2014/08/31

歴史を歩く40

<9黄河文明⑪>

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後漢の版図

7 後漢の再統一

 王莽(紀元前45年~紀元後23年、在位8年~23年)は、所謂「禅譲」の形をとって皇帝の位につき、国号を「新」と称しました。

 王朝の交替には「禅譲」と「放伐」の2つの形式が在り、「禅譲」は孟子の「易姓革命」説による有徳者に位を譲る、平和的な政権の移譲の形式を言い、これに対して「放伐」は武力による政権奪取の形式を言います。
今迄の中国史での政権交代は「放伐」で、「禅譲」の形式を用いたのは王莽が最初でした。

 王莽は、周政治の復活を掲げ、復古主義的な改革を行い、先ず土地制度については、天下の土地をすべて「王田」とし、「奴婢(ぬひ)」(奴隷)を「私属」と改め、その売買を禁止、一定以上の土地の所有を制限して余分な土地を分与する様命じたのでした。

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後漢初期の群雄割拠図

 前漢末以来、大土地所有制が進み、各地の地主は豪族化していました。
豪族とは広大な土地と多くの奴婢、農民を支配下におき、自分の土地を守る為に私兵を所有した有力者で、彼らは官職を独占し、経済的、社会的、軍事的な有力者に成長し、地方政治の実権を握るようになっていたのです。

 豪族による土地の兼併が進み、多くの農民は土地を失い、土地を離れて流民となり、又身を売って奴婢と成って行きました。
王莽の改革は、このような現状を改めようとしたものでしたが理想的に過ぎ、豪族の強い反発に遭遇します。

 又貨幣制度も、何度となく改め、様々な種類の貨幣を発行した結果、物価の変動が著しく経済は大混乱をきたしました。

 更に儒教思想により、周辺異民族の「王」の称号を奪い、全て「侯」に改めた為、各地の諸部族が反乱を起こし、王莽は、匈奴に対しては30万、南方に対して20万の大軍を送ったものの、戦果は決して成功とは言い難く、軍事費の増大は農民の負担を重くし、各地で農民暴動が発生しました。

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赤眉軍入城

 18年に山東で起こった農民反乱は、たちまち華北一帯に及び、反乱軍は眉を赤く染めて目印とした為、この農民反乱は「赤眉の乱」(18年~27年)と呼ばれ、その頃、南方でも「緑林軍」と称する農民反乱が発生しています。

 劉秀(紀元前6年~後57年)は、前漢6代皇帝景帝の6代目の子孫で、一族は紀元前40年頃に南陽郡(湖北省)に移封され、その地で豪族化していました。
赤眉の乱が起きると、劉秀も南陽で挙兵し、同族の劉玄を擁立し、王莽の大軍を破り(23年)、河北に進出します。

 23年に緑林軍は長安に入城、王莽を殺害した結果「新」は僅か15年で滅亡しました。

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劉秀後の光武帝

 25年には赤眉軍が長安に入城、劉玄を倒し、掠奪と暴行を繰り返し、人心を失うなかで、河北の平定にあたっていた劉秀は人望を集め、劉玄殺害の一報が入ると、豪族の支持を得て洛陽で皇帝の位について漢を復活しました。
これが後漢(25年~220年)で、劉秀は後漢の初代皇帝、光武帝(在位25年~57年)に成ります。
光武帝は、その後赤眉の乱を討ち(27年)、各地に割拠した群雄を破り、全土を統一しました(36年)。

 統一後、光武帝はヴェトナムに出兵、徴(チュン)姉妹の乱(40年~43年)を平定して北ヴェトナムを制圧、又この頃、匈奴が南北に分裂(48年)した機会を逃さず、南匈奴を服属させました(49年)が、その後は対外的には消極策を取ります。

 内政では、豪族と結んで外戚の力を抑え、豪族との衝突を出来るだけ避ける政策を推進し、後漢の官僚や軍人の大部分は豪族出身者で占められていたことからも、後漢は豪族の連合政権という性格が強かったのです。

 光武帝は、民生の安定をはかり奴隷解放令を何度も出しました。
又儒学を復興・奨励した結果、儒教の道徳思想が一般に広く流布したのです。

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漢委奴国王印

 光武帝はその在位33年におよび、西暦57年に63歳で崩御、明帝(在位57年~75年)が即位します。
倭の奴国王が朝貢し、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を授かったのはこの年(57年)のことで、この金印は江戸時代に博多の対岸、志賀島で発見されました(1784年)。
  
 明帝の時代には国内が安定し、国力は隆盛に向かい、明帝は従来の対外消極策から積極策に転じ、
73年、竇固(とうこ)等が北匈奴を撃破しますが、この匈奴討伐に従軍して軍功をあげた人物が班超(32年~102年)で、彼は同年西域招撫の任を受けて西域に赴きました。

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班超

 班超は、以後西域に留まること31年、この間、西域都護(西域統治機関である西域都護府の長官)に任じられ(91年)、パミール高原の東西にある50余ヶ国を服属させ、後漢の勢力を西域に及ぼし、102年に老齢に達し帰還を許され、洛陽に帰郷が叶うものの1ヶ月後に亡くなります。
時は既に4代和帝の時代に代わっていました。

 班超は、97年に部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣しましたが、甘英は安息(パルティア)を経て条支国(シリア)に達したものの、大海(地中海説とペルシア湾説の両方がある)の航海が困難であること聞き、引き返したと記録されています。

 明帝の時代の67年に仏教が中国に伝わったと歴史書には書かれることが多いですが、最近の研究では紀元前2年頃に伝来したことになっています。

 明帝の次の章帝(在位75年~88年)迄は、外戚が遠ざけられていましたが、第4代の和帝(在位88年~105年)が10歳で即位したため、竇太后や外戚の竇憲(とうけん)が実権を握るようになりました。
竇憲は89年に北匈奴を討って大功を立て、その専横は目に余るように成り、和帝は宦官と結んで竇氏一族を滅ぼし(92年)、親政を行いました。

 章帝から和帝の時代は、班超の活躍により西域に領土が拡大し、対外的には後漢の勢威が最も隆盛した時期でしたが、国内では以後幼少皇帝が相次ぎ、外戚と宦官の対立、専横が熾烈を極め、政治は乱れ、後漢は次第に衰退して行くことになります。

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後漢時代の西域

 外戚は、母方の親戚を意味しますが、今までに出てきた外戚は皇后一族の意味で使われており、多くの場合、皇帝が崩御し、若い(幼い)子が皇帝位に就いた時、皇后の父或いは兄弟(皇帝から見て、祖父・伯父・叔父)がその地位を利用して実権を握るケースが以後ますますひどくなっていいきます。

 宦官は後宮に仕える去勢された男子であることは有名ですが、古代より西アジア・インドの後宮には多くの宦官が存在し、中国でも古くは宮刑(去勢される刑)に処せられた罪人や異民族の捕虜が宦官として使われていました。
後に宦官が皇帝の身辺に存在して、権力を握るようになると、自ら志願して手術を受け宦官となる者も出てきます。
中国史上では特に後漢と明でその弊害が激しく、古代日本は中国から様々な文化を取り入れましたが、幸いにもこの宦官の制度だけは取り入れられませんでした。

 後漢では、4代和帝(10歳で即位)以来、幼少皇帝が相次ぎ、5代殤帝(生後100余日)、6代安帝(13歳)、8代順帝(11歳)、9代冲帝(2歳)、10代質帝(8歳)、11代桓帝(15歳)、 12代霊帝(12歳)、14代献帝(9歳)と実情でした。

 皇帝交替の度毎に、外戚が権勢をふるい、外戚が排除されると宦官が権力を握り、この間、安帝の即位の翌年に西域都護は廃止され (107年)、後漢の勢力はもはや西域には及ばなくなっていたのです。

 桓帝(在位146年~167年)の治世の終わり頃の166年に、大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者と称する一行が、日南(ヴェトナム中部)に到着し、入貢したことが歴史書に記録されています。

ジョークは如何?

イラク攻撃に対する反対運動は過激になる一方だった。
毎日毎日、「戦争反対!」「イラクに平和を!」などの声があちこちであがっていた。
中には暴力的手段に訴えるものまで出てきた。
警察は路上でのデモを阻止するために催涙弾まで持ち出す始末だ。

そんなある日、過激派反対グループが決死の最終作戦を行うために集会を開いた。
そして、グループのリーダーはメンバーに向かって開口一番こういった。

「いいか!これはもう戦争だ!」

続く・・・
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