歴史を歩く41
<9黄河文明⑫>

黄巾の乱
8宦官と外戚、内政の崩壊
8代順帝の皇后梁(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間にわたって権力を掌握してきましたが、桓帝の時に一族が滅ぼされ(159年)、以後宦官の勢力が強まり、朝廷は宦官とその推薦で役人となった者によって占められ、この宦官の横暴に対して儒教学派の清廉な官僚達(党人)が朝廷で宦官排斥を計画しますが、逆に宦官によって拘束され、出身地での終身禁錮を申し渡されました(166年)。
この出来事を「党錮(とうこ)の禁」と呼びます。
第2次「党錮の禁」は霊帝時代の169年に起きました。
宦官皆殺しの計画を知った宦官達は、軍隊を動かして機先を制して首謀者の陳蕃(ちんばん)を襲い、竇武(とうぶ)を自殺に追い込み、更に党人100余名を殺害、600名~700名を禁錮とし、党人を支持した太学の書生(学生)1000人以上を逮捕、投獄しました。
二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官全盛の時代を迎えましたが、宦官に操られた霊帝(167年~189年)治世の184年に、ついに大農民反乱が発生します。
この反乱が「黄巾の乱」なのです。

張角(現代中国イラスト)
有名な「三国志演義」は冒頭「この度の乱の源をただせば、およそ桓・霊二帝より始まったといえる。桓帝は正義の士を弾圧し、宦官を重用した。桓帝崩じ、霊帝即位するや、大将軍竇武・太傳陳蕃両名が相ともに輔佐に当った。折しも宦官曹節らが権力を壟断しており、竇武・陳蕃これを誅せんと謀ったが、事破れて却って殺害され、これよりして宦官はいよいよ専横をきわめることとなった。」と「党錮の禁」について触れ、次いで張角が黄巾の乱を起し、その討伐に劉備、関羽、張飛が立ち上がる「桃園の義」へと進んで行きます。

桃園の義
政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民に重く圧し掛かってきました。
多くの農民が土地を捨てて逃亡し、流民と成って行きました。
その様な彼等の心を捉えた思想が「太平道」です。
黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の「太平道」を組織します。
張角は、神仙説を受けて、呪文で病人に懺悔させ、護符を沈めた水を飲ませて、病気を治すと称して信者を集め、太平道は生活に苦しむ河北・山東の農民の間にたちまち広まり、10年余りで数十万人の信者を集めたのでした。
184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵しました。
彼は自ら天公将軍と称し、信者を36の軍隊組織に編成し、目印に黄色の布(巾)を着けさせたので、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれます。
張角自身はこの年に病死し、乱の中心勢力は同年末迄に後漢に協力した地方豪族によって鎮圧されたのですが、その残党や呼応した反乱が各地で相次いで起こり、討伐に従事した諸将が各地に割拠し、後漢は崩壊に向かっていきます。

曹操
曹操の長子、曹丕が魏王になると、後漢最後の皇帝献帝(14代、在位189年~220年)は曹丕に禅譲し、曹丕は魏王朝を樹立し、14代約200年間続いた後漢は、220年に終に終焉の時を迎えました。
9 漢の社会と文化
戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、各地に広大な土地を所有し、多くの奴婢(ぬひ、奴隷、奴は男奴隷・婢は女奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族が現れます。
漢代の農民の多くは彼等の支配下に入り、半奴隷的な状態と成って行きました。
前漢の末、哀帝の時(紀元前7年)に、大土地所有の制限と奴婢を制限し、小農の保護を目的とした限田策が考案されたのですが、反対が強く、実施されることは在りませんでした。

郷挙里選のイメージ
当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推薦し官吏とする方法)と呼ばれ、「郷挙里選」で推薦された人物は、ほとんど地方豪族の子弟でした。
こうして豪族は経済的、社会的だけでなく、政治的にも官職を独占して権力を握る様に成り、特に後漢は地方豪族が劉秀を押し立ててつくった連合政権の性格が強いものでした。
漢代文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化、歴史書の編纂、製紙法の発明です。
漢代初期、法家、道家思想が支配的でしたが、前漢の武帝は、董仲舒の献策を入れ儒学を官学とし、当時儒学の重要な古典とされた五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」(らいき))を教え、文教を司る為に五経博士を置きました。

鄭玄
儒学が官学とされ、官吏に成る為には儒学の教養が必要とされた結果、漢代を通して儒学が盛んで、学者達は儒学の古典(特に五経)の復旧と訓詁学(古典の字句解釈・注釈を主とする学)に努めました。
後漢の馬融(79年~166年)や鄭玄(じょうげん、127年~200年)はその代表的な学者として知られています。
中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれてきました。
そのなかで「正史」と呼ばれる歴史書は、中国の古代から明迄の各時代について正統と認められてきた紀伝体の歴史書で25種あり、「二十五史」と呼ばれています。
中国では、一般的に前の王朝の歴史を次の王朝が記録し、唐以後は勅命で前王朝の正史が編纂されるようになります。
正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・・と続くのですが、このうち漢代に書かれたものは「史記」と「漢書」です。

司馬遷(木巻に注意)
「史記」の著者は司馬遷(紀元前145年頃~紀元前86年頃)、陜西省西安出身、代々史官の家に生まれ、10歳頃から古典を読み、20歳で修史の記録収集の為各地を旅行し、23歳頃武帝に仕えました。父の遺志に従って太史令(天文・暦学・修史を扱う役所の長官)と成り(紀元前108年)ますが、前述した李陵を弁護して、武帝の怒りに触れて死刑判決を受けたものの(紀元前99年)、宮刑(去勢されて宦官になる刑)によって死を免れ、出獄後修史に励み、「史記」130巻を完成させました(紀元前91年)。
「史記」は、五帝から武帝の時代迄を、「本紀」、「表」、「書」、「世家」、「列伝」に分けて書かれており、この記述の形式を「紀伝体」と呼び、以後の「正史」はこの形式で記述されていきます。
「本紀」は、王、皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたもので、「五帝本紀」、「夏本紀」、「殷本紀」、「周本紀」、「秦本紀」、「始皇本紀」、「項羽本紀」、「高祖本紀」、「呂后本紀」、「孝文本紀」、「孝景本紀」、「孝武本紀」の12から成っています。
項羽は皇帝には成ることは在りませんでしたが、司馬遷はあえて彼を本紀に入れており、ここに司馬遷の項羽に対する評価が伺えます。
2代皇帝の恵帝でなく実権を握っていた呂后本紀を入れ、以後の文帝、景帝、武帝と続いています。
「表」は系図、年表で10巻から成り、「書」は、制度、音楽、兵法、暦、天文、治水土木技術、貨幣を主とする経済史等が8巻にまとめられています。
「世家(せいか)」は、列国や諸侯の歴史を30巻にまとめたものであり、「列伝」は重要人物の伝記で70巻から成っており、「史記」のなかでも特に興味深い書物が「列伝」です。
「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国歴史の父」と呼ばれています。

班固
班固(32年~92年)は、陜西省出身、先祖は楚の名族、司馬遷と並ぶ後漢の有名な歴史家であり、西域経営に活躍した班超の兄にあたります。
父の遺志(司馬遷の「史記」に続く歴史書の編纂)を継いで、20余年の歳月をかけて「漢書」(かんじょ)120巻を著しますが、実際には彼は獄死した為、その妹が補って完成させました。
班固は和帝の時代に行われた竇憲(とうけん)の匈奴征伐に従軍し(89年)、後に竇憲以下、外戚の竇氏が滅ぼされるなかで、連座して捕らえられ獄死しています。
「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡迄、前漢一代の歴史のみを扱っていますが、1つの王朝の歴史だけを書くという記述形態が以後の正史に受け継がれることになりました。
この「漢書」の地理志に初めて倭のことが書かれています。
「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り、分かれて6余国と為る。歳時を以って(定期的に)来たり献見すと云う」。これが日本に関する最古の記録です。

蔡倫
蔡倫(さいりん、?~121年頃)は、紙の発明者として知られ、彼は明帝の時、宦官として宮廷に入り、宮中の諸道具製作の長官と成りました。
樹皮、麻布、漁網、ぼろきれ等で紙をつくり、105年に和帝に献上しました。
これが紙の始まりとされていますが、それ以前にも原始的な紙が造られていた記録は存在するのですが、筆記用の紙は蔡倫に始まるとされています。
従って最近の教科書には、蔡倫は製紙法の改良者として記載されています。
それまでは書写の材料としては木簡、竹簡が使用されていました。
薄く削った木片や竹片の表面を平らにし、両側に小さな穴をあけ、ひもで繋ぎ合わせ、保存するときは巻いて束にしたことから、1巻、2巻という言葉が生まれました。
書体としては、隷書が漢代を通じて広く使われましたが、後漢末に隷書から楷書が作られて一般化していきました。
ジョークは如何?
ナチス時代のドイツの男女が結婚することになった。
その時、秘密警察に、結婚に至る履歴を提出しろ、と要求された。
「偉大なる我らが父、ヒトラー総統の推薦で知り合った。」
また、夫婦はヒトラーの恩も忘れずにこう書いた。
「国民は総統を心から慕っておられる」
次の日、彼らは秘密警察に連行された。罪状は以下の通り。
「公文書不実記載罪」
続く・・・

黄巾の乱
8宦官と外戚、内政の崩壊
8代順帝の皇后梁(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間にわたって権力を掌握してきましたが、桓帝の時に一族が滅ぼされ(159年)、以後宦官の勢力が強まり、朝廷は宦官とその推薦で役人となった者によって占められ、この宦官の横暴に対して儒教学派の清廉な官僚達(党人)が朝廷で宦官排斥を計画しますが、逆に宦官によって拘束され、出身地での終身禁錮を申し渡されました(166年)。
この出来事を「党錮(とうこ)の禁」と呼びます。
第2次「党錮の禁」は霊帝時代の169年に起きました。
宦官皆殺しの計画を知った宦官達は、軍隊を動かして機先を制して首謀者の陳蕃(ちんばん)を襲い、竇武(とうぶ)を自殺に追い込み、更に党人100余名を殺害、600名~700名を禁錮とし、党人を支持した太学の書生(学生)1000人以上を逮捕、投獄しました。
二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官全盛の時代を迎えましたが、宦官に操られた霊帝(167年~189年)治世の184年に、ついに大農民反乱が発生します。
この反乱が「黄巾の乱」なのです。

張角(現代中国イラスト)
有名な「三国志演義」は冒頭「この度の乱の源をただせば、およそ桓・霊二帝より始まったといえる。桓帝は正義の士を弾圧し、宦官を重用した。桓帝崩じ、霊帝即位するや、大将軍竇武・太傳陳蕃両名が相ともに輔佐に当った。折しも宦官曹節らが権力を壟断しており、竇武・陳蕃これを誅せんと謀ったが、事破れて却って殺害され、これよりして宦官はいよいよ専横をきわめることとなった。」と「党錮の禁」について触れ、次いで張角が黄巾の乱を起し、その討伐に劉備、関羽、張飛が立ち上がる「桃園の義」へと進んで行きます。

桃園の義
政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民に重く圧し掛かってきました。
多くの農民が土地を捨てて逃亡し、流民と成って行きました。
その様な彼等の心を捉えた思想が「太平道」です。
黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の「太平道」を組織します。
張角は、神仙説を受けて、呪文で病人に懺悔させ、護符を沈めた水を飲ませて、病気を治すと称して信者を集め、太平道は生活に苦しむ河北・山東の農民の間にたちまち広まり、10年余りで数十万人の信者を集めたのでした。
184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵しました。
彼は自ら天公将軍と称し、信者を36の軍隊組織に編成し、目印に黄色の布(巾)を着けさせたので、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれます。
張角自身はこの年に病死し、乱の中心勢力は同年末迄に後漢に協力した地方豪族によって鎮圧されたのですが、その残党や呼応した反乱が各地で相次いで起こり、討伐に従事した諸将が各地に割拠し、後漢は崩壊に向かっていきます。

曹操
曹操の長子、曹丕が魏王になると、後漢最後の皇帝献帝(14代、在位189年~220年)は曹丕に禅譲し、曹丕は魏王朝を樹立し、14代約200年間続いた後漢は、220年に終に終焉の時を迎えました。
9 漢の社会と文化
戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、各地に広大な土地を所有し、多くの奴婢(ぬひ、奴隷、奴は男奴隷・婢は女奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族が現れます。
漢代の農民の多くは彼等の支配下に入り、半奴隷的な状態と成って行きました。
前漢の末、哀帝の時(紀元前7年)に、大土地所有の制限と奴婢を制限し、小農の保護を目的とした限田策が考案されたのですが、反対が強く、実施されることは在りませんでした。

郷挙里選のイメージ
当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推薦し官吏とする方法)と呼ばれ、「郷挙里選」で推薦された人物は、ほとんど地方豪族の子弟でした。
こうして豪族は経済的、社会的だけでなく、政治的にも官職を独占して権力を握る様に成り、特に後漢は地方豪族が劉秀を押し立ててつくった連合政権の性格が強いものでした。
漢代文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化、歴史書の編纂、製紙法の発明です。
漢代初期、法家、道家思想が支配的でしたが、前漢の武帝は、董仲舒の献策を入れ儒学を官学とし、当時儒学の重要な古典とされた五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」(らいき))を教え、文教を司る為に五経博士を置きました。

鄭玄
儒学が官学とされ、官吏に成る為には儒学の教養が必要とされた結果、漢代を通して儒学が盛んで、学者達は儒学の古典(特に五経)の復旧と訓詁学(古典の字句解釈・注釈を主とする学)に努めました。
後漢の馬融(79年~166年)や鄭玄(じょうげん、127年~200年)はその代表的な学者として知られています。
中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれてきました。
そのなかで「正史」と呼ばれる歴史書は、中国の古代から明迄の各時代について正統と認められてきた紀伝体の歴史書で25種あり、「二十五史」と呼ばれています。
中国では、一般的に前の王朝の歴史を次の王朝が記録し、唐以後は勅命で前王朝の正史が編纂されるようになります。
正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・・と続くのですが、このうち漢代に書かれたものは「史記」と「漢書」です。

司馬遷(木巻に注意)
「史記」の著者は司馬遷(紀元前145年頃~紀元前86年頃)、陜西省西安出身、代々史官の家に生まれ、10歳頃から古典を読み、20歳で修史の記録収集の為各地を旅行し、23歳頃武帝に仕えました。父の遺志に従って太史令(天文・暦学・修史を扱う役所の長官)と成り(紀元前108年)ますが、前述した李陵を弁護して、武帝の怒りに触れて死刑判決を受けたものの(紀元前99年)、宮刑(去勢されて宦官になる刑)によって死を免れ、出獄後修史に励み、「史記」130巻を完成させました(紀元前91年)。
「史記」は、五帝から武帝の時代迄を、「本紀」、「表」、「書」、「世家」、「列伝」に分けて書かれており、この記述の形式を「紀伝体」と呼び、以後の「正史」はこの形式で記述されていきます。
「本紀」は、王、皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたもので、「五帝本紀」、「夏本紀」、「殷本紀」、「周本紀」、「秦本紀」、「始皇本紀」、「項羽本紀」、「高祖本紀」、「呂后本紀」、「孝文本紀」、「孝景本紀」、「孝武本紀」の12から成っています。
項羽は皇帝には成ることは在りませんでしたが、司馬遷はあえて彼を本紀に入れており、ここに司馬遷の項羽に対する評価が伺えます。
2代皇帝の恵帝でなく実権を握っていた呂后本紀を入れ、以後の文帝、景帝、武帝と続いています。
「表」は系図、年表で10巻から成り、「書」は、制度、音楽、兵法、暦、天文、治水土木技術、貨幣を主とする経済史等が8巻にまとめられています。
「世家(せいか)」は、列国や諸侯の歴史を30巻にまとめたものであり、「列伝」は重要人物の伝記で70巻から成っており、「史記」のなかでも特に興味深い書物が「列伝」です。
「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国歴史の父」と呼ばれています。

班固
班固(32年~92年)は、陜西省出身、先祖は楚の名族、司馬遷と並ぶ後漢の有名な歴史家であり、西域経営に活躍した班超の兄にあたります。
父の遺志(司馬遷の「史記」に続く歴史書の編纂)を継いで、20余年の歳月をかけて「漢書」(かんじょ)120巻を著しますが、実際には彼は獄死した為、その妹が補って完成させました。
班固は和帝の時代に行われた竇憲(とうけん)の匈奴征伐に従軍し(89年)、後に竇憲以下、外戚の竇氏が滅ぼされるなかで、連座して捕らえられ獄死しています。
「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡迄、前漢一代の歴史のみを扱っていますが、1つの王朝の歴史だけを書くという記述形態が以後の正史に受け継がれることになりました。
この「漢書」の地理志に初めて倭のことが書かれています。
「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り、分かれて6余国と為る。歳時を以って(定期的に)来たり献見すと云う」。これが日本に関する最古の記録です。

蔡倫
蔡倫(さいりん、?~121年頃)は、紙の発明者として知られ、彼は明帝の時、宦官として宮廷に入り、宮中の諸道具製作の長官と成りました。
樹皮、麻布、漁網、ぼろきれ等で紙をつくり、105年に和帝に献上しました。
これが紙の始まりとされていますが、それ以前にも原始的な紙が造られていた記録は存在するのですが、筆記用の紙は蔡倫に始まるとされています。
従って最近の教科書には、蔡倫は製紙法の改良者として記載されています。
それまでは書写の材料としては木簡、竹簡が使用されていました。
薄く削った木片や竹片の表面を平らにし、両側に小さな穴をあけ、ひもで繋ぎ合わせ、保存するときは巻いて束にしたことから、1巻、2巻という言葉が生まれました。
書体としては、隷書が漢代を通じて広く使われましたが、後漢末に隷書から楷書が作られて一般化していきました。
ジョークは如何?
ナチス時代のドイツの男女が結婚することになった。
その時、秘密警察に、結婚に至る履歴を提出しろ、と要求された。
「偉大なる我らが父、ヒトラー総統の推薦で知り合った。」
また、夫婦はヒトラーの恩も忘れずにこう書いた。
「国民は総統を心から慕っておられる」
次の日、彼らは秘密警察に連行された。罪状は以下の通り。
「公文書不実記載罪」
続く・・・
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コメント
曹操、赤壁の戦い
今日も一日元気で
ヽ(^▽^@)ノいつもありがとうございます
ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよう
(^^)>今日もよろしくお願いします
感謝感謝です
zzzzZ
<⌒/ヽ-、___
/<_/____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
!? 朝か
<⌒/ヽ-、___
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シャキーン!!
∧ ∧∩
(〃・ω・)オハヨウ
⊂ ノ
(つノ
(ノ
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2014-09-06 03:58 流木庵{え~ちゃん} URL 編集