2014/09/10

歴史を歩く42

10 北方民族の活動と中国の分裂

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魏・蜀・呉 三国時代の勢力図

1 三国と晋

 後漢末西暦184年に起こった「黄巾の乱」の中心勢力は、同年末迄に後漢と地方豪族によって鎮圧されましたが、その後も残党は各地で反乱を起こし続け、その結果、後漢の勢威は失墜し、討伐に従事した地方豪族が各地に割拠することとなりました。

 「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきましたが、黄巾の乱の鎮圧に立ち上がる劉備、関羽、張飛の「桃園の義」から始まります。

 黄巾の乱から5年後に霊帝が崩御(189年)、14歳の少帝(弘農王)が即位しました。
外戚と宦官の争いが続く中、残忍、凶暴な董卓が甘粛の兵を率いて洛陽に入り、少帝を廃し、9歳の皇太弟を即位させ、この人物が後漢最後の皇帝となる献帝(在位189年~220年)です。

 袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると、董卓は長安遷都(190年)を強行しますが、後に部下の呂布に殺され、献帝は洛陽に逃げ帰ったものの(196年)、その献帝を本拠地の許(河南省)に迎えたのが曹操(155年~220年)でした。

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曹操

 曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、沛国(安徽省、劉邦の故郷の近く)に生まれ、20歳で後漢に仕え、黄巾の乱の鎮圧に功績をあげて頭角をあらわし、反董卓軍に加わって挙兵し、そして献帝を許に迎えることに成功しました。
官渡の戦いで袁紹を破り(200年)勢力を強め、後漢の実権を握り、丞相と成ります(208年)。

 華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下、荊州に攻め込みました。

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劉備

 「三国志」の英雄のなかで日本でも人気がある劉備(161年~223年)はその頃荊州の劉表の下に居ました。
前漢6代皇帝景帝の子孫と称した劉備は、父を早く亡くし、母との苦しい生活のなかで初め儒学を志したのですが読書を好まず、侠客らと交わっていたと云います。
黄巾の乱が起こると、関羽、張飛と義兄弟の契りを結び、討伐軍に加わり次第に勢力を伸ばして行きました。

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諸葛亮

 その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒を図り、劉備等に密書を出したものの、この計画が漏れ、劉備は袁紹の下へ逃亡しますが、その袁紹が曹操に敗れると、荊州(湖北省)の劉表の下に身を寄せたのでした。
この荊州時代に有名な「三顧の礼」によって諸葛亮(孔明)(181年~234年)を得ます(207年)。

 南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、孔明の意見に従って、孫権(後漢末の群雄の一人で孫堅の次子、父・兄(孫策)の死後、江南を支配)と同盟を結び、有名な「赤壁の戦い」で曹操軍を破ります(208年)。

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赤壁の戦い

 赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)に対して、劉備・孫権連合軍は約3万人と云われており、偽って降伏した黄蓋(呉の武将)の「連環の計」(水上戦の経験がなく、船酔いに苦しむ曹操軍に大船同士を繋ぎ合わせる事を進言)と「火攻の計」によって曹操軍は大混乱に陥り、大敗したのでした。

 赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立しますが、結局劉備の領有が認められ (210年)、劉備は、孔明の「天下三分の計」に従い、荊州を足がかりとして益州(現在の四川省)への進出を図り、劉璋から益州を奪います(214年)。

 こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の孫権、四川の劉備に三分され、三国が鼎立することと成りました。

 220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、在位220年~226年)が魏王となり、同年献帝から禅譲を受けて帝位につき魏王朝(220年~265年)を樹立しました。

 曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、在位221年~223年)は成都で即位し、蜀(221年~263音)を建国します。

 その翌年、孫権(182年~252年、在位222年~252年)も呉王として自立し呉(222年~280年)を建国し、後に皇帝を称して都を建業(現在の南京)に置きました(229年)。

 三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強大であり、人口は、魏が約440万人、呉が約230万人、蜀は約94万人なので、その国力は人口に比例すると考えて良いと思います。
蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐の為に、呉に出兵したものの大敗を喫して逃げ帰り、白帝城で死去します(223年)。

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五丈原の位置

 劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀を支えたのが諸葛亮(孔明)ですが、彼は「出師(すいし)の表」を現し、宿敵魏との戦いに出陣 (227年)、以後幾度もの出兵を繰り返しますが華北を回復する事は叶わず、五丈原で陣没しました(234年)。
孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされます。

 魏では文帝が崩御(226年)、司馬懿(179年~251年)の権力が更に強まりますが、五丈原で孔明と戦い守り抜いたのが司馬懿でした。
彼は曹操以来4代にわたって仕えた権臣で、249年のクーデターで丞相となり、魏の実権を掌握、子の司馬昭は反抗する魏の4代皇帝を暗殺し、曹操の孫にあたる元帝を即位させました。
司馬昭は265年に死去しますが、同年、子の司馬炎(武帝、在位265年~290年)が元帝から禅譲を受けて帝位に即き、晋(西晋)(265~316)を建国します。

 武帝は、魏が滅びた最大の訳として、王族に有力者が不在で在った為と考え、司馬一族の者27人を王に封じ、軍事力を持たせ、司馬氏以外の諸将を押さえ、晋王室の守りとし、武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一したのでした。
呉は孫権から4代約60年で滅亡します。

ジョークは如何?

アメリカ訪問中にブロードウェイに招待されたフルシチョフ。生まれてはじめてみる華やかなステージが忘れられない。
若い頃から共産主義社会の建設一筋に生きてきた身。若くきれいな女性たちの踊りなんてのは無縁だったんだからなおさら。

 「帰国したらソビエトにも負けないものを作ろう。文化ってやつでも西側に遅れをとってはダメだ」

 「最高のものを結集せよ」。号令のもと早速大規模な劇場が建設され、人員が集められた。
そのこけら落としの日。来賓として招待されたフルシチョフは上機嫌。前座のボードビルやオーケストラも最高。

 そしていよいよお楽しみのレディ達の舞台が始まる。
「これが楽しみだったんだ。当然踊り子たちは粒選りなんだろう?」と横にいた責任者にフルシチョフが尋ねる。

「はい、もちろんです同志書記長。」
「最高の人材を。ということでしたので、1917年以来の共産党員のなかから選抜いたしました」


続く・・・

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コメント

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諸葛亮(孔明)好きだな

(^_^)/おはよございます
素晴らしい一日を
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今日もよろしくお願いします
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