
数日後、恵帝にその姿を見せられ、ショックを受けた恵帝は以後酒におぼれ、淫楽にふけり、政務を顧みず、終に病床に着き、23歳で亡くなります。

 恵帝には子がなかったので、后に身ごもったふりをさせ、後宮の女官の子を立てました。
これが少帝恭(在位紀元前184年~紀元前180年)で、少帝恭は4年後に殺害され、代わってやはり女官の子であった少帝弘(在位紀元前180年)が立てられました。

 呂后は摂政となり、呂氏一族の者を次々に王や諸侯に封じ、劉氏の一族は次々に殺され、今や呂氏の勢力は劉氏を圧倒するように成りました。
その呂后も紀元前180年に終に逝去、劉氏一族は、この機会をとらえ、高祖の功臣であった陳平や周勃らと謀り、呂氏一族を全滅させ、劉邦の次男、代王劉恒を即位させます。
この人物が5代皇帝の文帝(在位紀元前180年~紀元前157年)です。

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文帝

 文帝は、その在位23年、仁政に励み、連座制等苛酷な刑罰を廃止しました。
文帝は前漢の皇帝のなかで理想的な皇帝とされ、文帝の死後、景帝(在位紀元前157年~紀元前141年)が32歳で父の後を継ぎました。
この景帝の時代に起きた最大の出来事が呉楚七国の乱なのです。

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景帝

 高祖は郡国制を採用し、一族の者を各地に封じて王・侯としまいたが、諸王の勢力は強大で、この頃王国は16を数え、特に広大な領土を有する呉・楚・斉等は中央に反抗的でした。
そこで景帝は諸王・諸侯の勢力を弱める為、その領土を削減する政策を推進します。

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呉楚七国の乱概要図

 紀元前154年、呉王(高祖の兄弟の子)の領土の2郡(銅と塩の産地)を削減することが決まり、呉王は、楚王(高祖の兄弟の孫)・趙王(高祖の孫)他4王に呼びかけて七国が連合して反乱を起こしました。
これが呉楚七国の乱と呼ばれ、主力の呉軍は20万、その勢力は漢を脅かし、呉楚七国軍は長安に侵攻しますが、梁王に西進をくい止められ、周亜夫(周勃の子)は呉楚軍とその本国との連絡を断つ作戦を展開し、糧道を断たれた反乱軍はやむなく退却しますが激しい追撃を受け、呉王はその途中で殺され、七国の連合は崩壊し、この大乱も3ヶ月で鎮圧されました。

 乱後、有力諸王が戦死や自害した結果、諸王・諸侯の領土は細分・削減され、その勢力は著しく弱体化し、逆に中央の皇帝の権力は強大となり、中央集権化が進展していくこととなりました。

 景帝は貨幣の私鋳を禁止して貨幣の鋳造権を掌握し、財政の充実に努め、次の武帝の時代に現出する前漢の全盛期の基礎を築いたのでした。

 景帝の崩御の後、九男の劉徹が16歳で即位し、中国史上有名な、第7代皇帝武帝(在位紀元前141年~紀元前87年)と成ります。
九男の彼が即位した背景には、女性間の争いが在ったようですが、ここでは省略します。

漢武帝
 武帝

 武帝の時代には、呉楚七国の乱平定後、諸王・諸侯の領土の削減が図られた結果、その勢力は完全に抑えられ、漢初以来の郡国制は実質的には郡県制と変わらなくなり、中央集権化が進み、漢は最盛期を迎えたのでした。

 武帝は即位早々に賢良方正の士を推薦するよう命じ、この時推薦を受けた者のなかに儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ、紀元前176年頃~紀元前104年頃)が居り、彼は儒学による思想統一を進言して採用され、紀元前136年には五経博士が置かれます。
五経博士は五経(当時の儒学で重んじられた古典である「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」)を教授し、文教政策を司る為に置かれた学官で、以後礼と徳を重視する儒学は統一国家を支える思想となり、官学と成りました。

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董仲舒

 官吏任用についても、儒学が重んじた仁・義等の徳のある者、有能な人物を地方の長官に推薦させて任用する「郷挙里選」と呼ばれる制度を始め、この官吏任用制は次の後漢時代にも行われましたが、推薦されたのは地方豪族(大土地所有者)の子弟がその殆んどを占めていました。

 武帝の名を有名にしているのは、積極的な対外政策を採り、漢の領土を拡大し、中国始まって以来の大帝国を建設したことに在ります。
高祖以来、対外的には消極策を採り、内政を重視するなかで、呉楚七国の乱はあったが、長らく太平が続いた結果、漢の国力は充実していました。
この力を対外発展・領土拡大に向けたのが武帝でした。

ジョークは如何?

「徒歩と船なら、断然船旅が速いだろうね。」
「そうでもないよ。」
「なぜそんなことを言うんだい?」
「インディアンとコロンブス、どちらが先にアメリカを発見したか知っているか?」


続く・・・
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コメント

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モンゴルも古い歴史があるんだ

( ノ゚Д゚)こんにちは
(^_^)/おはよー
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こんばんは

無理に感じにしたためか、この頃は妙な名前の人が多く登場しますね。
それにしても陰惨な権力争いが多いものです。