2014/08/27

歴史を歩く39

<9黄河文明⑩>

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匈奴討伐

6 漢の内政と外征その2

 武帝がまず取り組んだ政策が、北方から中国を脅かしていた匈奴に対する征伐でした。
匈奴は前述した冒頓単于(?~紀元前174年)が父を殺して2代目の単于となり、諸部族を統一し、更に西は月氏、東は東胡を撃破して遊牧民族最初の大国家を建設、匈奴の全盛期を築きました。
紀元前200年には高祖を白登山に包囲して敗走させます。

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前漢時代の匈奴の勢力範囲(Wikipediaより)

 冒頓単于の後を老上単于(紀元前174年~紀元前160年)が、その後を軍臣単于(紀元前160年~紀元前126年)が継ぎ、武帝が即位した頃の単于が軍臣単于でした。

 武帝が即位した頃、匈奴の捕虜から「月氏(戦国時代には蒙古高原の西半を支配する大勢力でしたが、冒頓単于に敗れ、主力は甘粛方面から敗走西遷、天山山脈の北に移動し、その後更に匈奴の攻撃を受けて西遷し、アフガニスタンの北部にあったバクトリア王国を倒して、その地に大月氏国を建国)が匈奴に敗れ、匈奴は月氏の王の頭蓋骨で杯を作り、それで酒を飲んでいる。月氏はそのことを怨み仇としている。しかし同盟して匈奴を討とうとする国がない」と云う話を聞き、月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃できると考え、月氏へ使いする者を募り、これに応じた人物が張騫でした。

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張騫の月氏派遣

 張騫(?~紀元前114年)は武帝から委ねられた100余人の従者を連れ、紀元前139年頃に長安を出発したのですが、張騫一行は河西(甘粛省の黄河以西の地)で匈奴に捕まり、そのまま拘留されました。
その間匈奴の妻をあてがわれ、子供まで産まれましたが、彼は武帝の命令を忘れてしまったわけではなく、すっかり匈奴の人になったと思わせて油断させ、監視が緩んだ隙を見て、10余年後に妻・仲間と共に脱出し、西に走ること十数日で大宛(現在のウズベキスタン共和国のフェルガナ)に辿り着きました。

 ところが月氏は既に、更に西へ移動しており、フェルガナ国王が準備してくれた道案内によってやっとソグディアナ地方(現在のウズベキスタン共和国のサマルカンド付近)に移住していた大月氏国に辿り着いたのでした。
張騫はその地に1年余り留まり、漢との同盟を結ぶことを説得したが、肥沃な土地に安住していた大月氏には遠い漢と同盟して匈奴と戦う気持ちは全くなく、説得は失敗に終わります。
目的を果たせぬままに帰国の途についた張騫は、又も匈奴に捕まり拘留されたのですが、軍臣単于の死による匈奴の内紛に紛れて辛うじて脱出し、13年ぶりに長安への帰還を果たしました。
出発時の100余人の一行は、張騫と匈奴の妻と従者の3人になっていたと云われています。

 張騫の大旅行の目的は達成されませんでしたが、彼がもたらした貴重な情報によって西域(当時の中国では、中央アジア及びそれ以西の地をこう呼んだ)の事情が分かる様になり、後にシルク・ロードが開かれるきっかけと成りました。

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衛青

 武帝は、張騫の帰国前の紀元前129年に衛青(?~紀元前106年)に1万騎の兵を援けて出撃させました。
衛青は武帝の2番目の皇后衛氏の弟で才能に恵まれ、武帝の寵愛を受けていました。
彼は長城を越えて甘粛省に攻め込み匈奴を破り、紀元前127年にはオルドス地方を奪回し、紀元前119年迄に7度遠征軍を率いて匈奴と戦い、多くの軍功を上げたのです。

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霍去病

 衛青と並んで匈奴征討に活躍した人物が、彼の甥の霍去病(かくきょへい、紀元前140年~紀元前117年)です。
霍去病は18歳で武帝に仕え、叔父衛青の匈奴征討に従って軍功を上げ、紀元前119年には衛青と共に其々5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い、約7万の匈奴兵を倒しました。
敗れた匈奴は遠く漠北に去り、以後20年の間、漢と匈奴の大規模な衝突は生じなかったのですが、霍去病は紀元前117年にわずか24歳で病死します。

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前漢時代の中央アジア(Wikipediaより)

 中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味、当時の中国の馬に比べて、背が高く大型の馬で早く走った)の産地として知られていました。
張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得する為に李広利(?~紀元前90年)に大宛遠征を行わせます。
李広利は、武帝が寵愛した李夫人の兄で、武帝に重用された人物です。
李広利は紀元前104年の遠征には失敗したのですが、紀元前102年の遠征には成功し、目的であった多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせました。
以後、中国名産の絹と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク・ロードを利用して盛んに行われることになります。

 李広利は、紀元前99年・紀元前97年に匈奴遠征を行ったものの失敗に終わり、紀元前90年の第3回遠征の時に外モンゴル迄攻め入ったのですが敗北し、匈奴に捕えられて殺されます。
紀元前99年の遠征の際、李陵は8日間にわたる単于本隊との戦いで部下の殆どを失い、匈奴に降りました。
この李陵の罪が論議された時、李陵を弁護して武帝の怒りをかい、宮刑(去勢される刑)を受け、出獄後執筆に専念し、名著「史記」を著したのが司馬遷(紀元前145年頃~紀元前86年頃)です。

 紀元前119年、匈奴に大打撃を与えて漠北に追いやった漢は、以後南方と東方に領土を拡大して行きました。

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前漢時代の東アジア

 南方では、秦末の混乱に乗じて、南海郡慰(軍事の最高官)であった趙陀(ちょうだ)が南越(紀元前203年~紀元前111年)を建国し、華南からヴェトナム北部を領有、越族を支配していました。南越は漢に服属していたのですが、事実上独立国で漢の入朝の命令に従わず、武帝は南越の内紛に乗じて紀元前111年に南越を滅ぼして9郡を設置し、これにより漢の領土はヴェトナム北部に迄及ぶように成りました。

 東方の朝鮮では衛氏朝鮮(紀元前190年頃~紀元前108年)が存続しており、この国は漢初の燕王の臣であった衛満が北朝鮮に亡命し、箕子朝鮮の王の信任を受けていたのですが、紀元前190年頃に国を奪って建てた国です。
漢は衛満を遼東太守の外臣として周辺の諸部族を服属させました。

 衛氏朝鮮も入朝は無く、紀元前109年に大軍を陸海路から送り込み、その戦いは苦戦の連続でした
が、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟(げんと)郡の4郡を設置しました。
このうち楽浪郡は中国文化が東方へ伝播する拠点として栄え、ここを経由して中国文化が古代の日本に入ってきたのです。

 この様にして漢は、東は朝鮮、南はヴェトナム、西は中央アジア、北は長城の北に迄及ぶ中国始まって以来の大帝国に成長しますが、この発展をもたらした度重なる対外遠征により、豊かであった国の財政も苦しく成っていました。
この財政難を解決する為に武帝は様々な政策を展開します。

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五銖銭

 紀元前119年には、塩と鉄を専売とし(後に酒も専売となる)、同年、「五銖銭」(銖は重さの単位)を鋳造させ、貨幣の私鋳と物価高騰を防ごうとします。

 紀元前115年には、均輸法が発布されました。
均輸法は、均輸官を郡国に置き、特産物を税として強制的に貢納させ、これを不足地に転売して物価の平均を図る政策で、物価調節の名の下に国庫の収入増をねらった政策で、更に紀元前110年には平準法を実施します。
平準法は、物資が余り、価格が下がった時に政府が購入して貯蔵しておき、物資が不足し価格が高騰した時に放出して、物価の維持を図るものですが、これも物価調節の名の下に国庫の収入増を図った政策でした。
更に売位・売官迄行ったので、社会不安が増大していきました。

 武帝の死後、昭帝(在位紀元前87年~紀元前74年)が8歳で即位し、若くして亡くなった霍去病の弟の霍光が政敵を倒し、摂政となり独裁権を掌握します。
昭帝は在位13年で崩御、子が無かったので甥にあたる廃帝が跡を継いだのですが、僅か27日で廃位され、武帝の曾孫が宣帝(10代、在位紀元前74年~紀元前49年)として即位します。
宣帝は18歳で即位し、43歳で崩御する迄25年間在位し、その賢明で民間の事情にも通じた人柄から人望も高かったのです。

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呼韓邪単于と王昭君

 当時、匈奴では内紛が起こり5人の単于が並び立ちます。
これを統一したのが14代呼韓邪(こかんや)単于で、やがて兄も単于を称したため、兄と匈奴を東西に二分し(紀元前54年)、後に兄と戦って敗れた呼韓邪単于は南下し、宣帝に拝謁して援助を求めます(紀元前51年)。

 2年後に宣帝は崩御、元帝(在位紀元前49年~紀元前33年)が即位しました。
東匈奴の呼韓邪単于は内モンゴルで漢に服属しており、漢と東匈奴は同盟して西匈奴を攻めて滅ぼし(紀元前36年)、喜んだ呼韓邪単于は紀元前33年にも来朝し公主を賜り、漢と姻戚になりたいと請いました。
この時、元帝が匈奴との和親を保つ為に呼韓邪単于に与えたのが王昭君なのです。

 元帝の頃、後宮には多くの宮女が居り、皇帝は全ての女を見ることが出来ないので、画工に宮女の姿を描かせ、それを見て美しい女を召していました。
王昭君は絶世の美女でしたが、画工に賄賂を送らなかったので醜く描かれ、元帝は匈奴に与える女に王昭君を選んだと云われています。
別れに際して現れた王昭君を見て、元帝は驚き後悔したと伝えられ、王昭君は泣く泣く匈奴に嫁しその地で亡くなります。
この悲話は後に多くの文学作品に取り上げられ、特に元代に書かれた戯曲(元曲)の「漢宮秋」は有名です。

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王昭君

 漢では、武帝の頃から皇帝の秘書の長官(尚書令)が重用され、実権を持つように成りました。
それに伴い、皇帝に近侍する者が政治の実権を持つようになり、その代表が外戚と宦官でした。
特に年少の皇帝が即位した時や皇帝が政治に関心を持たない時等に、その状況が顕著となります。

 元帝のあとの成帝(12代、在位紀元前33年~紀元前7年)が治世の後半に女色におぼれた頃から、元帝の后(成帝の生母)の王氏一族が外戚として権勢を持つようになり、王氏一族の10人が諸侯に封じられました。

 王莽(おうもう、紀元前45年~後23年)は、父が早く死んだ結果、外戚の王氏のなかで最初は不遇でしたが、その間に儒学を学び、後に実力が認められて高官となり、王氏を代表する人物に成りました。

 王莽は、成帝の次の哀帝が在位6年で崩御すると、9歳の平帝(紀元前1年~後5年)を立てますが、後に毒殺し、僅か2歳の孺子嬰を立てて摂政となり、事実上実権を握り、後8年に天命が下ったと称して、孺子嬰を廃して自ら皇帝の位に就き、国号を「新」と称し、ここに15代、約200年間続いた劉邦以来の前漢(紀元前202年~後8年)は終に滅亡します。

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王莽帝位簒奪

ジョークは如何?

日本軍がシンガポールを攻めたとき、イギリス人は豪語した。

「なあに、大丈夫さ。イギリス人兵1人は、優に日本兵10人に相当する。」

ところが、あっけなくシンガポールは落ちた。司令官パーシバル将軍が新聞記者に次のように述べた。

「残念、日本兵は11人もやって来た。」


続く・・・

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